2 【ジーク】怪しむ
「――――おかしい」
「どうかされましたか」
「……いや、独り言だ。気にするな」
アカツキ王国王都を代表する建造物、真っ白な美しい大神殿の一室にて。
唯一神シオンを信奉する宗教国家であるアカツキ王国では、国内各地に大小問わず多くの神殿が建てられているが、大神殿と名のつくものは、王都に建てられたこの神殿だけ。
一般開放された礼拝堂以外は全て立ち入り禁止とされ、王族や公爵家、神官なども正式な手続きを経て許可されなければ立ち入ることはできず、もしこの決まりを破れば厳しく罰せられるという、まさにアカツキ王国随一の聖域であった。
その聖域の中でも、特に奥まった場所にあるのがこの部屋である。
特別豪奢ということはないが、静謐な空気に満ちた神殿らしい内装で整えられ、訪れる者に自然と圧迫感を与える。
部屋の中には、二人の青年。
一人は壁際でピシッと背筋を伸ばし、もう一人は椅子に座ってゆったりと読み物をしている。
壁際に立つのは、いかにも真面目そうな顔つきの、背の高い、オレンジ色の髪の近衛騎士である。騎士の名はエイト・フォード。十五歳。イグニス家管轄の第一騎士団団長を父に持ち、幼い頃からめきめきと頭角を現した彼は、今年史上最年少で近衛騎士試験に合格を果たした。
女王直轄の近衛騎士と言えば、王族や神官、王都を守る騎士であり、剣術は勿論のこと、豊かな教養と、清廉潔白、品行方正で完璧な所作が求められると言う。他の四つの騎士団と比較しても、難易度も倍率もかなり高いことで有名だ。
そしてもう一人、読み物をしているのは、さらさらとした濃紫色の髪に、同じ色の瞳を持った、神秘的な雰囲気の青年である。
彼は近衛騎士のエイトと違い、ゆったりとした神官服を身に纏っており、明らかに主人の風格を漂わせている。年の頃は二十代中頃と言ったところだが、もっと若くも、もっと年を取っているようにも見える。どこか浮世離れした雰囲気は、神官ならではだろうか。
美しい青年だった。まるで彫像のように整った顔つきで、頬は白く、どこか生気のないところも人間離れして、一個の芸術品のようだった。
彼はアカツキ王国の最高神祇官である。通称、大神官と呼ばれる、この国で女王と肩を並べる程の――いや、実際は女王を凌ぐほどの絶大な権力者。
この世界を創造したとされる唯一神シオンの、ただ一人の代弁者。
ジーク・アスター・ルークス。フレアの婚約者である。
ここは厳しい戒律に守られた、彼にとってのオアシス。誰にも犯されないはずの聖域。
しかし大切なこの場所を荒らす不届き者が、この国には一人だけ存在する。
ついこの間のことだった。
彼女は金髪を振り乱し、聖騎士であることを声高に主張して近衛騎士を押しのけ、事前の許可もなく泣きながらこの部屋に飛び込んできたのだ。
曰く、父親が愛人を迎え入れるのを阻止してほしい、あの女を牢屋にぶち込んでほしい、それができないなら愛人と刺し違える覚悟だなどと、とんでもないことを声高に主張した。
本当に刺し違えるつもりなら全力で阻止しなければならないが、どこまで本気かもよくわからず、とにもかくにも、非常に面倒で仕方のない話である。
(全くあれは腹が立ったが……見張りの騎士も騎士だ。あんな子ども一人留めておけないなど、どうなっている)
聖騎士とは言え、たかが非力な十歳の少女。大した腕力を持っているはずもないのに、優秀な騎士が押し負け、たじたじになっていると言うのだから情けない。
あんなに酷い子どもならば、婚約者になど指名しなければよかった。
ジークとて、好きで指名した訳ではない。
女王が「そろそろ誰か娶れ」とあまりに煩く、黙らせるために了承したものの、年頃の女性を指名すれば即刻婚姻させられそうだったから、敢えて子どもを対象にし、婚姻を遅らせたのである。女王には「貴方そんな趣味があったんですか」と気味悪い目で見られたが、どんな勘違いをされようがどうでもいい。正直、結婚なんて誰ともしたくない。
子どもが成人すれば、何かそれらしい理由をつけて婚約を破棄するつもりだった。
そういう事情もひっくるめて、その相手として一番丁度よさそうなのがフレアだったのである。
すでに問題児である彼女ならば、婚約破棄したとてさしたる反対も出ないだろうし、実際フレアは傲慢で我が儘で横暴で、どうしてこの子が聖騎士に選ばれたのか、ジークさえも理解し難いほど酷い子どもだった。婚約破棄したとて、心が痛むことは万に一つもなかろうと思えた。
しかしまさか、ここまで面倒な子どもとは。
しょっちゅう大神殿に駆け込んでくるわ、どうでもいい話をピーチクパーチクとがなり立てて同情を引こうと躍起になるわ、子どもらしからぬ派手で露出の激しい、下品なドレスですり寄ってくるわ……。
ジークはもう何度も後悔している。
こちらとて酷い理由で婚約した訳だから人のことは言えないが、もう二度と婚約などするまい、と。
だが今彼の頭を悩ませているのは、彼女の無礼な振る舞い以外のことだった。
(一体、イグニス家で何が起こっている?)
初めて堪忍袋の緒が切れて、フレアに怒鳴り返したあの日以降、フレアは一度も大神殿を訪れていない。
こんなに長い間来なかったのは初めてではあったが、それ自体は、ジークは気にも留めていない。フレアのことなどどうでも良い。ようやく元の静寂を手に入れられて、ほっとした程だった。
だが、聖騎士ルカの母親、ソフィア・ローズ・イグニスが襲撃されたものの助かり、イグニス公爵含め誰一人命を落とさなかったと聞いた時は、さすがに冷静ではいられなかった。
なぜなら、ジークは予知していたからだ。
屋敷が火に包まれ、ソフィアもイグニス公爵も亡くなるのだという、最悪の予知を。
女王や一部の神官にしか知られていないが、大神官、ジーク・アスター・ルークスには、予知能力がある。一つしか特殊能力を有しない聖騎士たちと違い、彼は他にも複数の能力を持ち合わせており、予知能力はそのうちの一つである。
彼の予知能力は、突然にやってくる。
見たい時に見えるという便利なものではなく、例えば、突然目の前にそこではない光景が現れたり、同じ夢を何度も見たり、時には人の背後に、その人の死相――死んだ時の顔が現れることもある。
人の死は、変えられない。生き死にの運命だけは、大神官であるジークでも、どう足掻いてもどうしようもない。
鮮明な予知を見て、どうにかこうにかその死を回避したとしても、まるで死神にでも魅入られたかのように、また別の死が忍び寄ってくる。
死に方が変わるだけで、ジークが死の予知をしてしまった相手は、必ず近いうちに命を落としてきた。
だから、諦めていたのだ。
イグニス家の面々が燃え盛る屋敷の中で死ぬ夢を何度も見た上、ある日大神殿に謁見に来た公爵含むイグニス家の騎士たち、そのほとんどにはっきりと死相が見えた時には、そのあまりに色濃い死の感触に、ジークは久しぶりに身震いした。
これはもう避けようがない。どうしようもないのだと、その日が来るのをただ静かに待っていた。
なのに、襲撃事件が知らされた後も、ひと月、ふた月が経っても、誰も命を落としていない。襲撃事件以降、あんなに毎日のように見ていたイグニス家の死の夢も、ぱったりと見なくなった。
喜ばしいことには違いない。だが、自分の予知が外れるなど、こんなことは長い間なかった。
不気味だった。何かが起きている。ジークでさえ理解の及ばない、何か、大きな異変が。
(確か、最初に犯人として捕らえられたのはフレア……その後カイデン夫婦が捕らえられたのだったか。フレアはなぜかソフィアの屋敷にいて、彼女を暗殺者から救った、と。――なぜ屋敷にいた? ソフィアのことは嫌っているはずだ。その日偶然居合わせたにしては出来すぎている。まるでこうなることがわかっていたかのように)
疑惑がむくむくと膨れ上がる。
報告では、フレアは発火能力を使わなかったらしい。つまり別の方法でもって暗殺者たちを撃退したことになるが、本人は無我夢中でよく覚えていない、と。
十の子どもが無我夢中で暴れた程度で、大の男二人が複雑骨折と脳震盪で気を失うだろうか?
しかし当の暗殺者たちに話を聞こうにも、二人とも怪我のせいで当時のことについてはっきり覚えていないらしい。
ソフィア・ローズ・イグニスもなぜか多くを語らないと聞く。彼女に関しては縛られて転がされていた上、その直後に産気づいた訳だから記憶があやふやでも仕方ないだろうが……何とも怪しい話である。ジークが直接ソフィアを尋問すれば何かわかるかもしれないが、あの繊細そうなか弱そうな女性を問い詰めるのはどうも気が進まない。
(まあ、誰か協力者がいた、と考えるのが自然だろう。あの子一人でやったとはとても思えないし、何か企んでいたとてあれはまだ子どもだ。誰かに唆されているのか、利用されているのか……一体、誰が? 何の目的で? 気味が悪いな)
ジークはしばし熟考した後、静かに本を閉じた。
「出かけるぞ、エイト」
「! ハッ! 馬車を用意致しましょうか?」
「ああ、頼む」
「行き先は」
「小さな婚約者の家、だな」
その途端、エイトの顔が驚愕に歪んだ。
イグニス家の血を引いている訳ではないが、父親がイグニス家管轄の第一騎士団団長ということもあって、幼い頃からイグニス家の者と親しくしていた彼のこと、イグニス家の大問題児であるフレアについてはあまりよく思っていないらしい。
何より、今までジークが自らフレアに会いに行くことなど一度もなかった。
夢でも見ているのかと半信半疑のエイトに、ジークは思わず噴き出した。
「安心しろ。大した意味はない。ただ様子を観察するだけだ」
「様子、ですか」
「ああ。あれが一体何を企んでいるのか、探りに行く」
もし本当に何か企んでいるのなら、それが見過ごせない程のものならば、相応の処分は下さなければならない。協力者についても問い質し、引っ捕らえる必要がある。
アカツキ王国の為ならば、どんな幼い相手だろうと容赦はしない。
(それが、この国で生きていくと決めた、僕の使命だ)
お忍び用の服に着替え、外套を羽織る。引きこもってばかりの彼が大神殿を出るのは、実に数ヶ月ぶりのことだった。
この時、彼は考えもしなかった。
まさかこうして何気なく思い立ったこの日が、フレアにとって何よりも大切な日だったなど。




