七夕祭りの願い事 ③
「……うまく、書けなかったんだ。俺、字ぃ書くの苦手で……」
『こはろはけんき』
カー、と赤かった顔がますます赤くなる。
「こ、心桜が元気になりますようにって、書きたかったんだ! でも、なんか、よくわかんなくなって……字ぃ汚いし、あいつらも読めないって言ってたし……」
どうせ笑われるだろうと思った。一度は盛大に馬鹿にされた身だ。それも覚悟していた。
だが、二人の表情は真剣そのものだった。
「……名前を間違えているのは良くないな。叶うものも叶わんかもしれん」
「あ、俺、筆持ってくるよ!」
「すまんな」
刀士郎がパッと駆け出し、あっという間に見えなくなって、ほむらは何が起きているかわからず動揺した。
「な、直してくれるの……? 何で? 笑わねえの?」
「笑う要素がどこにある。真剣な願いを笑うなんて愚の骨頂だぞ。それに、別に読めなくはない。あいつらが大袈裟なだけだ」
その時、義勝の顔が一瞬――川面の光に照らされてだとは思うが――ほんの一瞬、輝いて見えた。
ほむらは慌てて視線を逸らし、潰れるような小さな声で「……ありがと」と返した。
その後、義勝と刀士郎に教えてもらいながら、ほむらは間違いを上から訂正した。
相変わらず汚い字には違いないが、どういう訳か、これなら誰に見られたっていいと思えた。
もう笹は流れてしまった後だったが、刀士郎が短冊を舟の形に折って、川に流してくれた。
「ありがとう、刀士郎」
(叶うといいな、俺の願い。ちゃんと、届くといいな)
舟の短冊がゆらゆら揺れていくのを眺めながら、ほむらは心の中でもう一度お願いをした。
心桜の体が、元気になりますように。
心桜が熱を出して、苦しむことがなくなりますように。
「……なあ、七夕って、どういうお祭りなの? 星がどうって言ってたけど、関係あるの?」
「お前、そんなことも知らなかったのか」と義勝。
「う、うるせえ」
「伝説だよ。織姫様と彦星様の伝説」
「伝説?」
刀士郎が、星空を指差しながら教えてくれた。
「あれが織姫様で、あれが彦星様。機織りの名人織姫様と、働き者で牛飼いの彦星様だよ。二人は結婚して仲睦まじく暮らしていたんだけど、仲が良すぎて仕事を怠けるようになっちゃうんだ。それに怒った織姫様の父親が、二人を引き離すんだよ。天の川を挟んでね」
「ふうん……」
男女のあれこれとか結婚とか、ほむらにはよくわからない。興味もなかった。自分には、きっと一生縁のないことだろう。
「でも、悲しむ二人を見て、さすがに可哀想かなって思った父親は、真面目に働くなら一年に一回だけ会わせてあげることにするんだ。それで、今日が約束の日。二人は、今夜だけ会うことができるんだよ」
大好きなのに、一年に一回しか会えない。
それは絶対に嫌だなと、ほむらはぼんやり考えた。
例えば、心桜に一年に一回しか会えないようなものだ。もし自分がそんな目に遭ったならば、その父親とやらを斬って取り決めなんてなかったことにしてやる。
「大好きなら、俺は絶対毎日会いたい」
ほむらがぽつりとそう呟いた時、どこかで爆発音が響いた。
思わず振り向くと、ちょうど先生が吹き飛ばされて川に落ちたところだった。あのギラギラ輝く小舟以外にも何か作っていたのか何なのかわからないが、いつもの光景と言えば光景である。
三人は顔を見合わせ、仕方なく先生の救出に向かった。
騒がしい七夕の夜は、あっという間に過ぎていった。
それぞれの願いを、小さな小さな短冊に乗せて。
――――あの願いは、結局どこにも届かなかった。
「――――い。おい!」
「む……?」
「おいババア! とうとう喉に餅詰まらせて死んだか!? おい!」
老婆がうっすらと目を開けると、どこかほっとした様子の青年と目が合った。
その表情を見上げて、老婆は堪らず笑みを浮かべた。
「乱蔵」
名前を呼ぶと、彼は「ケッ」と、心配して損したとでも言うように顔を歪めた。
「ったく、いつまで寝てんだよ! 休憩は終いだ! 今日中に村に着かなかったからまた野宿だぞ!? わかってんのか!?」
ぷんぷん怒った顔が、なんとも愛らしい。目つきも口も悪いが、なんと可愛い子だろうか。
荒っぽい言葉の端々から、老婆のことを心底心配してくれているのがいちいち伝わって、老婆はその都度、心がほっこりと温かくなる。
「はっはっは、大丈夫大丈夫。いざという時は私がお前を背負って山を越えるさ」
「せおッ……てめえまた俺をガキ扱いしやがんのか!?」
「子どものようなものではないか。まだ二十年も生きてないだろう」
「お断りだ!! ぜっっっってえそれだけはお断りだからな!!」
乱蔵はきゃんきゃん騒ぎながら、急いで山道を歩き始めた。
乱蔵と出会ったのは、老婆が長く勤めた仕事を辞め、一人全国行脚の旅に出てしばらくしてのことだった。
一人の旅はやはり味気ないなどと思っていたところに、いろいろ訳ありの乱蔵とひょんなことから出会い、こうして当てもなく旅をしている。
乱蔵と二人の旅は飽きることがない。賑やかで、楽しい。
それはもしかしたら、幼い頃から荒くれ者の漁師に囲まれ、騒がしく生きるのが当たり前であったからかもしれない。騒がしく賑やかな方が、自分には合っているようだ。
老婆は木陰から立ち上がり、乱蔵の後をゆっくりと追いかけ、その横顔に語りかけた。
「夢を見ていたんだ。昔、子どもの頃の夢だ」
「ああ? てめえにもガキの頃があったのか」
「ははっ、当然だろう? 私を何だと思っている」
「化け物」
「おやまあ、なかなか酷いなあ。私にもあったんだよ? 幼気で世間知らずで、臆病な子どもの頃がね」
「想像もつかねえ。お前が臆病とかあり得ねえだろ」
「生きているといろいろあるものさ。うんと長く生きてきたからね」
今はもうない江戸の世。八十年だか七十年だか、正確なところはわからないが随分昔の話だ。終わりへと向かうその時代に生まれた、名もなきちっぽけな海の子。それが彼女だった。
あの頃は本当に何も知らなかった。
ただその日その日を生きるのに必死で、楽しくて騒がしくて、自分たちがやっていることがどういうことかも、何も知らずに生きていた。
そして牢屋に入れられて、奇跡的に先生に助けられ――――穏やかな海の見えるあの場所で、新しい生活が始まった。
「大切な人たちと出会ったんだ。それが私の人生を変えた。あの街での日々は、本当に……」
そこで老婆は言葉を切った。
続きを促すような乱蔵の視線を感じたが、にっこりと笑顔を浮かべたまま「そろそろ腹が減ったなあ」と話題を逸らす。
愚かな子どもの愚かな昔話をしたところで、一体何の意味があるだろう?
意味がないなら、余計なことは言わない方がいい。
先生、心桜、刀士郎、そして…………義勝。
ここには、もう誰もいない。
皆いなくなってしまった。皆みんな死んでしまった。老婆を……ほむらを置いて。
乱蔵のおかげでほっこりと温かくなっていた心が、冷たく硬く凍えていく。
ささやかで大切な七夕の記憶さえ、今は鋭い棘のように老婆の胸に突き刺さる。
彼女は視線を落とした後、もう何も言わなかった。




