ライアの大罪 ③
『全財産没収。家名の剥奪。騎士団及びイグニス領からの永久追放。今後、イグニス家に関わることを禁ず。一切の例外を認めず、彼らに関わりをもったイグニス家の者がいれば、同罪に処す』
何一つ、うまくいかなかった。
絶対に失敗してはいけなかったのに、家族のためにうまくやらなければならなかったのに、ライアがやったことは、息子と夫を不幸のどん底に突き落としただけだった。
カイデンは、そんな彼女を庇ってくれた。自分も共犯者だ、と。
本当は何も知らなかった。カイデンは、何もしなかったのに。
違うのだと、ライアが一人でやったことなのだと、もっと強く訴えるべきだった。
なのに、できなかった。恐ろしかった。
一人で罪を背負うのが、あまりに怖くて、ただ泣くことしかできなかった。
カイデンが自分を見捨てずにいてくれたことに、縋ってしまった。
落ちぶれるというのはあっという間だ。
カイデンやライアをあんなに慕ってくれていた友人たちは、面白いほどあっさりと手のひらを返して、誰一人助けてくれる者はいなかった。
その結果、あの超問題児、フレア・ローズ・イグニスに憐れまれ拾われる始末。
カイデンにとってそれがどれだけ屈辱的なことかは、想像に難くない。大好きな夫を、自分のせいで我が儘お嬢様の使用人に堕としてしまったのだと思えば、ライアは今でも発狂しそうになる。
「――――ライア様」
惨めな気持ちで箒を掃いていると、突然声を掛けられた。
ライアが顔を上げると、憎くて憎くて仕方ないあの女が、「おはようございます」と頭を下げている。
ライアはぎゅっと箒の柄を握り締めた。
本当に、この状況は一体何なのだ。
フレアにこき使われるだけでなく、何がどうして、一度殺そうとした女まで隣に越してくるのか。これに関しては本当に意味がわからない。
落ちぶれた自分を笑いに来たのかと思ったが、ソフィアが選んだ家はあまりにボロく、改修工事のために一時的にフレアの屋敷で暮らすことになるのだから、もう本当に意味がわからない。
キッと睨み付けながら、ライアは忙しなく手を動かした。
「声掛けないで。忙しいの。見ればわからない?」
「すみません。ライア様は働き者ですね」
「はあ? 馬鹿にしてる訳!? 誰が好き好んでこんなことすると思ってるのよ!?」
「お掃除って楽しいですよねえ。綺麗になると心が洗われませんか?」
「こんなの貧乏人がやることよ! 底辺の貧乏人が……」
その底辺に、自分は落ちぶれてしまったのか。
虚しくなって、口を閉じた。
ソフィアはライアと同じように箒を手に、静かに家の前を掃き始める。居候だからと、ソフィアは積極的に家事を手伝っていた。手伝いながら、花屋の開店準備だか何だかも進めているらしい。
花屋なんて貴族の仕事ではない。この女も所詮負け組だと、公爵夫人の地位を辞退するなんて大馬鹿者だと、そう思おうとしたが、子育てや開店準備でいつも生き生きと忙しそうなソフィアを見ていると、だんだんそうも思えなくなってきた。
自分一人だけが惨めだ。取り残されている。
そんな気がして、泣きたくなる。
「嫌いよ。貴方なんて、大っ嫌い」
ぼそりと呟くと、ソフィアは「あら」と困ったように眉を下げた。
「知っています」
「……嫌な性格」
「よく言われます」
「嘘吐き」
「本当ですよ。なかなか過激なことを言われてきたもので、もう大した悪口くらいでは何とも思わなくなってきました。――いえ、まあ多少は、心を揺らされることもありますけど」
そう言いながら、ソフィアはてきぱきと手を動かしている。
彼女は、果たしてこんな女だっただろうか。
あの事件の後、ルカを出産してからしばらくはずっと引きこもっていたし、もっと気弱で繊細な女ではなかっただろうか。おどおどして情けなくて、イグニス家に相応しくない器。――いや、あの事件の前は、もっと若い頃は違った。無垢な顔をしてカイデンにすり寄る、厚かましくていやらしい女。絵ばかり描いてる変わり者。
だが、今の彼女はあの頃とも少し違う気がする。どこか覚悟の決まったような、芯の一本通ったような顔をしている。それが余計に腹立たしい。
その時唐突に、ソフィアが思いも寄らない人物の名を口にした。
「フレア様は、イザベラ様によく似ていますね」
ライアはぎょっとソフィアを凝視した。
イザベラ・サピエンティア。それは、ソフィアに地獄を見せた女の名ではないか。
そんな女の名を、こうもするりと口にするとは思わなかった。
思わず口籠もっていると、ソフィアは小さく微笑んだ。
「私、イザベラ様は素敵な人だと思っています」
「……………………は? 何言って……」
「あの御方が私を害したのだと、噂になっているのは知っています。でも、何の証拠もないでしょう。私は違うと思います。あの御方は、気性こそ激しいですけれど、そういうことをする御方ではありません。あの御方は、私を嫌っていたかもしれませんが」
「嫌がらせを受けてたんでしょ。知ってるわよ」
「嫌がらせ。どうでしょう。私を元気づけようとしてくれていたように思いますけれど。不器用な御方でした。でもロマンチックで、美しくて、幼い少女のような純真な心を持っていて。……フェルドとのことは、申し訳なく思っています。あの御方がどれだけフェルドを想っていたか知っていたのに、私はあの御方の心を踏みにじり続けてしまった。恨まれても仕方ありません」
ライアは言葉を失った。意味がわからない。
ソフィアがイザベラを慕っていたなど、あり得ない。本人の口から聞いても、とても信じられるものではなかった。
大体、イザベラがフェルドを横取りしたことは紛れもない事実だろう。なのに申し訳ないというのは違う気がする。先に婚約していたのはソフィアだ。
この女は、一体何を考えているのだ。
いよいよ気味悪く思っていると、そんなライアの心を知ってか知らずか、ソフィアはまるで自分に言い聞かせるように口を開いた。
「フレア様と話していると、まるでイザベラ様と話しているよう。いつまでうじうじしているのだと、あの御方に鼓舞されているように感じるんです。私も、こんな私も強くあらねば。でなければ、誰も守れない」
「…………」
「情けないものですね。まだたった十歳のフレア様の方が、よっぽど大人です。でも……そう、フレア様は、まだ十歳。お強い方ですけれど、守られるべき子どもです。誰か大人が傍にいなければ。支えて差し上げなければ。イザベラ様も、それを望まれるでしょう」
「……まさかあんた、隣に越してきたのって」
「内緒ですよ? フレア様に知られたら、余計なことをするなと怒られてしまいます」
悪戯っぽい笑みをこちらに向けた。
ライアは思わず顔を背けた。理解できない。
あのイザベラの娘を支えるために、こんなところに来るなんて。自分を手に掛けようとした女がいるにも関わらず。公爵夫人の地位まで手放すなんて。――いや、もしかしたらライアたちがいると知ってか? フレアのことが心配になって決意したのかもしれない。
穏やかで気弱で御しやすそうに見えて、その実頑固で豪胆で慈悲深い。
ライアには、一生かかっても同じ芸当は無理だ。たった一人では、罪を背負うことすらできなかったのだから。
こういうところに、カイデンは惚れたのだろうか。
ぎりぎりと、折り曲げてしまいそうなほど箒の柄を握り締めた。
悔しい。憎たらしい。醜悪な感情が、むくむくと腹の底から沸き起こる。
「私を、殺したいですか」
冷静な声に、顔を上げた。
ソフィアは、何もかも見通すような目で、じっとライアを見つめている。
ライアはぎゅっと眉間に皺を寄せて睨み付けた。ただそうするだけで、何も言い返せずにいるライアに、ソフィアは静かに告げた。
「私を殺さずとも、貴方は、本当に大切なものはもう全部持っている」
「……私の、何を知って……」
「逆に言えば、貴方は私を殺しても幸せにはなれない。それにちゃんと気づけなければ」
本当に、この女は何もかも見通してしまっているようだった。
ライアの醜悪な感情も、切ない恋心も、本当の望みも、何もかも。
とうとう涙が零れそうになって、ソフィアから顔を背けた。もうわかっていた。彼女には敵わない。あんな姑息な手を使おうとした時点で――いや、それよりずっと前から、ソフィアには敵わないのだと。
小さな子どもだったあの頃から、二人を羨ましく見ていることしかできなかったあの夏の終わりの日から、自分は何も変わっていないのだと。
「……あれは、どうしたの」
「あれ?」
「あれよ。……赤い瓶よ。赤い絵の具の。カイデン様から、貰ったでしょう」
喉から手が出るほど欲しかった、カイデンの心。
ソフィアは、小さく首を傾げた。
「さあ、どこかに仕舞って、それっきり。どこに置いてしまったかも、覚えていません」
「……忘れたの? 本当に」
「ええ」
遠い目で微笑むソフィアは、嘘を吐いているようには見えない。
ライアにとっては、昨日のことのように忘れられない、屈辱的な日。けれどソフィアにとっては、聞かれなければ思い出すこともなかった、遠い昔の記憶に過ぎない。
その時、背後から愛しい人の声が掛けられた。
「ライア」
振り返ると、カイデンが屋敷からこちらに歩いてくるところだった。
どことなく不安そうな顔をしている。――カイデンは基本的に無表情で何を考えているかわかりづらいところがあるが、その微妙な表情の変化は、ライアも結婚生活の中で知っていった。
遠くで見ている時は気づけなかった。ただ格好いい人だと、表面しか知りようもなかった。
近くで暮らす中で、彼のいろんな面を知るようになったのだ。
(……私は、あの御方が不安そうにしていることにも、気づけるようになった)
それだけ、カイデンが傍にいてくれたということでもある。
彼は確かにライアを愛してくれていた。こんなことになっても、ライアを見捨てず支えてくれるほど。愚かなことをした妻のことなど離縁して、見捨ててしまうのが普通なのに。
ライアの大罪は、彼の愛を疑ったところから始まったのだ。
どうして気付かなかったのだろうか。こんな大切なことに。
やり直せるだろうか。――いや、やり直さなければならない。与えられた時間は、まさに奇跡そのもの。本当は砂の地で、牢獄の中で死を待つばかりの人生だったのだ。
カイデンにもカノンにも、二度と会えないかもしれなかった。
じんわりと、涙が滲んだ。
ライアは慌てて拭い、「カイデン様!」と、まるで少女だったあの頃のように、彼の元に駆けていった。




