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フレアの剣  作者: 神田祐美子
Ⅰ フレアと仮初めの家族
32/94

ライアの大罪 ②



「カイデン様!!」


 叫びながらカイデンの傍に駆け寄ると、彼は顔を赤らめたまま目を丸くした。


「ライアか。ど、どうした」


 名前を覚えて貰っていた。

 その事に泣きそうになりながら、「えっと、迷子です!」と嘘を吐いた。


「迷子になっちゃって、そしたらカイデン様が見えたから……。どうか、あの、お屋敷まで連れて行ってくださいませ!」


 十三歳になって迷子だなんて恥ずかしいことこの上ないが、それより今はこの二人を引き離すのが先決だった。カイデンも少し戸惑ったようだが、小さく頷いた。

 そして、ソフィアに優しい顔を向けた。


「ライアを送る。今日は、もう来ない」

「はい、お気を付けて」


 彼が画材をまとめて抱えた時、ソフィアは「あ」と慌てたように赤色の瓶を差し出した。


「これ、お返ししますね。ありがとう――」

「その赤は、返さなくていい」

「え?」


 カイデンは彼女から視線を逸らした。


「君が使うといい。それとも捨ててくれ。俺はもう使わない」

「でも――」

「俺は……もう要らないんだ。そんなものは」


 辛そうにそう言って、彼は逃げるようにソフィアから離れた。

 ライアはカイデンの後を追いながら、こっそりとソフィアの方を振り返った。彼女の手には、キラキラと赤い瓶が輝いている。


 羨ましくて仕方なかった。

 その赤い瓶は、まるで彼の恋心そのものに思えた。



 それからというもの、カイデンはあの丘には行かなくなった。絵も描かなくなった。



 ライアにとって、それは喜ばしいことのはずだった。

 カイデンは明らかにソフィアを避けるようになったのだ。

 パーティーで見かけても決して声を掛けない、近寄らない。「行って来い」とフェルドの背中を押しはしても、自分はいつも遠く離れた場所で二人を見守っている。


 ソフィアに興味がなくなったのだと、ライアは思おうとした。

 あの丘の上でのあれは、まるで彼女からの告白である。だがカイデンは、本当はソフィアのことなど何とも思っていなかった。だからあの告白は、彼にとってただ迷惑なだけだったのだ。あの赤い瓶が恋心に思えたのは、全部自分の勘違いだったのだ、と。


 けれど、時が経てば経つほど、そうは思えなくなった。


 カイデンは、ずっとソフィアのことを大切に想っている。ずっとずっと大切に想っている。

 だからこそ彼女の未来を考えて、フェルドの気持ちも慮って、身を引いたのではないか。


 だって彼がソフィアを見つめる視線は、他の誰に向けるものより優しい。

 優しくて、穏やかで、思いやりに満ちている。


 それはずっと彼のことを見てきたライアだからこそ、確信できたことだった。


 やがて、ソフィアはフェルドと婚約した。


 フェルドの度重なるアプローチを受けて、「自分に公爵夫人は務まらない」と断り続けていたソフィアだったが――彼女の心の内には未だにカイデンがいたのではないかと、ライアは考えているが――フェルドの恋心が、ようやく実ったような形だった。


 安心はしなかった。ソフィアに対するライアの憎悪は、ますます増幅した。

 カイデンが二人の婚約を祝福する様子を見て腸が煮えくり返り、彼にあんな顔をさせるソフィアが憎くて憎くて仕方なかった。

 カイデンの本当の気持ちにも気付こうとせず、へらへら笑っているあの顔に、何度泥を塗ってやりたいと思ったことか。

 何度この手であの華奢な首をへし折ってやりたいと思ったことか。




 そんなとき、事態は唐突に思いも寄らない方向に転がった。



「……邪魔ねえ、あの女」



 遠い異国、シノノメ帝国から、彼女がやってきた。


 イザベラ・サピエンティア侯爵令嬢。輝く金の髪に、青い瞳、真っ白な肌。


 美しいが、いかにも高慢で性悪で、危険な香りのする女性だった。

 彼女はとあるパーティーで偶然フェルドを見かけ、あっという間に一目惚れしたのだそうだ。それで遠い異国から、まだ何も決まっていないというのに――そもそもフェルドにはソフィアという婚約者がいるのに――押しかけてきた。

 何としてもフェルドを自分のものにする。

 彼女のぎらつく瞳はまるで粘着質な蛇のようで、一目惚れした乙女のそれとは何かが違った。



「私と彼は運命で結ばれているの。こうなることは前世から決まっていたことなのよ。――ああごめんなさい、この国の人にはわからないわよね」



 ライアも何度か会ったことがあるが、運命だとか前世だとか、よくわからないことを言っていたのは覚えている。

 変わった女性だが、その情熱的で苛烈な行動力と、シノノメ帝国という大国の名家の出ということで、ソフィアとの婚約を破棄し、イザベラとフェルドが婚約すればよいのではないかと言い出す者も少なくなかった。

 それほどソフィアとの婚約は、フェルドにとっては悲願であったかもしれないが、周りからすれば大したメリットのない、釣り合いの取れないものだったのだ。ソフィアの穏やかで掴み所のない気質も、苛烈な者の多いイグニス家らしくはなく、そんな女性が公爵夫人を務められるか、という懸念もあった。


 イザベラは何度もソフィアの元を訪れ、公爵夫人を辞退するよう、圧力をかけているらしい。

 おかしなものに目をつけられて、いい気味だとは思った。



 そんなある日のこと。

 ソフィアが暴漢に襲われた。



 イグニス家に激震が走った。

 男は捕まり、怒り狂ったフェルドに惨たらしく拷問された挙げ句斬首された。



 次期公爵夫人が狙われたのだ、雇い主がいるに違いないと思われたが、男はその存在を話さないまま亡くなった。酔っていて何も覚えていないと訴えていたらしいが、本当にいたのか、いなかったのかはついぞわからない。


 最悪なことに、ソフィアは子どもを身籠もってしまった。しかも、その子を産みたいと言う。犯罪者との間にできてしまった子を。


 イグニス家の誰もが、彼女との婚約を破棄するよう、フェルドに迫った。

 穢された女性が公爵夫人など許されない、そもそも護衛もつけず一人で街に出かけたソフィアもソフィアだ等と、酷い言葉が飛び交った。



 結果的に、フェルドは婚約を破棄せざるを得なかった。



 そして、イザベラと婚約した。



 その裏には帝国からの圧力があったとも言われている。

 ソフィアとの婚約が破棄となり、フェルドも自暴自棄になっていたのかもしれない。


 イザベラは酷く幸せそうにしていたが、その様子を見ていたイグニス家の皆は、やがて「彼女がソフィアに暴漢を差し向けたのではないか」と噂するようになった。

 今回の件で、最も恩恵を受けたのはイザベラだ。

 しかも彼女は、そうするだけの過激な気質を持ち合わせている。彼女ならばやりかねないと、誰もが思った。

 そしてその噂は、フェルドも知るところとなった。

 二人はしょっちゅう喧嘩をして、フェルドは公の場でもイザベラを拒絶し続けていた。二人の仲の悪さは社交界でも有名で、女王陛下の耳にも入っていたと言うからよほどである。


 聞くところによると、フェルドは未だにソフィアの元を訪ねているらしく、イザベラと彼女の屋敷の前で口論になったこともあるらしい。フェルドの心は、未だにソフィアにあるということだ。イザベラは激怒し、ソフィアへの嫌がらせを続けているのだとか。



 醜い三角関係だ。何とも情けない、イグニス家の恥である。



 だからそんな険悪な二人の間に、娘が生まれた時は誰もが耳を疑った。

 娘の名は、フレア・ローズ・イグニス。

 イザベラに瓜二つで、フェルドには何一つ似ているところがなかった。


 フェルドは娘のことも毛嫌いし、イザベラが若く亡くなった後も、とことん嫌い抜いているというのは、イグニス家では有名な話だった。

 当初はそんな娘を憐れむ声もあったが、彼女が性格までもイザベラによく似ているとされてからは、擁護する者はいなくなった。



 こうしてフェルドもソフィアも皆が不幸になっていく中、ライアは違った。

 必死のアプローチと両親の協力のおかげで、もう無理だと何度諦めたかしれない、カイデンとの結婚にこぎつけたのだ。

 夢のようだった。

 長い長い夢を、ようやく叶えたのだ。

 けれど、その幸せの裏で、どこか満たされないものをずっと抱えていた。


 カイデンは優しい。ライアにこれ以上ない愛情を注いでくれている。

 けれど、それは果たしてソフィアに対するものより深いのだと言い切れるだろうか? カイデンの心は、今もソフィアにあるのではないだろうか? 本当は彼女の傍で、彼女を守りたくて仕方ないのではないだろうか? ソフィアの子と同じ年に生まれた自分の息子より、あの女の息子の方が気になるのではないだろうか?

 自分との結婚を了承してくれたのも、家柄がよかったから。それさえ良ければ、別に他の誰とでもよかったのではないだろうか?


 考え出すと、キリがなかった。


(私もあの女と同じ。公爵に愛されなかった、イザベラ・サピエンティアと同じ。所詮、本命には敵わない)


 ソフィアのことを考える度、筆舌し難い醜悪な感情が、胸の内をぐるぐると蠢いた。



 ライアの心の支えは、息子のカノンだった。

 カイデンにそっくりな顔立ちと運動神経。性格は彼と違って明朗闊達で、いかにもイグニス家らしく、明るい笑顔で「母上!」と呼ばれる度、ライアの心は泣き出しそうなほどの喜びで震えた。

 カノンはライアの宝物だ。

 この子が、将来カイデンのような立派な騎士となり、ゆくゆくは公爵の地位を得て、イグニス家を、この国を守っていく未来を、ライアは思い描いていた。


 本家の一人娘であるフレアは神官との婚約が決まっている。それはつまりイグニス家を出て行くということだし、それ以外に次期公爵に相応しい者などいない。


 そう思っていた。


 なのに、その未来は無残にも打ち砕かれようとしていた。



 穢れた女が公爵夫人となり、その息子が公爵位を継ぐのだと言う。



 イザベラ亡き後、フェルドは以前より頻繁に、堂々とソフィアの元を訪れるようになった。最早隠そうともしない。公然の愛人である。

 恥知らずな行動だとは思っていたが、それが愛人に留まるうちはまだよかった。



 結婚など言い出すとは、思ってもいなかった。



 そんなことになれば、カノンはあの女の息子に傅かなければならないのか?

 公爵に相応しいのはどう考えてもカノンなのに。イグニス家の皆だってそう思うだろう。

 弱気で大人しいルカより、カノンの方がよほど適任だ。ルカは確かに聖騎士だが、それだってあの子どもには荷が重すぎるだろう。聖騎士になったのが何かの間違いなのだ。

 あんな穢れた子が公爵なんて、絶対に間違っている。



 ライアは、必死で二人の婚約に反対した。何度も何度も、カイデンに訴えた。



「絶対に反対です! やめさせてください! 一体フェルド様は何を考えておいでですか!? これ以上イグニス家の恥を晒すなんて――」

「無駄だ。ああなったあいつはもう止められない」

「ですが――!」

「子を、身籠もっているらしい」

「え? ……今、なんて」


 ソフィアは、フェルドとの子を身籠もっている。

 ライアは絶句した。愛人を身籠もらせるなんて。穢らわしい。穢らわしくて、吐き気がする。



 それからというもの、ライアは二人の間にできる子どものことばかり考えるようになった。

 フェルドは今の所ルカを次期公爵にと考えているようだが、無事子どもが生まれればどうなるかはわからない。普通は実の子どもの方が可愛いに決まっている。

 となれば、その子を次期公爵に推し始め、ルカのことは疎ましく感じるようになるだろう。



(子どもさえいなければ。ソフィアとフェルド様の間に、子どもさえいなければ……)



 愛しいカノンが、あの女の子どもに傅く未来はなくなる。



 要は、生まれてこなければいいのだ。

 その考えに至るのに、時間はかからなかった。


 生まれてくる子どもとまとめてソフィアが消えてくれれば、何もかもうまくいく。

 フェルドは悲しむだろうが、そんなことはどうでもいい。これは天罰だ。悪いのはソフィアだ。自分はソフィアにずっと苦しめられてきた。だからこれは、当然の権利なのだ。私には、ソフィアを害する権利がある。


 ルカも邪魔は邪魔だが、あの気弱で大人しい子どもが公爵位を継ぐ器でないのは周知の事実である。

 正直何とでもなるし、ならなければその時殺してしまえばいい。

 聖騎士がなんだ。あの気弱な子どものこと、誰に対しても起爆能力なんて使えやしない。



(そうよ、これでいい。イザベラと同じことをすればいい。あの人だって、同じようなことをした。私は、私なら、もっとうまくやれる)



 ライアは、震える手で依頼書をしたためた。

 全ては、愛しい息子のため。今もソフィアの境遇に心を痛め掻き乱されている、夫のため。

 そして、あの女のせいで報われることのなかった、自分自身のために――……



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