27 動揺する
騒がしい日々が始まった。
カノンは市場で見かけた時からは見違える程、みるみる元気になったし、ルベルは本当に家を勘当されてこっちに来てしまったが、まあ働き者であることは間違いなく、ライアはライアで「なんであたしがトイレの掃除なんて――ぎゃあああ虫! 虫が出たわよ!? うぇッ」と騒ぎながらも何とか働いている。
カイデンは教えたことを黙々とこなしており、料理だけは壊滅的にできないことがわかったものの、それ以外はそつなくこなしている。基本的な料理はできるという話だったはずだが、そこは本人の認識が甘かったらしい。食べられないことはないものの、できることなら口にしたくないレベルのものが続々と作られるのを見て、フレアは即刻、彼を料理当番から外した。
騒がしいが、それはフレアの想定内の騒がしさで収まっていた。
まさかそれからたったひと月後、早速想定外の事態に直面することになるとは、彼女とて思いもしなかった。
「隣に越してきました、ソフィア・イグニスです。フレア様、これからどうぞよろしくお願いします」
「ル、ルカです! よろしくお願いします!」
「な、なな、な……」
そう言って元気よく頭を下げた親子を前に、フレアはわなわなと震えるしかなかった。
屋敷のちょうど隣に、そこそこ大きなボロ家があるのは気づいていた。
どこの誰の所有物かはわからないが、廃墟同然だからそのうち取り壊されるだろう。あれのせいで景観が悪いから、さっさと取り壊してほしい。それくらいに思っていた。
まさかそこに続々と荷物が運ばれ、ソフィア・イグニスとルカ、生まれたばかりの赤子、それに腰の曲がったお手伝いのお婆さんが引っ越してくるなんて思いもしない。
「なんであんたたちがここに越してくるのよ!?」
フレアの叫びに、ソフィアは眉を下げて微笑んだ。いかにも困った風だが、実のところあまり困っているように見えないのはなぜだろう。
「フェルドとの婚約を破棄したことで、両親にとうとう勘当されまして。ちょうど良い物件を探していたんですよ。この屋敷はずっと売りに出されていたみたいで、買い手がつかなくて困っていたそうです。で、格安で購入しました! 今までなんだかんだと蓄えていたお金もありますし、手切れ金もあるので、少しずつ改装しようと思って――――」
「違う! なんでここなのよ!? あんたの命を狙った極悪犯が隣にいるってことはわかってるの⁉ それとも知らずに来たの!?」
「知ってはいましたが、フレア様がいらっしゃるなら大丈夫かな、と」
「はあ!?」
「私としても心配だったんです。皆様がどうされているか。ルカもずっと不安そうにしていましたから、こうするのが一番良いのではないかな、と」
ソフィアの視線の先を追うと、そこではルカとカノンとルベルが、久しぶりの再会に沸いている。
あんな事件のあった後だが、ルカがカノンを責める様子は微塵もない。それよりカノンに再会できて嬉しいのだと、ずっと会いたかったのだと、内気なルカにしては珍しく全力で表現している。
最初は申し訳なさそうに複雑な表情を浮かべていたカノンも、少し涙ぐんだ後、いつもの笑顔でルカと接していた。ルベルはそんな二人を、安心したように見つめている。
気弱だけれど心優しいルカ、ちょっと頭が足りないけれど元気いっぱいのカノン、そして超が付くほどの頑固者だけれど、一度こうと決めたら真っ直ぐなルベル。
……三人の様子を見ていると、どこか遠い昔の、忘れたい日々が頭にチラついた気がして、フレアは慌てて首を振った。
(まあ、あそこは元々仲が良いからいいとして……問題はあれでしょ)
ライアとカイデン。ライアは暗殺者を仕向けた張本人だし、カイデンだって表向きは同罪である。
そんな二人が隣で暮らしているというのに、どうしてこのソフィアという女性はのほほんとしているのか。
フレアは苛々とソフィアの屋敷を見上げた。ボロい。ボロすぎる。
改装するつもりだと言うが、完成前に潰れそうである。
「こんなボロ屋敷で赤子の世話をするなんてあり得ないわよ」
「大丈夫です。立地がとても良いですし」
「立地云々より潰れて死んだらどうするわけ!? 嵐が来たら一発で飛ばされるわよ!?」
「なんだかんだと長い間建っているお家ですし、丁寧に修繕していけばきっと大丈夫ですよ。とっても広くて気に入ってるんです。実はお花屋さんを始めようかなと思っていまして。ほら、アカツキ王国の人はお花が好きでしょう? 私、草花にはそこそこ詳しくて――」
「花屋舐めんじゃないわよ! あんたの細腕じゃ絶対無理! 結構体力仕事なんだからね!? 破産して路頭に迷うことになったらどうすんのよ!」
そうなったらなったで公爵に泣きつけばあの公爵のこと、喜んで彼女を庇護しようとするのだろうが……そういう時のしたたかさが、この女性にあるのかどうかはわからない。
苛々しているフレアと対照的に、ソフィアはどこまでものんびりしている。
しっかりしているのかいないのか……先々のことをちゃんと考えているようにはとても思えなかったが、鷹揚に構えたなかなかの傑物にも見えてしまうから、気を揉んでいるこちらが馬鹿馬鹿しく思えてしまう。
ソフィアは腕に抱いた赤子を、そっとフレアに紹介した。
「フレア様、娘のルチアです」
ルチアはソフィアの腕の中から、じーっとフレアを見下ろした。
頬は桃色に色づき柔らかそうで、髪は真っ赤。目はツンと吊り上がっている。明らかに父親、つまり公爵似である。
フレアはふっと目を細めた。
「……可愛いじゃない」
「ありがとうございます。抱っこしますか?」
「そ、それは……!」
「大丈夫です。この子あまり物怖じしない性格みたいなんですよ。人見知りしないんです。お腹が減った時はすごく泣くんですけどね」
フレアは恐る恐る、ソフィアからルチアを受け取った。ギャン泣きするのではないかと思ったが、ルチアはフレアの腕の中で、にやにやと笑っている。
柔らかい、温かな感触。こんなに小さいのに、生きている。
確かな命の感触に、フレアはどういう訳か、堪らず泣きそうになっていた。
赤子というのは不思議なものだ。こうして触れるだけで、幸せな気持ちにさせてくれる。
「フレア様、抱っこがお上手ですね。慣れていらっしゃるみたい」
「……別に、普通よ。普通」
フレアは頬を赤らめたまま、フンと顔を逸らした。
ルチアはその顔が面白かったのか、「きゃっきゃっ」と笑いながら、フレアの髪を引っ張る。引っ張られてもビクともしないのは、フレアの体幹が非常に強いためである。
腕の中のルチアを見つめながら、フレアはだんだんと不安に襲われた。
この子はこれから、このボロ屋敷で暮らしていくのだろうか? それはもしかして、自分の所為で?
本当は公爵の実の娘として、豪奢な屋敷で大勢の使用人に傅かれ、イグニス家の令嬢として大切に大切に育てられるはずだったのに?
公爵に一矢報いた時は本当に気持ちがよかった。婚約破棄となった時はざまあみろと思った。
だが、この無垢な生き物を見ていると、途端に罪悪感に襲われた。自分は何か大きな過ちを犯してしまったのではないか? もし自分が何もしなければ、この子は輝かしい未来を歩んでいたはずなのに――……。
ソフィアを助けた後、あの時公爵に喧嘩を売りに行かなければ、或いは…………
いや、だがそれは無理な話だ。あの状況で喧嘩を売りに行かない選択肢は、フレアにはない。
フレアはチラリと、ルカの方へ視線を向けた。
にこにことほっとしたように微笑んでいる、お人好しのルカ。
自分はあの子の人生も狂わせてしまった。
次期公爵として約束された未来が、今は揺らいでいる。
母親とイグニス領を出てこんな屋敷で暮らすことになるなんて、彼も思ってもいなかっただろう。豪奢なイグニス邸で、何不自由ない生活で、公爵にももっと可愛がって貰えたはずなのに――――……。
(ああもうっ! どうだっていいでしょ私には関係ないじゃない! 大体命を助けてあげたんだから多少貧乏でも別に――)
パッとルカから視線を背けたところで、腕の中のルチアと目が合った。
「ばぶぅ」
「うっ、かわっ……」
可愛すぎる。腕の中のルチアが可愛すぎる。
このままではうっかり赤ちゃん言葉を発してしまいそうな危険を感じたフレアは、「もう充分よ!」とソフィアにルチアを返却した。
「フレア様」
その時、ルカがフレアの方へ駆けてきた。




