20 【カノン】思い知らされる
カノンの夢は、父親のような格好良い騎士になることだった。
女王に表彰されたこともある、イグニス家の、いやアカツキ王国自慢の騎士。
母のことも尊敬していた。
誇り高く、しっかり者の母。家族のことを、いつも大切に想ってくれている人だった。
何か悪い夢でも見ているんじゃないかと、何度も思った。そうであればいいと、願った。
でも、何度眠っても何度起きても、現実は変わらない。
どうしようもない現実のまま、時間だけが過ぎていく。その度にカノンは思い知らされる。
両親は罪を犯した。ルカの母親、ソフィアに暗殺者を仕向け、殺そうとした。
雇われた男たちが白状したのは母の名前だったが、父は「俺がそう仕向けたのだ」と、自分こそ首謀者である旨を話しているらしい。
姑息で卑怯な、大罪人だ。
それなのに、大勢の親類や第一騎士団の騎士たちは、刑を軽くするよう毎日のように公爵に嘆願してくれていると聞いた。それだけ二人が慕われていたということだが、それを聞いても、カノンの心は晴れなかった。
両親が罪を犯したのは、紛れもない事実だ。なら嘆願なんてしなくていい。相応の罰を受けるべきだ。
誰よりも自分に厳しい父ならば、きっとそれを望むだろう。
使用人も一人一人取り調べを受け、今回のことに関わっていたとみなされたものは両親と同じように牢獄に入れられた。関わりはなかったと判断された者は、それぞれイグニスの他の屋敷に引き取られることになった。
刑が確定するまでの間、カノンは騎士たちに監視されながら、一人屋敷に残されることになった。
ルベルやルカと会うことも許されない。鍛錬や勉強まで取り上げられた訳ではなかったが、それをする気力はなかった。
あんなに賑やかだった屋敷が、嘘みたいに静まりかえっている。まるで死んでしまったみたいだ。
カノンは、誰もいなくなって手入れもされなくなった庭を窓から眺め、よくぼんやりするようになった。
ただひたすら、時間だけが過ぎていった。信じられない程長く、苦しい時間だった。
軟禁されてからひと月が経った頃、両親の刑が確定した。
カノンは騎士に連れられ、裁判所でその様子を見ることになった。
久しぶりに見る両親の顔は、信じられない程やつれていた。
頬も痩けて青白く、食事も睡眠もちゃんととれていないのだろう。そんな二人がボロを着せられ、後ろ手に鎖をつけられているのを見た時は、さすがに泣き崩れそうになった。
二人を見下ろすイグニス公爵も、酷い顔色だった。
公爵にとっては、カノンの父親カイデンは従兄弟であり無二の親友だ。
まさかそんな相手を裁くことになるなんて、思っていなかっただろう。
公爵は、重々しく口を開いた。
全財産没収。
家名の剥奪。
騎士団及びイグニス領からの永久追放。
今後、イグニス家に関わることを禁ず。一切の例外を認めず、彼らに関わりをもったイグニス家の者がいれば、同罪に処す。
「お願いします! この子だけは! この子だけはイグニス家に置いてください!」
「いいや、カノンも連れて行くんだ。どんな形であれ、イグニス家と関わりを持つことは許さない」
「カノンは何もやっていません! この子は関係ないのに、どうして――――」
「禍根は残せない。カイデンを斬首刑にしなかっただけ有り難いと思うことだ!」
「ですが――――!」
痩せて今にも倒れそうだった母が、カノンだけはイグニス家にいられるよう、必死で公爵に訴えている。
カノンは見ていられなくて目を背けた。母のこんな姿を見たのは、初めてだった。
父は微動だにしない。こうなることがわかっていたような、どこか諦観にも似たものを感じた。
結局、判決が覆ることも、カノンだけがイグニス家にいられることもなかった。三人は馬車に乗せられ、身一つで王都まで運ばれることになった。
馬車に乗る途中、ルベルと、ルカと目が合った。
“今後、イグニス家に関わることを禁ず”――――つまり、もう二人とは永遠に離ればなれだ。普通に話すことも遊ぶことも、鍛錬することもできない。
もう、友達ではいられない。
もし、こうなることがわかっていたなら、もう少し何か――――……
(何か、できたかな……)
カノンは二人から視線を逸らし、逃げるように馬車に入った。うっかり泣いてしまいそうだった。そんな顔を、これが最後なのに二人に見せるのは嫌だった。
その後、馬車は王都の小さな街に停まった。
どことも知れない山の中に捨てられてもおかしくなかったのに、人通りのある普通の街まで送ってくれたのは、公爵なりの最後の優しさかもしれなかった。
母はずっと泣いていた。ごめんなさい、ごめんなさいと、父に縋り付き、ぽろぽろと涙を流していた。
カノンはその様子を見て、小さな違和感を胸に抱いた。
首謀者は、父のはずである。なのにこれではまるで、母が単独で――――……
いや、考えるだけ無駄だと、カノンは首を振った。
刑は確定している。両親は罪を犯した。それは紛れもない事実だ。
父は優しく母の肩を撫で、通りに視線を向けた。
「一旦、王都の知り合いを回るしかないだろう。ここからは少し遠いが……ライア、歩けるか?」
「ええ、ええ大丈夫です。大丈夫」
母は父に支えてもらいながら、町を歩いた。
イグニス家以外にも、両親には大勢の知り合いがいる。誇り高い騎士であった父は、数え切れないくらいたくさんの人の命を救ってきた。命の恩人だと、毎年のように屋敷に来る者もいれば、豪華な贈り物を送ってくれる者もいる。
その中の誰か一人くらいは、カノンたち一家を受け入れてくれる者もいるだろう。
カノンは至って普通の格好だが、両親は罪人のボロに薄手の上着を羽織っただけの姿。まるで浮浪者だが、この姿を見れば手を差し伸べずにはいられないはずだ。
無一文の今は、どうにかして衣食住を確保してくれる人を頼るしかなかった。情けないが、どうしようもない。
カノンは、とぼとぼと両親の後ろを歩いた。
自分は、楽観的な方だと思っていた。けれど今は、どうしても明るい未来を思い描けない。
自分が今まで楽観的でいられたのは、恵まれていたからだと、カノンはようやく思い至った。
本当に絶望した時、夢も希望も奪われた時、それでも前向きに明るくいられる程、カノンは強くなかった。
ようやく父の知り合いの屋敷に辿りついたのは、それから一時間ほど経った時だった。
父もカノンも小一時間歩く程度は疲れも感じなかったが、深刻なのは母だった。
貴族の娘として、大事に大事に育てられてきた母は、運動などほとんどしたことがない。それに長い牢屋生活の所為で、元々細かった体はますます細くなっている。
途中で何度か、父が背負おうかと提案したのだが、母はそれを断り、自分の足で必死に歩いていた。
気力だけで何とかやっているような状態だ。カノンは、母のことが心配で堪らなかった。
門の前で、父は呼び鈴を鳴らした。
随分経ってから、初老の執事らしき人物が、慌てた様子でやってきた。事情を説明すると、彼は困った様子で、「申し訳ありませんが」と頭を掻いた。
「旦那様は外出中ですので、私の一存ではどうにも……」
「ならば待たせてもらうことは――――」
「いえ、ああその、別荘に。避暑でおりませんので、しばらく戻ることはないんです。ですからその、大変申し訳ございませんが……」
執事は終始へらへらとした調子で、のらりくらりと要求を躱し、結局水の一つ、分けてもらうことはできなかった。
屋敷から離れた後、ぶつぶつ文句を言う母を宥め、「他の屋敷へ行こう」と父は歩き始めた。
歩き続けて、また一時間ほどが経った。その屋敷も同じだった。
主人は不在で、使用人だけでは判断できないからと、門前払い。
その次に向かった屋敷も、全く同じ理由だった。対応した使用人は母の顔見知りだったが、ボロボロの母が訴えても顔色一つ変えず、「申し訳ありませんが」と同じことを繰り返した。
そういうことを何度も繰り返すうち、カノンもさすがにわかってきた。
彼らは、嘘を吐いているのだと。
たとえ命の恩人でも、一度罪人になってしまえば二度と関わりたくないものなのだ、と。
今カノンたちに関わることは、イグニス公爵に刃向かうことと同義。貴族社会において絶大な影響力を持つ四大公爵家の一つ、イグニス家に刃向かうなんて、下手をすれば社交界からの追放、没落を意味する。
そう解釈した彼らが、公爵と罪人どちらを取るかと言えば、それは当然ながら公爵だった。
結局、両親が慕われていたのは、公爵と近しい関係にあったからだろうか。
皆腹の底では、損得とかそういうことしか考えていなかったのだろうか。
そう考えると、もの凄く虚しくなった。
思えば、ルベルが友達でいてくれたのも、自分が父の息子であったからだろう。そうでなければ、あんなに頻繁に会いに来る訳がない。
本当は、友達になんてなりたくなかったのかもしれない。
考えたこともないような恐ろしいことが頭を過って、カノンはゴシゴシと目元を擦った。
やがて陽が落ちた。
母はとうとう動けなくなり、父は一人で屋敷を回りに行った。水と食べ物だけでも分けてもらおうと。
だが、なかなか帰らない。
「ごめんね、ごめんねカノン。私の所為で。私が、私の……」
「母上……」
どう声を掛けていいかわからなかった。こんなに弱っている母に、酷いことは言えない。二人がしたことを知った時は憤りも感じたが、今は責めようとも思えない。
たとえ世界中の全員に嫌われても、カノンにとっては、唯一の母親だ。
その行いはどう考えても間違っていたが、だからって自分まで責めてしまっては、母は壊れてしまう。そんな気がした。
正しくはないかもしれない。身内に甘いだけの、弱い人間かもしれない。
でも、どうしたって見捨てられない。正しさだけでは、きっと人は生きていけない。
ぐう、と腹が鳴った。
二人は石畳の上に座り、道行く人を眺めるしかなかった。ボロボロの親子が明らかに腹を空かせて弱っているのに、気に留める人は誰もいない。
(俺なら、どうしただろう)
自分もついこの間まで、あの雑踏の中にいたのだ。
あの雑踏の中で、あの大勢の人と同じように、切り捨てられた弱者のことなんて気にも留めず生きていたのだ。こんな弱り切った親子がいたって、きっと気づきもしなかった。
見たいものだけ見て、言いたいことだけ言って、ただ純粋に「騎士になりたい」と、周囲が整えてくれた恵まれた環境の中で漠然と夢を語り、本当の意味での騎士がどういうものかなんて考えもしていなかった。
鍛錬することに夢中で、体を鍛えさえすれば立派な大人になれると思っていた。自分ならば、きっと立派な騎士になれるはずだとも、根拠のない自信もあった。
でも、違う。
それは本当の意味の騎士ではないのだと、自分は浅はかで愚かな子どもに過ぎなかったのだと、思い知った。
「ライア、カノン」
「! 父上!」
その時、父が帰ってきた。暗く沈んだ表情で、カノンは肩を落とした。結局、何も貰えなかったのだろうと思ったが、その手には小さなパンがあった。――――いや、よく見ると、大きく囓った痕がある。それに所々黒ずんで、カビでも生えているようだった。
「俺の格好があまりに酷かったからだろう、歩いていたらこれでも食えと投げられた。残飯のようだが」
「なっ……旦那様にそんな無礼を働いたのはどこのどいつですか!? 私が引っ捕らえてやりますわ!」
途端に、疲れ切って声も出せなかった母が、弾かれたように顔を上げた。
父は肩を竦め「それは有り難いことだな」と小さな笑みを浮かべた。
「カビの生えていないところならばぎりぎり食べられるだろう。どうする? ライ――」
「私は無理です」
怯えて後ずさった母に、父は「そうだな」と頷いた。
「やはりこれは俺が頂こう。食べたらまたすぐに市場に向かう。カノン、もう少し耐えられるか?」
「お、俺は、大丈夫です。でも、父上……」
本当は腹が減って倒れそうだったが、そんなことより今は、そんな腐ったパンを食べるつもりかと、そっちが気になって仕方ない。戦場で過酷な経験をしたことのある父であれば、この程度で腹を壊すことはないのかもしれないが、だがしかし、上品に食事を摂る姿しか知らないカノンにとって、腐ったパンを食べようとする父の姿は、あまりに衝撃だった。
父が口を開けたところで、カノンは咄嗟に、その手のパンを払い落とした。
パンはコロコロと地面を転がり、水路に落ちていった。
震えるカノンに、父はしばらく沈黙した後、「すまないな」と眉を下げ、母もまたぽろぽろと泣き出してしまった。
カノンの視界が、涙で歪んだ。
その時――――……
「あら? カノン? こんなところでどうしたの?」
輝く金が、視界に入った。




