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フレアの剣  作者: 神田祐美子
Ⅰ フレアと仮初めの家族
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2 祈る



 それは突然の事だった。


 地面が割れ、大きな呻りを上げながら建物を飲み込んでいく。

 足下で津波でも起こったかのように、酷い揺れが、人々を、建物を破壊していく。


 親方も作業員も他の人々も、何が起こったかわからずただ振り回され悲鳴を上げ、なされるがままである中で、ただ一人、老婆だけは違った。

 親方の体を片腕に、もう片方の手に他の若い衆たちを抱え、老婆はその場から飛び上がった。

 背後でガラガラと工事中の建物が崩れる。激しく大地が揺れる中、立っているだけでも難しいのに走っているのは彼女くらいなものだ。落ちてくる柱やら煉瓦やらを正確に避けながら、老婆は開けた場所まで避難した。




 やがてしばらくして、地獄のような時間は終わった。

 大地がようやく泣くのをやめた時、建物はほとんどが倒壊し、「助けて」という悲鳴や呻き声があちこちから上がり、微かに煙の臭いも漂っていた。


 老婆は静かに息を吐き、親方たちをゆっくり地面に下ろした。彼らが先程まで休憩していた場所は、足場が崩れ何もかも破壊され、酷い有様である。もしあのままあそこにいたら、間違いなく無事では済まなかっただろう。


「はッ……はあ、はあ……ど、どうなっ……何が……」


 親方たちは地面に下ろされた後も、まともに喋れる様子ではなかった。声は震え、腰は抜け、ガクガクと怯えている。大の男たちでさえ、この有様である。

 未曾有の大災害。

 老婆はそんな言葉を思い浮かべながら「早く、安全な場所に移動しなさい。また来るかもしれない」と彼らに優しく話しかけた。親方は真っ青な顔を彼女に向けた。


「あ、あんたは……」

「私は、宿に向かう」

「は……? や、宿って……」


 宿は街の中心部にある。建物が密集したその辺りは、ここらよりよほど被害も大きいだろう。それに黒い煙もそこかしこから立ち上り、赤い炎がちらちらと壊れた屋根を舐め始めている。昼時だったから、その支度に大勢が火を使っていたのだろう。

 親方は小さく首を横に振った。あんなところに飛び込むなんて正気の沙汰ではない、とその表情が訴えている。


「やめとけばあさん! あんたも逃げるんだ! 命の恩人だ、みすみす死なせはしねえ!」

「……宿には、あの子がいるんだ」


 老婆は静かに首を横に振った。その目に迷いはなかった。

 彼女は親方が止めるのも聞かず、その場を駆け出した。




 彼女にとって、あの青年は特別な存在だった。


 数年前にふとした縁で巡り会い、一緒に旅をしている。

 時には一緒に工事現場で働き、畑で汗を流し、美味しいものを食べ、冗談を言い合い、それはそれは面白おかしい、愉快な旅だった。血は繋がっていないし年齢も随分離れているが、彼女にとってそれは大した問題ではない。

 老婆にとって青年は、友人であり相棒であり、同時に家族のような存在でもあった。


「決して死なせはしないぞ。乱蔵……!!」


 宿に向かう途中、辺りは想像以上に酷い有様だった。

 大勢の人が瓦礫の下敷きになり、泣き喚き、無情な火がそんな彼らを焼き尽くさんと迫っている。


 老婆は、目につく限りの人を救っていった。倒れた屋根や柱を持ち上げ、動けない者は背負ったり抱えたりして、安全な場所まで連れて行った。彼女の動きは凄まじく、目にも留まらぬとはまさにこのこと。

 瓦礫から救い出された者の中には、自分が一体誰に助け出されたのか、どうやって助かったのかもわからず、気づいたら原っぱにいたのだ、気づいたら空を飛んでいたのだという者までいた。


 そうしてようやっと老婆が件の宿に辿りついた時、宿は火に飲み込まれていた。

 ここに辿りつくまでに数々の人を救出していた老婆だが、その火の勢いは今まで見た中で一番激しく、さすがの彼女も冷や汗が止まらない。


「乱蔵!! 乱蔵どこにいる!?」


 しかし躊躇はしなかった。青年の名を叫びながら、老婆は炎の中に飛び込んだ。

 煙は充満し、熱い炎がチリチリと老婆の体を焼いたが、彼女はそれしきで立ち止まることはなかった。


「どこだ!? どこにいる!? ――チッ、刀があれば焼き払ってやるものを……!!」


 老婆はしつこい炎と煙に苛々と舌打ちしながら、二階への階段を駆け上がった。泊まっていた部屋の襖を勢いよく開ければ、青年が眠っているはずの布団が燃えている。老婆は急いで布団を捲った。


「うッ、げほッ……ごほッ……」


 そこに、青年はいなかった。

 束の間、ほっとした。油断したところで思いきり煙を吸い込んでしまって、しばらく息ができない。彼女は、ふらつきながら他の部屋も探した。どこを探しても、青年の姿はなかった。


 きっと、ちゃんと避難したに違いない。

 最後の部屋まで確認してからそう結論づけると、途端に体から力が抜けていった。目眩がして、立っていられない。老婆はずるずるとその場に崩れ落ちた。


 自分の体が、まるで自分のものではないようだった。朦朧とする意識の中、老婆は自分の死を悟った。――まさか、こんな呆気ない、惨めな最期を迎えることになるとは。

 思わず自嘲的な笑みが零れ、歪む視界の中で静かに目を閉じる。煙が肺に満たされてしまったのだろう。もう、指一本まともに動かせそうになかった。


(乱蔵は、本当に無事だろうか……)


 彼女にとって、心残りは青年のことだけだった。この宿にはいなかったが、もしかしたら他の場所で巻き込まれ、生死の境を彷徨っているかもしれない。

 そう思うと居ても立ってもいられないのに、頑丈なだけが取り柄のこの体が、こんな時になって一向に言うことを聞かない。


 老婆は、静かに祈りを捧げた。


 どうか、青年が無事でありますように。どうか、優しい幸せが、この先たくさん訪れますように。

 自分と同じように家族を知らないあの子が、いつか大切な人々と巡り会い、本当の家族に囲まれて、楽しく暮らしますように。


 願いが届いたかはわからない。そもそも、神仏をあまり信じない老婆のこと、自分が何に祈ったのかもよくわかっていない。


 涙が、乾いた頬を伝って落ちていく。

 その時、懐からころころと何かが転がり出てきた。老婆は僅かに目を開けた。


 彼女の目の前で止まったそれは、桜の花をあしらった鍔。

 遠い昔、まだ江戸と呼ばれていた時代、老婆がうら若き乙女であった頃、彼女の傍らには笑顔の可愛い、心優しい少女がいた。老婆にとって、この世で一番、大切な女の子。この鍔は、その少女の形見だった。


 老婆の最期に、あの少女が寄り添ってくれているようだった。

 彼女の目に、僅かな希望が宿る。その希望を宿したまま、老婆はぎゅっと目を閉じた。


 苦しみも悲しみも後悔も、血と泥で汚れた己の体も、何もかも炎に包まれ、全て塵となってしまえばいい。そうして清らかな魂となれたなら、その時は、もう一度、もう一度彼らと、大切なあの人たちと――――……



(どんな世界でも構わない。巡り会えたなら、きっとこの上ない幸せだろう)



 目映い炎が、老婆の体を一気に飲み込んだ。



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