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フレアの剣  作者: 神田祐美子
Ⅰ フレアと仮初めの家族
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 ――見上げた空は、どこまでも澄んだ青だった。



 彼女は悔しそうに表情を歪めた。

 まるで天まであいつらに味方したようじゃないか。

 公衆の面前に引きずり出されたフレアは、粗末な囚人服に身を包み、手足には重い鎖をつけられていた。

 自慢の金髪も色あせ、頬は痩け、棒のようになった手足のあちこちに傷がある。だが、空を映したようなその青い瞳には、未だ燃えるような闘志が滾っていた。


「ふざけないで! 私を誰だと思っているの!? 誇り高きイグニスの聖騎士よ!! なぜ私がこんな目に遭わなければならないの!?」

「自分の胸に聞くといい。あれだけの事をしておいて、今更言い逃れができると?」

「ッ……許さない! 私はあんたたちを許さない!! 燃やしてやる! こんな国もお前らも、灰になるまで燃やし尽くしてやるから!!」


 彼女が吠えると、屈強な歴戦の騎士たちでさえビクリと怯えた。観覧席から彼女を見下ろしていたサクラは、体を震わせた。


「ジーク様、私、やっぱり怖いです。命まで取ってしまうのは、考え直した方が……」

「君は本当に優しいね、サクラ。でも気にすることはないよ。あの女はそれだけのことをしてきたんだから。いくら聖騎士だろうと公爵令嬢だろうと、あの女には断罪が必要だ」


 ジークはそう言い切ると、処刑人に合図を送った。

 思いつく限りの呪いの言葉を吐き続けるフレアに、冷たい目をした処刑人、シリウスがゆっくりと近づく。フレアに積年の恨みを持つ彼は、手にした巨大な斧を振り下ろし、躊躇なくその首を刎ねた。歓声が上がる。一つの悪が、今ようやく世界から消えたのだ。

 こうして、アカツキ王国を未曾有の危機に陥れた悪女、フレア・ローズ・イグニスは処刑され、彼の国に、ようやく平和が訪れた――。







「あな恐ろしや……」

 地面に腰を下ろし休んでいた一人の老婆が、小さく呟いて本を閉じた。

 深いため息が、細い喉から外へ漏れていく。それほどに、今し方読んだ内容は、彼女にとって衝撃的なものだったらしい。手近に置いてあった茶をゆっくりと啜って、老婆は小さく息を吐いた。


 見目の変わった老婆だった。そこらの男より背が高く、細身で、着ているものも男物のシャツにズボン。最初に現れた時はこれに背広を羽織っていたから、てっきりお爺さんだとばかり思っていた。

 右目には眼帯をつけ、残った左目は空のような青。日の光に反射して輝く髪は、美しい銀。長い髪は結わえ、ゆったりと垂らしている。目鼻立ちははっきりとして、明らかに異国風である。若い頃はさぞ美しかったのだろう。年はそれなりに取っているはずだが、背中は一切曲がっておらず、針金でも通したようにピンとしている。足腰にも一切の衰えのないことは、誰の目にも明らかだった。


 そんな一風変わった老婆に、興味を持つなという方が難しい。

 隣で休憩していた大工の親方は、チラチラと彼女に視線を向けた後、とうとう口を開いた。

 彼は筋骨隆々として無骨で、顎には無性髭を生やしている、一見したところ堅気に見えない強面の男だったが、なかなかのお喋り好きでもあった。


「おいばあさん、何読んでんだ? 読み物なんてすげえじゃねえか」


 時は大正。庶民の識字能力が格段に上がっている時代ではあったが、この親方は貧しい出であったため、子どもの頃から大工仕事を手伝い、尋常小学校もほとんど通えないままなし崩し的に卒業。仕事に関することならばすらすら読めるが、本やら新聞やらを読むとなると途端にお手上げであった。と言っても、今までこれと言って本を読まねばならない必要に迫られたことなどなかったから気にしたこともなかったのだが、隣の一風変わった老婆が読んでいるとなると途端に興味を引かれる。


 老婆は口元に笑みを浮かべ、『アカツキに咲く花』と題された、薄紫色の表紙を彼に見せた。


「小説だよ、恋愛小説」

「はあ。恋愛」


 親方は素っ頓狂な声を上げた。彼の生きてきた世界では、一切耳にしたことのないような甘やかな響きだった。そんな彼に、老婆はすらすらと説明する。


「だいぶ前に立ち寄った街でね、可愛い喫茶店の女給さんに頼まれていたんだよ。そのうち自分の書いた小説が世に出るはずだから、無事出たら読んでほしいって。それでこの前書店に行ったら、その子の名前で本当に出ていたものだから、思わず買ってしまったんだ」

「はあ、なるほど」

「若い娘に人気があるらしくてね、その書店でも若い子ばかりだから驚いてしまったよ。最近の流行というやつらしい」

「……え。じゃああんた、若い娘に交じって買ったのか……? その、恋愛小説ってやつを」

「? ああ、そりゃ、もちろん」


 老婆は不思議そうに首を傾げた。彼女からすれば何らおかしなことは言っていないつもりのようだが、親方からすれば、この変わったお婆さんが若い娘に交じって恋愛小説を手に並ぶというのは、想像しただけで珍妙な光景であった。


 彼はまじまじと老婆を見つめた後、ゴホンと咳払いした。


「で、えーと、面白いのか? そりゃ」

「ああ、面白い。しかしなかなか過激だった。さっき読んだところなど……処刑が出てきたんだ。痴情のもつれのようなものだが……はあ、まさかそんな場面が出てくるなんて思わなかった」

「ふーん」


 親方は首を傾げた。恋愛小説に処刑とはどういうことなのか、自分にこの珍妙な小説を理解できる気はしないと、彼は早々に諦め、小説の方には興味をなくした。

 その代わり、この変わった老婆に対して、彼女と初めて会った時のようにまたむくむくと興味が湧いてきた。


 老婆が親方の元を訪れたのは、昨日の事だった。その時、老婆は一人の青年を連れていた。

 二十に届くか届かないかといった若い男で、目つきが悪く、顔にはこの老婆のように無数の傷があった。

 仕事を探していると言われ、ちょうど人手が足りなくて困っていたところだったから、どんな素性の者かはわからなかったが、短い間だと思い受け入れることにした。

 親方とて、堅気でない連中との付き合いもそれなりに経験している。腕っ節もあったから、たかが老婆とひょろっちい青年一人、恐ろしいことはなかった。


 当初は、青年だけが働くものと思っていた。老婆はただ付き添いで来ただけだろう、と。

 なのにいざ仕事を任せてみれば、老婆の方が動く動く。角材をひょいひょいと山のように担ぎ、危険な場所も軽やかに動き回り……その働きぶりと言ったら、大袈裟でも何でもなく、大の男何十人分にもなるほどのものだった。


 何か幻でも見ているのかと、幻術の類いかと本気で疑った程だ。せめて老婆が筋骨隆々としていれば何となく説得力もあったが、この老婆、体は細いのである。一体どこにそんな力があるのかと、親方含め作業場の男たちは、顎が外れそうなほどぽけんとするしかなかった。


 一方、青年の方は至って普通だった。いや、普通よりはよく働いてくれたし、意外に真面目で黙々と仕事をこなしてくれたから言うことはないのだが、老婆の働きぶりが異常過ぎたのである。

 それに彼は昨日の作業で全身筋肉痛になり、今日は宿で休んでいるらしい。親方たちは内心ほっとした。工事現場の仕事なんてそういうものだし、慣れないうちはそれが普通だ。平気な顔をして今日も昨日と同じくらい働き、「程良い運動だ」と笑っているこの老婆が、異常なのだ。


「なあ、あんた、旅してるって言ってたが、何でだ? 何かやらかして逃げてんのか?」

 こういう場では素性を尋ねないというのが暗黙の了解だとわかってはいたが、親方はつい尋ねてしまった。

 老婆は、親方の問いに思わずと言った様子で吹きだした。


「逃げる? 一体何から?」

「違うのか? てっきりそうかと思ったがな。どこぞのお尋ね者かと」

「はっはっは。まさか。安心しておくれ。誰からも追われてなどいないさ。私はただの、しがない旅人さ」


 老婆は朗らかに笑った。親方はその様子にほっとしながらも、どこか物足りなさを感じていた。


 この老婆が、ただの旅人であるはずがない。

 彼女は、自分がこの先一生交わることのない世界を――例えばごく一部の、選ばれた人間しか知らないような、そういう何かとんでもない世界を、知っているし見てきたはずなんだと、半ば確信のようなものを感じていた。

 そして、その一端でも垣間見てみたいと、思ってしまった。


「そうだ、あんたくらいの年齢なら、明治になった頃も知ってんじゃねえか?」

「明治?」

「俺ぁまだ生まれてなかったが、あんたならちょうどそういう年代だろう? 江戸から明治になった頃ってぇのは、そりゃあすげえ時代だったんだろうな。刀振り回して斬り合ってたんだろ? 今じゃ信じられねえなあ。もしかしてばあさんも、若い頃はそういうことしてたとか? あんたならそれも不思議じゃねえ」


 期待を込めて捲し立てると、老婆はしかし、ふっと寂しそうに笑った。


「……どうかな。私は田舎者だし、政治には詳しくなくてね。気づいたら新しい時代になっていたから、話せることは何もないよ」


 そう言って、静かに茶を啜った。

 絶対に嘘だと、親方は見破っていた。これは何かあるのだと、もしやこの老婆は幕末のどこかしらの英雄なのではないかとも思ったが、「話せることは何もない」と一度言われてしまえば、それ以上尋ねることもできない。


 ふうむと顎に手を当て、思案していた時だった。




 大地が、割れた。




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