ご近所の音
私の住んでいるボロアパートは4部屋のみで、しかも住んでいるのは私だけ。生活音が聞こえてこないというご近所さんなんて気にしなくていい気軽さから気楽に暮らしていたのだけど、とうとう誰かが引っ越してきた。でも私は2階、その人は1階。引っ越し挨拶にも来なかったから、まあ都会らしい関わりのなさだ。私にとってはありがたい。
その人が引っ越してきて気づいたのは、たぶん昼夜逆転の生活なのだろうなと思う。夜にまったく音がしないのだ。築40年以上のボロアパートなので絶対音がすれば1階であっても聞こえるはずだ。私が大学に行ったり帰ってきたりする時すれ違うこともなかった。私も特に興味がなかったので気にしていなかった。
そんなある日、夜一人でスマホゲームをしていると珍しく1階から何やら音が聞こえた。何やら、とつけたのはそれが何の音なのかわからなかったからだ。がたがた、みたいな。本当に生活音だなと思った。あまりうるさいわけじゃないけど、まあ今まで静かに過ごしてきた中では結構目立つというか気になるのでスマホにイヤホンをつけて解決。その程度の音量だ、イヤホンで防げるくらい。それを聞いて、やっぱり誰か住んでるんだなとは思った。あまりにも人の気配がしないから、誰もいないのかと思ってたくらいだ。
1階に誰かさんが引っ越してきてから2か月くらいかな、ちょっとした変化が起きた。私がバイトから帰ってきたとき、遠めに見てアパートの前に誰かがいるのだ。それが普通の人なら住んでる人かな、と思うけど、なんていうのかな。遠めに見ても「あ、やっべえな」と思うくらいにはチンピラ臭がする。相手は私に気づいてないようなので回れ右をして近くのコンビニに入った。
近くに寄りたくないし目に入れてほしくもない。ヤクザではなさそうだけど、服装とか髪型とかとにかく「僕ヤンチャしてます!」と書いてあるかのような、そんな感じ。アパートの前にいるということは住人じゃないな、住人の……知り合い? 嫌な知り合いだ。この瞬間私の中でその人には関わらないようにしようと決めた。どうせ会わないけど。
その日から、1階からの生活音がなんとなく増えた気がした。さすがにすべての音が聞こえるわけじゃないけど、しゃべる声、というか男が一方的にまくしたててるような雰囲気の会話、物をぶつけるような音。住んでいる人が男なのか女なのかわからないが、どれも全部あの男だろうというのはわかる。雰囲気的に住んでいる人はこの人より下の立場にいて、いいように扱われているような感じ。バタンバタンと音がうるさいのも動作が荒々しいのだろう。わざと音を大きくすることで威嚇しているような感じだ。
借金取りなら家の中に入れないし、先輩とか?住んでいる人の声がまったく聞こえないのが不気味だ。私の住む部屋はその人の真上じゃなくて対角線なのが助かっている。全部聞こえたら苛々もつのる。まだ、他の音を聞くことで気にならないのが救いだ。
ある日の夜だった。私が珍しく早寝をしようと夜10時半には布団に入った時の事だ。1階から妙な音が聞こえてきた。ガン、ガン、と何かを打ち付けるような音。規則正しいリズムで鳴り続ける。決して大きな音ではない、例えば硬いもの同士がぶつかるような感じじゃない。DIYではなさそうだ。その後バン、バン、と先ほどとは違う打ち付ける音になった。
別に眠かったわけじゃないから苛ついたりはしないが、何の音だろうと気になってしまう。何の音に似てるだろうか。私の生活の中では聞かない音だなあ。でもどこかで聞いたことのある音のような気がする。その後もバンバン音は細々と続いた。変な話、それほどうるさかったわけじゃないから私は気が付いたら眠気に誘われてそのまま寝てしまった。
次の日の朝、何気なくテレビをつけると定食屋の朝メニューが人気、という特集をやっていた。深夜営業ができなくなってきたので朝ご飯に活路を見出そうとする店が多いらしい。意外にもカレーとかラーメンとか焼肉とか、朝からそれ? と言いたくなるようなメニューが多いらしい。ラーメン屋は朝にぴったりなあっさりめの出汁を取っているという紹介で店主が具材を中華包丁でダンダン、と切り分ける音を聞いて。
「あ、夕べの音これ?」
後半に聞こえてきたバン、バン、という音に似ていた。そういえば、ガンガン叩く音何かに似てると思ったけどアレだ、パンを作るときに生地をまな板に叩きつける音。下の階の人、料理してたんだろうか。あんな夜に? まあ、昼夜逆転してるならあの時間が昼みたいなもんか。
テレビを消して身支度を整ええる。今日は大学が午後からなので、午前中にバイトを入れたのだ。家を出ると珍しくご近所さんだろうか、女性が二人立ち話をしている。片方は中年の女性、もう一人は背を向けていたがくるりとこちらに振り返った。見た目は私と同じくらいだろうか、地味な見た目だが綺麗な人だ。
綺麗な人なんだけど。なんだろう、ちょっと独特な雰囲気だ。うまく説明できないけど、あまりお近づきになりたくないな。
「おはようございます」
若い女性がぺこりと挨拶をしてくる。私は誰? と思いながら軽く会釈をして通り過ぎようとしたが、若い方の女性が声をかけてきた。
「あの、このアパートに住んでいる方ですか?」
「ええまあ」
「あの、私隣のアパートに住んでるんですけど。夕べ、このアパートから変な音しませんでした?」
そう聞かれて首を傾げた。変な音? したかなあ。料理の音ならしてたけど。
「さあ?私昨日は10時過ぎくらいに寝ちゃったので何も。何時くらいですか?」
「えっと、確か11時くらい。じゃあ、気が付かなかったですかね?」
「そうですね。グースカ寝てたので」
そう言うと女性はぺこりと頭を下げる。そのまま通り過ぎると後ろから女性たちの会話が聞こえてくる。
「貴方は聞こえました?」
「何も聞いてないわねえ」
「そうですか」
隣のアパートにも聞こえるって、そんなにデカイ音だったのか。2階にいるのと外に漏れる音って聞こえ方違うんだな。まあ隣のアパートも相当なボロだし距離めっちゃ近いし、ある意味隣の方が聞こえやすいのかも?
そんなことを考えながら歩き、あ!と思い出して猛ダッシュで家に戻る。信じられない、財布忘れた! 全速力で戻って財布を掴み、そろそろ時間がやばいと駆け足で家を出る。
すると外にいた女性たちは中年の女性のみとなっていて、あの若い女性はいなくなっていた。私が走り抜けようとすると中年の女性が声をかけてく。
「ねえちょっと」
「すみません、急いでるんです」
「ちょっとだけ! お願い! ねえ、夕べ本当に聞いてないの? ガンガン、バンバンって音」
「寝てたので」
本当は聞いていたが、それを言うと話が長くなりそうなので嘘をついた。言いながら速足でその場を離れようとすると女性は諦めたらしく、それでも最後に
「聞いてたけど、言えないじゃない。あの子、ちょっと目が怖いんだもん」
と言っていた。確かに、ぱっちりと大きな二重は綺麗なのだが。睨まれているわけじゃないのにすくみそうになる。見据える、というべきか。圧が凄い。
バイトが終わりそのまま大学に行った。変な事があったなあ、と思い男友達にそのことを話してみた。話の流れをざっと聞いた友人が最初はふーん、へー、という反応だったが最後の辺りを聞いて真剣な顔でこちらを見る。
「なに?」
「いや……お前さ、今日誰かの家に泊まれない? 家出てた方が良いと思うぞ。引っ越し検討もした方が良い」
「何で」
「気になったんだよな。明らかにその変な音出してたのはその若い方の女だろ」
「隣のアパート住民ってのは嘘?」
「変な音出したから、周辺の奴が聞いてないか確認してまわってるって考えるのが妥当だ。で、お前は寝てたって答えて、おばちゃんは聞いてない、って答えた」
「うん」
「聞いてない、ってことは起きてたってことだ。本当に聞いてないなら起きてたけど気が付かなかったとか、お前みたいに本当に寝てたなら寝てたからわからない、って答えるのが普通だ。聞いてた? の問いに対してストレートに聞いたか聞いてないかを答える奴は絶対聞いてるんだよ。本当に聞いてなくても聞いてない理由をまず頭につけるもんなんだよ、日本人は」
そういえばこいつ、克己は心理学履修してたっけ。私も聞いたことがあった。相手に理解してほしいから、結論から言わず理由説明からするのは日本人の特徴らしい。相手にわかってほしい、自分を理解してほしいとう現れだとか。
「つまり……?」
「その女に、お前はマジで聞いてないって思われたかもしれないがおばちゃんの嘘はばれてる。あと、お前が変な反応しなかったのはその音が“変な音”って認識してなかったから。料理の音だと思ったんだろ? だから変な音、からは除外したから自然な返事ができた。加えて自分が何時に何をしてた、って言ってから相手に何時? って聞いたろ。相手に何時か聞いてからその時間なら、って流れだったら言いつくろってる印象になるが今回はお前から行動明かしたから怪しまれてないはずだ。いずれにせよ、そんな確認をわざわざしてくる奴がいるアパートなんざ引っ越した方がよくね? 気持ち悪いだろ」
うわあ、確かに。この先そんな音がしたら気になって仕方ないかなあ。
「でも、あのアパート奇跡的な立地の良さに対して家賃が激安なんだよ。これ以上家賃増えたら生活が」
「シェアハウス探すとか、なんかいろいろ方法はあるって。まあ引っ越す引っ越さないはお前の自由だけどな」
克己は口が悪いし気に入らないとチョップが飛んでくる奴だけど、友人思いで結構冷静に物事を判断できる奴だ。克己がここまで言うなら、というのもまあなんか思うところもあった。
その後克己の協力でなんとかアパートを見つけた。なんと克己の叔父さんが経営するアパートで丁度一人引っ越したばかりで空いていて、その部屋をそのまま私が契約できるよう叔父さんにかけあってくれたのだ。少し家賃は上がるけど、その分バイト先と大学が近くなったから移動時間が短縮できてプラマイゼロだろ、と克己は言っていた。確かにそうかもしれない。
私は割と荷物が少ないので、引っ越し代をケチって自分で荷物移動をすることにした。何故なら克己が手伝ってくれると言ってくれたからだ。男手があるのは助かる。
「え、荷物これだけ? 家電は?」
「家電はほぼ部屋に備え付け。だから言ったじゃん、奇跡のアパートだって」
運ぶのは布団と私の服、ちょっとした小物だけ。克己の持つ車は結構大きいので後部シートを倒せばすべてのってしまう。二人で荷物の出し入れをして、車に乗せると克己がトランクをしめた。
「マジで全部乗ったな」
「いらない物も処分したからね。じゃ、行こうか」
レッツゴー、と助手席に乗り克己が運転席でエンジンをかける。いやー助かった、住む部屋も新しくなるし気分一新。新しい家具はリサイクルショップで購入済みで、午後から新しい部屋に店の人が運んでくれることになっている。妙な案件だったけど、まあいいか。
走り出す車を、部屋の中から見守り小さくため息をついた。引っ越してしまったのなら仕方ない。それに本当に彼女は音を聞いていないようだったし、問題はないだろう。男と一緒に出ていったのだから同棲でもするんだろうか。あまり深く考えるタイプではなさそうだったので、今回の事はすぐに忘れてくれる気がする。だから、彼女は問題ない。問題はこっちだ。
そう思い、くるりと振り返る。部屋の中央には拘束され動けない女が恐怖に満ちた顔でこちらを見ていた。無論しゃべれないよう口もふさいでいる。
「お馬鹿さん」
そう静かに呟く。女は涙を流しながら必死に目で助けを訴えている。
「音を聞いてない、って嘘ついて終わってればこんな目に合わずに済んだのに。妙な探りしなければよかったのにね。何で中年の女って、人の家の事情を知りたがるのかな。関係ないじゃない、貴方には」
クローゼットを開けると血の付いたままの、いろいろな道具が出てくる。それを見て女はくぐもった悲鳴を上げた。口をふさがれているので蚊の鳴くような声だ。これなら周囲に聞こえないはずだ。
「ガンガン、はちゃんととどめを刺すために柱の角に何回も叩きつける音。バンバン、は関節ごとに切り分けるために包丁で叩き切る音。最近ドアの前で待ち伏せてた男を見なくなったでしょ。疑問は解消した?」
女は恐怖のあまり失禁している。それを見て、臭いなあと言いながら消臭スプレーを振りまいた。そしてクローゼットから長いロープを出してくる。
「今度は、静かに片づけないとね」
END