第九十三話:魔界の鉱石
体の震えが治まり、脅え切った思考が自由を取り戻し始めたのは、朝日が窓から差し込む頃だった。
上手く力の入らない体を引きずり、開けっ放しだったトイレのドアから這い出てベッドに転がり込んだ。
疲れた。眠い。…………怖い。
体力も精神力も限界を迎えているのに、目蓋は閉じることを頑なに拒む。目蓋を閉じれば、またあの時のことを思い出すのではないか。精神に刻まれた不安はどうしても消えない。
腕で目を覆って無理やりに暗闇を作る。
……大丈夫、何も見えない。怖くない。
自身の腕から伝わる体温。暗闇の奥にはグールの赤い瞳も、黄ばんだ歯も、何も見えない。
「ふぅ……」
肺から空気が抜けていく感覚が随分と久しぶりに感じ、全身からも力が抜ける。あれだけ頑なだった目蓋もいつの間にか落ちていて、俺の意識は深い眠りに落ちて行った。
ドンドンドン。
「レイホ、起きてる?」
扉を叩く音とアクトの声で目を覚ました。ほんの一瞬の安らぎにしか思えない睡眠であったが、どれくらい眠れたのだろうか。
「もうそろそろ、ここ出てくれって」
「あぁ、分かった。直ぐ行くよ」
もうそんな時間か。日の出が何時か分からないけど、退館時間が確か日中一時までだから……三時間くらいか?
目の周りが腫れぼったく、頭の動きも悪い。覚束ない足取りは、タンスの角に足の小指をぶつけてしまいそうだが、この部屋にはベッド以外の家具は無い。
「いたっ!」
顔を洗うために洗面所へ入ろうとした時だった。壁に足の小指をぶつけ、結局悶絶するハメになった。
眠りから完全に覚めた状態で顔を洗い、手早く荷物をまとめて部屋を出ると、アクトとシオンが出迎えてくれた。
「ごめん、待たせた」
「おはよ~」
「……なんか、疲れてる?」
「あぁ……寝付きが悪かったからな。今日は町の中で過ごすし、心配いらない」
「ふぅん」
どこか怪しんでいるようにも見えるアクトから逃げるように視線を外し、一階へと下りて退館手続きをする。
昨日は気付く余裕がなかったのか、カウンターの奥の壁にはカレンダーが掛けられており、店員に日にちを聞いたところ、今日は溟海の月の十九日だそうだ。魔界探索の為に出かけたのが四日とかだったから、三週間くらい経っている。何度も死んだけど、一年を三週間に短縮できたのなら苦労も報われるというものだ。
「ねぇ、朝ご飯食べていかないの?」
建物を出たところでアクトに呼び止められた。
昨日あれだけ食べたのに、もう腹減ったのかよ。
「金を下ろしてからな」
「お金なら、あたいが出すよ」
「いや、どの道、金は下ろさないとだから大丈夫だ。アクトも、少しなら我慢できるだろ?」
「ん」
北門通りから銭貨通りへ入って直ぐに預かり屋はある。扉に掛けられた札を見て営業中であることを確認して中に入ると、暗い赤紫の短髪をした若い店主——カイルさんが、読んでいた情報紙から視線を上げた。
「おぉっと! 久しぶりの顔と初めましての顔だね。いらっしゃい」
「お久しぶりです」
「しばらく見ないから、魔物にやられたんじゃないかって心配してたよ。生きててよかった、よかった!」
相変わらず人懐っこい笑みをする人だと思いながら、シオンのことを紹介して金を下ろす。金以外には衣類くらいしか預けておらず、何かを預ける予定もなかったので立ち去ろうとするとカイルさんに呼び止められた。
「おれっちは気にしないんだけどさ。このタイミングでダークエルフが来たのは、ちょっとばかり間が悪いかもな」
「どういうことですか?」
「月の初めに上流区のパストン家で殺人事件が起きたのは知っているか?」
「はい。一家全員が殺害されたってやつですよね」
パストンって人がどういう人なのか全く知らないが、プリムラに会った翌日に起きた事件なのでよく覚えている。あの事件がなければ、今頃はプリムラを助けることが出来ていただろうか。
「あれ以降、あちこちできな臭い事件が立て続けに起きててな。町中がピリピリとしているんだわ」
魔物相手とはいえ、武器を振り回している俺が思うのも変だけど、物騒な世の中だな。広場で寝泊まりしている時は平和で良かった。
「そんな時に厄災の象徴が町にやって来たら、そりゃあ歓迎なんてされないよね」
わざとだろう。明るい口調で言い放つシオンは、両手を上に向けて肩を竦めさせて見せた。
「ここの兵士は話が分かるから理不尽に容疑をかけられるってことはないだろうし、他の連中も町中で騒ぎ立てることはしないと思うが、一応気を付けときなよ。おれっちはあんまり協力できないかもしれないけど、いざとなったら倉庫に匿うくらいのことはするからさ。あっ! あんたらがうちの客である限りの話な」
最後にオチを付けて笑うカイルさんに釣られ、雰囲気が緩んだところで礼を言うついでに聞くことにする。
「お気遣いありがとうございます。パストン家の事件の後、プリムラという名前は聞いたことありませんか?」
「プリムラ? ……いや、情報紙は毎日読んでるけど、覚えがないな」
「そうですか」
手掛かりは得られなかったが、情報紙に名前が出ていないということは、事件に巻き込まれている可能性は低いとも考えられる。
「兄さんの彼女かい?」
「いえ、違います。ただの知り合いです。上流区にいるらしいんですが、詳しい行方が分からないので気になっているんです」
「おっと、こうも冷静に返されちゃあ、話を広げられねぇな。でも、そうだな……上品な客は少ないが、人の出入りは多い店だ。おれっちの方でもそれとなく聞き込みしておいてやるよ」
「ありがとうございます」
「いぃって、いぃって! こう言っておけば、何か情報が入っていないか気になって店に来てくれるだろ? ついでに何か預けてくれればこっちも儲かるしな」
なんとも抜け目のない事であるが、カイルさんの悪気の無い笑みを見て不快に思う事はない。俺はもう一度お礼を言ってから預かり屋を後にした。
「いやぁ、ご迷惑をお掛けしますなぁ」
後頭部を掻きながら呑気に笑って見せるのは、シオンなりの気遣いだと理解している。
「気にするな。けど、動く時は一人にならない方がいいな」
「は~い」
金を下ろしたらご飯にしようと思っていたが、今の話を聞いたら、先にシオンのマントを用意した方がいいか? 日中になって人通りも多くなってきたし……。
ぐ~~~……。
……喋らないと思ったら、腹の主張は激しい奴だな。
「ははは……。あたいもお腹空いてきたし、ご飯にしよ」
「そうしよう」
銭貨通りを南下し、エディソン鍛冶屋に向かいながら適当な飲食店に入って遅めの朝食を摂る。客の視線に注意を払ってみたところ、シオンに集中している様子だったが、敵意は感じられない。単純に珍しい種族だから視線を向けられている様子だった。
寝不足で疲れが残っているからか、あまり食欲が湧かず、昨日に引き続いて食べても味がぼんやりとしか感じられなかったが、美味しそうに食べている二人に気を遣わせないように胃の中へかき込んだ。
「ね、ね。プリムラってどんな娘?」
食後のお茶を飲んでいるとシオンが好奇心全開の眼差しで聞いて来た。
「おれも知らないな」
無表情で乗っかって来る奴もいるし、話しておくか。隠す必要もないし、遅かれ早かれ話すことになっていただろうし。
俺は魔界の探索に出る前夜の出来事を掻い摘んで二人に話した。
「ふぅん。変な女だね」
率直過ぎる感想だが、同意はできる。変を通り越して怪しいと言っても過言ではない。
「そーかな? 初対面の人に助けを求めるって、相当追い詰められていたんじゃない? 明るく振舞っていたのだって、何か理由があるのかも」
それもそうだ。だから忘れずにいて、助けてやりたいと思っている。
「レイホが助けに行くっていうなら、おれは付いて行くよ」
「あたいも! っていうか、レイホ、助けを求められているのにのんびりし過ぎじゃない? さっさと情報集めに行こうよ!」
「待て待て、そう慌てるな。先ずはシオンが目立たなく動けるようにしないとだろ」
俺よりやる気に満ち溢れている二人を宥めてエディソン鍛冶屋へと向かう。
金属を強く打ち付ける音が響く店の扉を開けると、カウンターには白いバンダナから赤茶色の髪の髪をはみ出させた男が立っており、俺の姿を見るなり赤い瞳を最大まで広げた。
「レイホ!! お前、生きてたのか!!」
カウンターを飛び越して駆け寄るタツマを手で制す。
「少し長旅に出てただけだ」
冒険者だから三週間くらい留守にしていても不思議ではないと思っていたので、こんな反応をされると逆に戸惑う。
「そうか、お前も逞しくなったもんだな。にしても、また新しい顔が増えたな。犬っ娘はどうした? 外で待ってるのか?」
一遍に話を展開していく奴だな。どれから答えればいいか迷うだろ。
「あいつは故郷に帰ったよ。こっちはシオン。見ての通りダークエルフで……偶然知り合った」
「え!? 帰ったの!? 急だなぁ……。でも、ま、こうして仲間が入れ替わって行くのも冒険者の宿命であり、楽しみなんだよな!」
なんで鍛冶師見習いのタツマに冒険者を語られているのかは置いておいて、目的を忘れるな。
「シオンに合うマントを探している。それと、エディソンさんは……」
「何の用だ?」
「ぎゃっ! 師匠、いつの間に!?」
いつか見た光景だと懐かしみながら、ハデスから渡された鉱石が入った袋を差し出す。
「魔界で手に入れた鉱石です。使い道が分からないので、見ていただければと思いまして」
俺から袋を受け取ったエディソンさんは、中身を見た途端に驚きを露わにした。それこそ、普段は伸ばしっぱなしの灰色の髪に隠れている茶色の瞳が見える程だった。
「とんでもねぇ物を持ってきたもんだ」
「おっ! なになに!?」
「お前はマントを見繕ってやれ」
エディソンさんの驚愕に食いついてきたタツマであったが、袋の中身を見ることもなく一蹴された。
「どれも魔界でしか採れない、しかも希少な鉱石だ」
そう前置きをしてからエディソンさんは鉱石を一つずつ取り出して説明をしてくれた。
一つ目は、うっすらと青い光沢を持つ鉱石で、綺麗な丸型なのも相まって、鉱石というより水晶や宝石と表現した方が正しいとさえ思える。名称はカイザーメタル。地上、魔界、そして聖域を含め、現存するどの鉱石よりも硬いとされている。しかも特殊なマナが混ざっており、魔法への耐性も非常に高いという。
二つ目、今度は無骨で石灰に似た色合いの鉱石だ。カイザーメタルを見てからだと安っぽく見えるが、名称はデビルストーンと物々しく、デーモンの骨と鉱石が混じり合った物だ。特性は軽く、硬いとシンプルであるが、驚いたのはその軽さだ。エディソンさんに「試しに持ってみろ」と言われて持った時、まるで紙粘土でも持っているかのようだった。
三つ目、前の二つから比べれば一番鉱石らしく見えるが、闇をそのまま形にしたかのような真っ黒な鉱石に、思わず息を飲んだ。名称はタルタロス・マテリアル。魔界でもごく一部の地域でしか採取できないとされており、物理では決して壊れない鉱石なのだそうだ。
「ねぇ、そいつとカイザーなんとかをぶつけたらどうなんの?」
「……」
「……」
アクトの何気ない質問に、希少鉱石を前にして興奮気味だった空気が一気に冷め、耐えがたい静寂が訪れた。
おい、どうすんだこの空気。
「どれも武具にすればこの上ない装備にできるが、人の手でどうにかできる代物じゃねぇ」
あ、何事もなく話しを進めるんですね。
「ねぇ……」
「ぬっ!!」
「うっ……!」
凄いな。食い下がろうとするアクトを眼力だけで黙らせたぞ。
「加工できないのなら……」
売って金にするしかない。そう続けようとした口を噤んだ。この世界にはドワーフがいるんだったな。ドワーフなら特殊な加工技術を持っていて、この鉱石たちをどうにかできるかもって展開か?
言葉の途中で考え込む俺を見て、エディソンさんは微かに口角を上げた……ような気がした。
「魔界の加工技術を習得しているドワーフなら加工できるが……」
そこで言葉を切り、今度は間違いなく、けれど微かに口角を上げ、カウンターの方でマントを広げて見せているタツマの方を見た。
「あいつの腕を鍛え抜けば、わしらでもどうにかできるかもしれん」
「タツマが?」
正直、意外だった。タツマは転移者特有のアビリティ、フェイマスを身に付けているが、それは自身が加工した武具に名を付けることで追加効果を付与するといったものだ。言ってしまえば、加工する技能については何の効果も発揮しないというのに、どうにかできるのか?
「ドワーフを探すにせよ、あいつの成熟を待つにせよ長い時間は必要になる。今はお前さんが持っておけ」
三つの鉱石が戻された袋を返される。エディソンさんの言う通り、鉱石を加工するのは一筋縄ではいかないようなので、預かり屋にでも預けておくか。
「はい! マント一着、毎度ありぃ!」
カウンターの方で陽気に商売をしている男が、エディソンさんでも手が付けられない鉱石を打つ姿は想像できないが……
「タツマのこと、厳しく鍛えてやってください」
期待して待つことくらいはしてやれる。……無能力者の分際で偉そうだな。




