第九十二話:明日がある
陽が落ちた事で正門は閉じられていたが、通用門を通って町の中に入る。
帰ってきた……。
体感的には一週間ぶりくらい、過ごした期間は一ヶ月程度。久しぶりと言うには短く、懐かしむと言うには浅い期間ではあっても、見慣れた街並みを目にした瞬間、安堵の溜息を吐かずにはいられなかった。
どうせならこのまま倒れて眠りに就きたいが、冷え切った体で道端に倒れたら間違いなく病院送りになる。
ぐぐ~~ぐぐぐ……。
アクトも町に着いて安心したのか、恥ずかし気もなく腹の音を鳴らしている。
俺も、恐らくシオンも腹は空いているので飯にしたいが、こんな濡れ鼠を受け入れてくれる飲食店は無いだろう。
今は落ち着いているが、陽が落ちる前は雨脚が強かったから、屋台が開いているか怪しいところだし、屋台の食べ物でアクトの腹を満たすのは中々に骨が折れそうだ。
「宿を探そう。アクト、もう少しだけ頑張ってくれ」
「ん」
返事はしてくれたが、顔を上げるのも億劫なのだろう。俯いたままで足取りも覚束ないが、シオンが支えてくれているので何とかなるだろう。
手持ちは百五十ゼースくらいはあった筈だから、一泊分と食費くらいはどうにかなる……よな。北門からなら預かり屋が近いし、金を下ろしてから行った方がいいか?
「……シオン、金持ってるか?」
俺の面倒臭がりが発動した。
アクトは物をよく失くすので、金は俺がまとめて管理している。二人……いや、三人分併せて百二十ゼースが所持金だ。
「いくらかは持ってるけど?」
「多分、大丈夫だと思うけど、宿代が足りなかった時は助けてくれ」
「あ、なんだ。そんなことなら、いくらでも助けるよ!」
快い了承に感謝して宿を探す。宿屋が建ち並ぶ参集通りは真反対となるが、北門通りにも宿屋はもちろん、商業施設は一通り揃っている。問題は部屋が空いているかどうかだ。
店の名前を見ても高いのか安いのか、飯が出るのか出ないのかは判断できないので、手当たり次第に店員に尋ねていく。
一軒目は食事はビュッフェで提供され、個室にはシャワールームが完備されている贅沢仕様だった。しかし、残念ながら一人用の部屋が一室しか空いていないとのことで、非常に残念ながら諦めるしかなかった。……一泊六十ゼースなので、空いてなくて良かった。
二軒目は部屋は空いていて、価格もお手軽だったが食事が出ないのでお断り。
三軒目、北門通りの目立つ所にある宿では最後になる。外観で既に一階が食事処と見えたので、食事に関してはクリア。二階と三階が宿泊場所ならば、部屋数にも期待が持てそうだ。
扉の前から店員を呼んで設備と部屋の空き状況を確認すると、各部屋に体洗浄魔法室が備え付けられており、ちょうど一人用の部屋が三部屋空いていたので宿泊を決めた。
「こちら、お使いください」
宿泊を決めた後、店員からタオルを三枚渡された。気遣いと言うより、一階で食事をしている客もいるので、濡れたままの入店は迷惑といった意味合いだろうが、こちらとしては体が拭ければなんでもいい。
「ありがとうございます」
礼を言って自分の体と、シオンと協力してアクトの体を拭いてやる。
「そちらのお客様、体調が優れないので?」
ぐ~ごごご……ぐるるる~。
魔物の鳴き声みたいな腹の音で返事するなよ。でも、店員にはよく伝わったようだ。
「あはは……。もし良ければ、お部屋へ行かれる前にお食事にしますか? この天気で、席も空いていますので」
タオルで拭いても以前として衣服は湿ったままだったので、このまま席に着くのは忍びないと思っていたけれど、店員が勧めてくれたのならば甘えさせてもらおう。
「すみません。お願いします」
俺たちからタオルを受け取った店員に案内され、店内の奥の席に着く。机に突っ伏したアクトが自力で起き上がるのは、それから少し経ってからの事だった。
無理を言ってアクトの料理を先に持って来てもらい、暴力的な食欲に気圧されつつ、配膳された自分の分の料理を口にする。そこで俺は違和感を覚えた。
久しぶりの食事で、十分な空腹感もあったのだが、妙に味気なく感じる。初めて食べる料理ばかりであったが、炊いた麦に肉の炒め物に野菜サラダといった、当たり障りない物を選んだつもりだ。
「バクバクバクバク……」
「誰かとお店でご飯なんていつぶりだろう……」
一心不乱に食べるアクトと、一人で感動しているシオンが俺の異変に気づくことはない。
なんだろ……口に合う合わないとかじゃなくて……味がしないな。こっちの世界は味付けが薄めだけど、食材自体の味がしっかりしているのが多いから、何かしらの味はある筈なんだけど……疲れか?
舌は寂しいが、胃は歓迎しているようなので、料理は滞りなく口に運ばれて完食に至った。
「ねぇ、ここの人たちって、ダークエルフのこと気にならないのかな?」
食事が終わった頃合いに、シオンが小声で聞いて来た。
「さあ? 多種族の出入りが多いみたいだし、他よりも異種族に対して寛容な可能性はあるかもしれないけど」
ダークエルフが排斥の対象とされていたことすら、シオンに会って初めて知った。町の人々がどう思っているかなんて、予想しかできない。
「やっぱ、目立たないようにマントでも羽織った方がいいよね?」
「人の視線が気になるなら羽織った方がいいんじゃないか? でも、今日は買いに行くのは勘弁してほしい」
「あ、うん。あたいも流石に今日はもう出歩きたくないかな」
「明日、鍛冶屋には行く予定だから、そこで探してみればいいよ」
鍛冶屋で非金属のマントを探すというのも妙な話かもしれないけど、多分売ってるだろ。
それよりも明日だ。色々とゴタつくから冒険者ギルドは受けられない。というか疲れたから受けたくない。何時頃に起きて、どの順で店を回るか……あんまり寝坊すると一日で回りきれない可能性も出てくる。でも、明日起きられるか?
冷えた体と空腹は料理を食べたことで解消されたが、今度は疲労感がドッと押し寄せて来た。
「ごちそうさま」
止まらずに食べ続けてきたアクトが、食器から完全に手を離した。何人前食べたのか知らないが、確実に宿代は足りなくなる。事前に聞いておいて良かったと思いつつ、けれどやはり申し訳なく思いながら、改めてシオンに支払いの協力を求めるのだった。
「明日はどうするの?」
食後の一息を吐いているとアクトに聞かれた。俺もまだ上手く予定立てられてないんだけどな……。
「日中の早い時間に起きて、薬屋と鍛冶屋に寄ってからギルドに行って、下流区に帰る感じかな」
「ん、わかった」
店の場所的に薬屋から鍛冶屋に行った方が効率良さそうだけど、シオンがマントを気にしていたし、先に鍛冶屋へ行った方がいいか。あぁ……それよりも俺の住まいについて伝えておくべきだよな。
「シオン、ここまで連れて来て言うのもなんだけど、俺たちまともな所に住んでなくてさ……普段は知り合いの病院の待合室とか倉庫を借りて寝泊まりしてるんだ」
金も住む場所もない。こんなに情けないことがあるか? こいつは早急に改善しないといけない。明日、帰ったらネルソンさんに相談しよう。
「そんなの気にしなくていいって! あたいがそんなにお上品に見える?」
エルフの血を引いていて容姿が優れているからお上品に見えなくもないが……でも、こう言ってくれるのはありがたい。
「ありがとう」
感謝はしても甘えるな。明日、絶対に住む場所について目処を立てるぞ。
二人に気付かれない腹の中で強い決心をした。
腹の動きが落ち着いてきた頃合いを見て食事代を支払い、宿泊室の並ぶ二階へと足を運んだ。長い廊下の片側に扉がいくつも並んでいて、扉に表記されている番号と渡された鍵の番号を照らし合わせる。
「それじゃあ、また明日」
「ん」
「おやすみ~」
三人が隣り合った部屋にそれぞれの鍵を使って入室する。体を洗って、歯を磨いたら温かいベッドで寝るだけだ。
部屋はトイレや体洗浄魔法室の設備も併せて六畳程度で、家具は机や戸棚すら無く、ベッドしかない。質素とも取れる部屋であったが、一人用なのだからあれこれ家具を置かれても使い切れないし、設備が充実している分、宿泊費が高くなるくらいならシンプルな方が良い。部屋を一通り見回しても汚れは見当たらないし、個人的には好印象だ。
個室にトイレと体洗浄魔法室が備え付けられて三十ゼースという、格安の理由に一人で納得しながら荷物を置き、湿って肌に張り付く服を脱いで体を洗いに行く。
「……どうやって使うんだ?」
入室すると同時に点灯した魔法の照明の下、地面に書かれた魔法陣に首を捻った。
魔法陣の上で仁王立ちしてみるが何も起きない。これ、魔力が無いと反応しないやつか? いや、トイレの水はマナ結晶みたいな石に触れれば流れたし……あ、あった。
壁に埋め込まれている石は二つ。水色と黄緑色であることから、水と風が発生すると思われるが……水って冷たくない?
ぐだぐだしてても仕方ないので、とりあえず水色の石に触れてみると、頭上からシャワー状に水が降り注いだ。水だと覚悟していたので、浴びた時は反射的に体をビクつかせてしまったが、改めて意識すると水ではなく程よく温められたお湯だった。
「ほっ……」
心身共に解され、思わず口から安堵の声が漏れ出た。が、突然お湯が止まってしまう。
あれ? 壊れた?
焦りながら水色の石に触れると、再びお湯が降り注いだ。どうやら一定量で供給が止まってしまうようだ。
宿のお湯だと思って贅沢に全身を温めた後、黄緑色の石に触れると、今度は頭上から全身を巻くような風が吹き、水気を攫って行ってくれた。
濡れていた肌着等も風で乾かすという小狡いことをして、歯も磨き終えたら後はもう明日の準備をして寝るだけか。
ベッドに腰掛け、バッグを……バッグを……あれ? どうして俺は仰向けに倒れているのだろうか。
暖色の照明に照らされた天井を見ていると、忽ち全身が脱力していき、今はもう天井すら暗闇に閉ざされた。
あぁ……もう、限界だったんだな。部屋に来てから、座る間も無く体とか洗って正解だったな……。
照明を消していないだとか、ちゃんと布団を被っていないだとか、頭の中で気付いているものの、意識はどうしようもなく深い眠りに落ちて行った。
手足を力尽くで押さえられる恐怖感。
全身に伸し掛かる圧迫感。
赤の瞳と薄汚れた歯より迫り来る絶望感。
人としての思考なんてない。あるのは生物の本能である生への執着。
だが、そんな感情も本能も、訪れた激痛の前では塵屑に等しい。
汚く千切られ、擦り潰され、体の一部を剥がれる。
視界に映るのは惨たらしく食い荒らされた自分の死体。
「っ!!」
跳ねた。体が。
殷々とした。心臓が。
震えた。手足が。
覚醒した。記憶が。
「うっ!」
激しい吐き気に襲われ、反射的にトイレへ駆け込む。だが、口からは何も出ない。食べた筈の麦も、肉も、野菜も、胃液さえも。胃から食道に掛けて、ただひたすらに不快な何かが蠢いている。口の中に指を入れようとするが、震えた手足は自分の意思で動かない。
どうした。なんだ。と考える余裕はない。頭の中はグールの大群に食い荒らされた、あの時の光景が繰り返し思い出されていた。
歯に皮を突き破られる感触、肉を削がれる感触、臓器を弄ばれる感触、全てがあの時のまま。細胞の一つ一つ余すことなく、あの時の記憶を呼び起こしている。
震えを抑えようとする手が震え、吐くこともできず、恐怖で気絶することもなく、俺はただ脅え続けるしかなかった。
どうやっても拭い去れない、死の恐怖に。




