第七十六話:予想には追いつけない、予想は追いつかない
手足を力尽くで押さえられる恐怖感。
全身に伸し掛かる圧迫感。
赤の瞳と薄汚れた歯より迫り来る絶望感。
人としての思考なんてない。あるのは生物の本能である生への執着。
だが、そんな感情も本能も、訪れた激痛の前では塵屑に等しい。
汚く千切られ、擦り潰され、体の一部を剥がれる。
奪い取った血肉を己の糧とする訳でもなく、ゴミ同様に吐き捨て、新たな血肉を貪る。他者の命を奪う為にのみ行われる行為。
悲鳴。
叫喚。
絶叫。
自らの声で喉が、耳が、頭が狂いそうになる。
……いや、もう狂っている。悲鳴や絶叫などと表現するのは綺麗すぎる、狂わずして発せぬ蛮声。
しかしその声も長くは続かない。燃え、擦り切れそうな意識は有れども、声は出せぬ。もはや出せるのは体液のみ。
失ったのは血か肉か……。
抜き取られたのは骨か臓物か……。
失われた意識の中で流れる光景も、すぐに潰れてしまった。
暗闇を見た。どこまでも落ちる暗闇だ。
辺りも同じ暗闇なのに、どうしてか下へ落ちる暗闇だけは認識できた。そして、それを認識した時には既に、俺の目は光りを捉えていた。
「……っ!!」
体を飛び起こす。
赤いカーペット、壁際に並んだ鎧、階段の上の玉座。そして、次元の境穴への入口。
戻ってきた……。
傷一つない体を触って生き返った事を確認すると同時に思い出す、死の経緯。
食われた? ……食われた。
頭を、首を、胸を、腹を両手で代わる代わる押さえる。
大丈夫……ある。繋がっている。大丈夫……。
自分を落ち着けようと、凄惨な記憶を上書きしようと、気休めの言葉を反復する。けれど、どれだけ考えても、どこを押さえても、体験した恐怖は拭えない。竦然とする自分を制御できない。
くそっ、くそっ!!
掴んだ両腕に力を入れると、記憶がより鮮明に思い出され、胃液が逆流してくるのを感じた。しかし、既の所で堪えたのは、二人が生き返ったからだ。
口と胸に手を当て、胃液を押し戻すことに集中したお陰で、死の不快感が薄れる。
「はぁ……はぁ……」
落ち着け、落ち着け。体が戻ってきても意識が戻るまで少し時間が掛かる筈だ。あぁ、くそっ、口と食道が気持ち悪い。
「ん、戻って来れた」
アクトが体を起こし、続いてシオンも起き上がる。
もう少し寝ててくれよ……。
「レイホ、ごめん。全部倒せなかった」
生き返った直後だというのに、律儀に謝罪してくるアクトを見て寒気がした。
ここにいるってことは死んだんだろ。この復活時間、ほとんど俺の後を追ってきたようなものだ。アクトの実力から言って、偶然俺と同時期にグールにやられたとは考えにくい。
捨てたのか……?
自決したのか無抵抗なのかは知らないが、あの場で生きる抵抗を止めたのは恐らく間違いない。
脳裏でグールの開けられた口が迫って来る光景がフラッシュバックする。
どうやった?どうやって二人は死んだ? 魔法? それとも武器? 食われたわけじゃないよな……あんな死に方を選べる奴、いるわけがない。きっと、自分たちで……アクトの背中から覗いている大太刀の柄を見て、俺の体は後退っていた。そして、もしもの事態に陥った時、二人に出そうとしていた指示の残酷さに気付く。
助からないなら自ら死を選べと、味方を殺せと、俺はそう指示を出す気でいたんだ。グールに食われて死ぬくらいなら、魔法で一思いに死んだ方が楽だろうと考えてのことだ。実際グールに食われて、俺の考えは間違っていないと言える。だけど、間違っていないからいいのか? 正解なのか? 人間が正論だけで生きられないのは知っている筈だろ。
「レイホ!」
アクトが俺の名を呼ぶと共に手を掴んできたことで思考の闇が払われ、自分が階段に躓いて倒れそうになっていたことに気付く。
「危ないよ」
小さい体だが確かな力に引かれて体勢を直す。
「あぁ……悪い」
「顔色悪いよ。座ったら」
いつも次の行動を急かしてくるアクトからの提案に思わず甘えてしまいそうになるが、こちらに背を向けて座ったまま、ぼーっと次元の境穴を見ているシオンが気になった。
「シオン?」
「えっ! あ、何?」
飛び上がりそうな勢いで立ち上がったシオンは辺りを見渡してようやく俺たちを見つけた。
「どこか変わったところはないか?」
「う……ううん。全然! 大丈夫!」
嘘だ。見るからに大丈夫そうじゃない。けど、なんて声を掛ければいいんだ。何があった?大丈夫そうに見えない? 違う、そんな聞き方じゃ言葉を引き出せない。
「……そうか」
結局これしか言えない。死んだ時に何かあったのか、なんて頓珍漢なことを考える始末だ。
「……」
「……」
「……」
沈黙。なんだよこれ。どっちか何か喋ってくれよ。でも、「どうする?」なんて聞いてくるなよ。どうしていいか分からないし、分からないなりに動いた結果がこれなんだ。
「い……生き返って来れたね」
重い空気に耐えかねたシオンの声は引きつっている。
「ああ」
「えっと、その……ご、ごめん」
何でシオンが謝るんだよ。……聞きたいけど、問い詰めるようで嫌だな。
立ち尽くすばかりで永遠にも感じる沈黙が流れたが、アクトが大太刀を背中から下ろす音で時が流れ始めた。
「調子良くないなら休んだ方がいいよ」
左手で大太刀を持ったまま次元の境穴に向かって歩いて行く。まさか、一人で行くつもりなのか?無謀だ。
「おれが様子見て来るよ。あと、できるだけ敵を殺す」
「無茶を言うな」
あと一歩で次元の境穴というところでアクトは足を止めて振り返った。
「じゃあどうすればいい?どうすれば無茶じゃなくなる? 死んでも生き返るのに、敵を殺しに行くのが無茶なの?」
知るかよ。無茶をしないで次元の境穴を抜けられる方法があるなら俺が知りたい。
「レイホだって、死んでも生き返るからおれたちに魔力を残せって言ったんでしょ。無理な状況になったら死んでやり直せるから」
……食い殺される苦痛よりは魔法で死んだ方が楽だと思ったからだけど……確かに、あの時は考えてなかったが、心のどこかで生き返ると思っていたんだと思う。そう思っていなかったら、自決させようなんて考えなかった。生き返る保証なんてないとか言っておきながら、都合のいいことだ。
「……そうだな」
「え……本当?」
疑問を口にしたシオンは脅えたような、悲しむような目で俺を見ている。気付いていなかったのか、考えないようにしていたのかは分からないけど、俺の口から話すべきことだよな。
「グールに食われて死ぬより、魔法で一思いに死ねた方が楽だと思った。生き返って来られる確証があった訳じゃない。ただ単純に、苦しまなくて済むようにって思って……」
「それじゃあ、初めから生きて突破することを考えてなかったの!?」
眉根を寄せ、肩を怒らせたシオンに詰め寄られる。
考えてないわけないだろ。ただ、最悪の状況に陥った時の為に考えていただけで……。言っても納得してもらえないか。実際、城を目指すことが正解かどうかも分かっていない状況で突っ込んだわけだし、生きて先に進んでやる! っていうより、生き残れたら運が良い、程度の気持ちだったのかもしれない。自分の考えがどうだったかすら曖昧なんだよ。
「生き残れる可能性は……高くないと思った」
弁明を諦めた癖に曖昧な言葉。
知らない、分からない、思い出せないから責めないでくれ。そんな気持ちが心のどこかにあるのだろう。もしかしたら、壊れてしまいそうな心の防衛機能が働いたのかもしれない。けど、そんなことシオンには関係ない。
「じゃあ、もし、レイホが無事で、あたいかアクトのどっちかが危なかったら……」
「無事な方に魔法か武器で……殺せって言うだろうな」
嘘だ。そんなこと言えない。言う覚悟なんてない。頭では状況を予想できても、実際の場面で予想した自分にはなれない。けど、それを言ってシオンは納得するのか? 俺が答えた通りの事をするって、もう思い込んでるんだろ。だったら、俺が予想通りの人間になってやった方が早い。言い合ったって、俺が命を諦めることや、味方の命を奪う選択肢を考えていたことに変わりはないんだから。
「…………レイホのこと……分かんないや」
遭ってまだ数日も経ってないどころか、一日経ったかすら怪しい時間しか一緒にいないんだ、分かられてたまるか……。
「アクト?」
力なく項垂れるシオンから目を離すと、アクトの姿はどこにも見えなかった。扉は開かないし、どこかに隠れるなんて意味の分からない行動をするわけはない。考えられるとしたら、次元の境穴に入ったことだけだ。
「あいつ!」
自分も死んだ直後で、俺とシオンが言い合いしてるのに勝手に動くって、どんな精神力してんだよ。
アクトを追って次元の境穴に入る直前、視線を後ろに、シオンに向ける。追い掛けてくるつもりはないようで、赤いカーペットの上に座り込んでいる。当然だろうな。あんな言い合いをした直後で協力して来たら、それはそれでどんな精神力しているのか疑問になる。けど、このまま行くのは正しくない……いや、間違いだ。
「そこで待ってろ! アクトを連れて戻って来る! 生きて!」
待たせてどうする? アクトを連れ戻してどうする? 生きて帰って来られる保証は?
何も分からない。確かなことなんてない。けど、じっとしている訳にも、何も言わないでいる訳にもいかない。シオンに信用してもらいたいとか、アクトに無謀なことを止めさせたいとか、そんなんじゃない、ただ……動いてた方がごちゃごちゃと考えないで済む。結局のところ、俺はどこまでいっても自分の為にしか動けないし生きられない。
「そういう人間だよ、俺は」




