第六十二話:月下の夢
濡れた土の匂いが鼻孔をくすぐり、湿った空気は涼し気な風を肌に張り付けていく。溟海の月になってから初めて顔を見せた月は深い青に染まっており、得も言われぬ幻想的な夜空が広がっていた。人生初の青い月ではあったが、興味や感動よりも妙な心地よさを感じたのは、俺の心の中に億劫さが広がっていたからだろうか。
明日、いよいよ魔界の調査へと向かう。そこに不安や意欲は無く、億劫さだけが時間が経つにつれて大きくなっていくだけだ。
アルヴィンに協力して魔界の調査に行くことをソラクロとアクトに話したら、理由も聞かずに二つ返事で承諾してくれた。聞かれないならば言う必要もないと思っていたが、喉の奥に気持ち悪さが残っていたので、魔界に行く理由やユニオンへは加入しないことなど、茶店でアルヴィンと話したことを掻い摘んで話した。ソラクロが幻獣であるかもしれないということについては、余計な憶測で混乱させるのは悪いと思って伏せておいた。
ソラクロは自分の記憶の手がかりが掴めるかもしれないと聞いて、期待半分、緊張半分といった様子で尻尾を落ち着きなく振っていた。
アルヴィンと話していた時は協力することが正解……少なくとも間違いではないと思った。初めは誘われたユニオンへの加入を強制されず、一度挑戦すればお役御免になれる。あの場で断ったところで、日を置いて改めて説得しに来ることは容易に想像できる。それに、俺たちがこのまま冒険者稼業を続けていては、いつまで経ってもソラクロの記憶は戻らない。
魔界に行くと決めて二日経ったが、急ぎ過ぎたと考えたのは一度や二度ではない。あの場でソラクロが幻獣である可能性、魔界に記憶の手がかりがある可能性を聞き出せただけでも十分な収穫だったんじゃないか? もっと力を付けて、魔界への行き方が分かってから、俺たちだけで調査に行けば良かったんじゃないか? 一人が良いって考えておきながら、俺たちってなんだ? 結局誰かに頼るのか? ソラクロの記憶が戻ったらその後は? 俺はどうしたい?
増殖し続ける自分自身への疑心に耐えきれなくなり、俺は皆が寝静まっている時間にも関わらず、寝床を出て夜の街へと出た。
「はぁ~……」
人通りの無い大通りを占領せんと盛大な溜め息を吐いてみる。だが、ちっぽけな人間一人の溜め息は僅かな時間、微かに空気を温めただけで夜風に攫われてしまう。
風が吹くと肌寒いな。この月に野宿していたら風邪引いてただろうな。そもそも雨が多いから野宿できないか。
先月の土塊の月は雨が少なく空気は乾燥していて、気温に関しては比較的温暖だった。ひと月は一週間——五日——が九週あるので、日にちにすると四十五日。
カレンダーを持っていないし、こっちに来てから日にちを数えるのも忘れてしまっていたが、多分、ひと月くらいは経っていると思う。あっという間だったような、まだそれしか経っていないような、どっちつかずな感覚だ。でもそんなに悪いペースじゃないと思う。初めは千九百ゼースなんてどうやって一年で返すんだよ。と思っていたが、一人でどうにかマタンゴを倒して、ソラクロと出会って、オーバーフローを生き延びて、今はアクトもいる。東の魔窟に出て来る魔物くらいなら、もう危なげなく倒せるし、お金もそれなりに余裕はできて来た。
…………仲間、か。
俺にはソラクロのことも、アクトのことも理解できない。何も持っておらず、素性も知れぬ人間の言葉を疑いもせず、素直に付いてくるあいつらの考えが。俺はただ偶然その場に居合わせて、運よく助けることができただけだ。結果的に命を救ったに過ぎないのに、なんであいつらは……。
「また面白い恰好してる」
細くも澄み切った声音は、肌寒いが心地よいと感じていた夜風の中で鮮麗に聞こえた。
え……誰?
自分の顔を隠すように額を掴んでいた右手を離して顔を上げる。あれ、いつの間に自分の顔を掴んでたんだ?
考え込み過ぎて自分の行動に対する記憶が曖昧になっているが、そんなことはどうでも良かった。大通りを進んだ先、上流区へと続く長い階段は深い青の月光を反射して神秘的に輝いているが、階段に座っている少女の所為でその神秘性は脇役へと押しやられてしまっている。
色素の薄い金の細やかな長い髪は深い青の月光に輝きを与え、青白く染まった肌は気付いたら夜闇に攫われてしまいそうな儚さを見せる。薄い唇と、小さいが整った形の鼻は小さな顔と非の打ち所がないほど合致していて、大きな碧眼だけが少女の中で唯一強い主張を放っている。飾り気のない地味なドレスも、彼女と着てもらえれば至高の一品へと様変わりする。
こんな美少女、一度でも見たことがあれば忘れることはない。……いや、今ここで会うまで、前に会ったことは忘れていたけど
いつだったか、ちょうど前もこの辺り、噴水広場の方で身なりの良い紳士に迎えられていた少女だ。
何でこんな時間のこんな場所に? 上品な暮らしに嫌気が差してお転婆ったとか? なんでもいいや、俺が関われるような相手じゃない。
他人に痴態を見られたお陰で頭も冷静になったし、さっさと帰って寝よう。そう思って踵を返したが、後ろから慌てた声が投げ掛けられた。
「あ、ちょっと、無視しないで」
……どうしたもんか。関わったら変なことになりそうなんだよな。恵まれた容姿ってのは、それだけで他人を惹き付ける。他人から関心を持たれれば、その分だけ厄介ごとも増える。この少女と話したのがどこかから漏れて、熱狂的なファンに刺されるなんて死んでも御免だ。
うーん、でもなぁ……無視は良くないよなぁ。事情は知らないけど、こんなところで一人にさせていたら、それこそ事件が起きかねない。下手したら俺に冤罪が掛けられる。
首だけ振り返ってみると、少女は自分の隣りを手で軽く叩いて見せた。
………………。
「は・や・く・お・い・で」
黙って考えていると、手を叩くリズムに合わせてせがまれる。
………………………………。
更に黙って待ってみるが、向こうも諦めない。仕方ないな。
首を正面に戻して、少女に聞こえないように溜め息を吐いてから、今度は体ごと振り返った。
「何か用ですか?」
階段の下から見上げながら聞く。階段は長いが、少女が座っているのは中流区側から数えて十段程度の所なので、話す分には問題ない距離だ。なのに、少女はわざわざ階段を下りて来る。
「用か……んーと、私の思い出作り! ほら、座って」
中流区から二段目の所まで下りてくると、再び座り込む。まだ雨が乾き切ってないのにお構いなしなんだな。
「あ、もしかして濡れてるから嫌? なら……はい、どうぞ」
ドレスのポケットから薄いピンクのハンカチを取り出して自分の隣りに敷く。まさかこの少女も相手の思考が読めるとか……ないよな。
「……知らない人間にそういうことしない方がいいですよ」
「え? ……あ、そうか。私の名前はプリムラ。あなたの名前は?」
何が「そうか」なのか。自己紹介してくれって意味じゃないんだけどな。
「レイホです」
「レイホね。よろ……」
常人の目には毒になる笑顔を見せたかと思えば、気まずそうに口を閉ざして俯いてしまった。
自己紹介した後に「よろ」から始まる言葉といったら「よろしく」だと思うけど、言い淀む理由が分からない。やっぱり関わらない方が正解だったか。
「……レイホはこんな時間にどうしたの? 何か悩み事?」
何事もなかったかのように質問してくるなよ。
「……べつに、ただの散歩です」
今日知り合ったばかりの他人に「悩み事?」と聞かれて「はいそうです」と答えられる奴がいるのか。……探せばいるか。悩みに対して答えが欲しいわけじゃなく、誰かに聞いて貰いたい、心の内に溜まっているのを吐き出したいって考えは……言葉としてはなんとなく理解できる。ただ、どういう考え方をしたらその感情に至るのか、俺には理解できない。
「えー、ただの散歩で、こんな格好する?」
プリムラはそう言って自分の右手で顔を隠すように額を掴んだ。顔もそうだけど、手も小さいな。
「……癖です」
「心の壁を感じる」
そりゃそうだ。さっき会ったばかりなんだから、むしろプリムラの方が無遠慮なんだよ。……見た目は大人しそうなんだけどな。
「ね、レイホ、私たち友達になれると思う?」
急になんだよ。何を以て友達とするかにもよるだろうけど……多分、無理じゃないかな。主に俺の方に問題があって。けど「無理です。嫌です」とは言えないよなぁ。俺にだって良心はある。
「なれたら、いいですね」
「そっか。じゃあ、はい」
プリムラが立ち上がって右手を差し出して来る。握手……だよな。
「そういうのは、ちょっと……」
我ながら情けなさの極みみたいな返答をしてしまった。いや、だって無理ですもん。こんな見目麗しい少女の手を握るとか俺の精神力じゃ無理。もし握れたとしても、俺の世界じゃ社会的信用を失って番号で呼ばれることになるからな、ここは拒否一択だ。
「ダメ?」
「ダメです」
「そっかぁ……」
残念そうにしながらも大人しく手を引っ込めてくれた。これはこれで罪に問われそうになるが、できることなら許されたい。
「そういえば、言うの忘れてたけど。わたし、この階段より下に行ったら死んじゃうんだ」
は?
突拍子もない言葉に思考を停止させられるが、プリムラはお構いなしに、脱力した状態で倒れるように階段から下りようとする。
いやいやいや、そんな落ち方したら、たとえ二段上からだとても誰だって怪我するって!
頭の中は混乱状態であったが、体は咄嗟に動いていて、倒れ込んで来たプリムラの体をどうにか抱き留めた。
良かった。貧弱な筋力の俺でも抱き留められた。でもこれ、大丈夫か? 不可抗力とはいえ抱きついてしまっているし、黒づくめの巨漢が出てきて身ぐるみ剥がされない? つーか、こっからどうすればいいんだ? 階段の上に戻せばいいか……!?
ぐるぐると回る思考が一瞬でとまった。尤も、それは冷静になったわけではなく、過負荷による思考停止だ。
抱き留めた位置的に、プリムラの顔は俺の顔より半個分上にあった。そして、プリムラは両手で俺の側頭部を優しく抑えて少し上を向けさせると、額と額を合わせた。
「たすけて」
え?
掠れ、震えていたとしても、聞き漏らす距離ではない。言葉は正しく俺の鼓膜を鳴らしたが、思考停止中の身では何も言えないし考えられない。
やがてプリムラは俺の肩を押して離れると、自分の足で地面に立ち、俯いたまま階段を上って行く。
「じゃあね、レイホ。迎えが来たみたいだから…………さよなら」
慌ただしく階段を駆け上がって行くプリムラの背中を追うことも、声を掛けることもできず……なんて、愚図になれるかよ。
「プリムラ!」
「たすけて」ってなんだよ。何から助ければいいんだよ。どうやって助ければいいんだよ。何で俺にそれを言ったんだよ。お前、一体何なんだよ。
大分差がついたプリムラの背中を追って一段飛ばし……もっと早く!二段飛ばし、安定しないからやっぱり一段飛ばしで駆け上がる。プリムラはもう階段を上り切って背中が見えない。くそっ、か弱そうな体してんのに速ぇ。俺が遅いのか!
息を切らすのも忘れて階段を上り切り、初めて上流区の地を踏んだと思った時には既に、俺の視界も思考も真っ暗になっていた。
次回投稿予定は10月9日の0時です。




