第三話:授業料は安くない
甲冑の男に連れて来られた女性は栗毛色の髪を毛の流れに沿って綺麗に分け、肩より少し下まで伸ばされた後ろの髪はうなじの所でまとめていて、黄色い瞳が特徴的な顔は営業スマイルだろうか、整った笑みを浮かべていた。服装は現代でいうところのパンツスーツに似ており、甲冑姿の隣りに立っていると少し妙に見えるが、女性の細く伸びた四肢には良く似合っている。
仕事が早そうな、仕事が好きそうな感じの人だな。正直、その手の人は苦手だけど、連れて来てどうするんだ。日本語が分かる、なんて期待はしない方が良いよな。
勝手に苦手意識を持っている中、女性は甲冑の男達といくつか言葉を交わすと、男達は階段を上って行った。本来の仕事である見張りにでも戻ったのだろう。室内で二人きりになると、女性は手に持っていた巻物状の書類を机に置いて椅子に座る。
愛想良さそうに話し掛けられたが、全くわからん。
女性は俺が言葉を理解できていないことを理解すると、書類に巻かれていた紐を解いて文面を見せてくれた。文字はそう多くないが、相変わらず一言も読めん。
努力をすることもなく理解を諦めるが、目の前に置かれた書類をよくみると契約書や同意書のように、紙面の下の方に印を押す為の枠が設けられていた。
なんだかいきなり怪しくなってきたな。まさか身売りされるとかじゃないよな。
怪しんでいると、女性は上着のポケットから折り畳み式の小さいナイフを差し出して来た。素直に受け取ると、女性は自分の右手の親指を見せた後に、紙に押し付けるようにして見せた。これはアレだ、指先をナイフで突いて血判を捺せということだろう。
やることは分かったが、捺したらどうなるか全く分からない。しかし、言葉が通じない以上、知る手段もない。……選択肢はないか。
右手の親指をナイフで突いて出血させ、血判する。その瞬間、指先から何かが流れ込んで来た感触があり、慌てて指を離した。“言語能力習得”と書かれた書類の方には指紋が綺麗に残っていて、何が起きたのか脳が必死に回転していると、視界に白い布が入ってきた。
「はい。これで血を拭いて」
「あ、はい。ありがとうございます」
女性の言葉に礼を言って、ハンカチを親指に当てる。白いハンカチを血で汚すのは少し抵抗があったが、仕方ない。……ってあれ、今、女性の言葉が分かった?
「言葉が分かるようになったと思うけど、どう? 気分とか悪くなってない?」
「……大丈夫です」
女性の言葉は何を喋っているのか聞き取れないが、意味は理解できる。耳は発せられた言葉そのままを聞き取っているが、脳で言葉を日本語として変換し理解している、そんな感じだ。
頭は混乱状態だが、体調に変化はない。俺の返答に安心したのか、女性は整った笑みを少し崩して「よかった」と口にした。
「異世界から来たばかりで聞きたいことは山ほどあると思うけど、先ずは自己紹介をさせて。あたしはエリン・ヒーストン、エリンでいいわ。普段はギルドで冒険者相手の受付をしているわ。あなたの名前は?」
いきなり聞きたいことが増えた自己紹介だった気がするけど、落ち着いて名乗りだけしよう。下手に話しを広げて情報を処理できなくなったら勿体ない。
「志水玲穂と言います。玲穂が名前で志水が姓です」
「レイホね、これから色々と顔を会わせる機会もあると思うから、よろしく」
「よろしくお願いします」
なんだか言葉の距離感が近いな、この人。畏まって話されるよりは良いけど。それよりも俺が異世界から来た人間だと知っている事の方が不思議だ。もしかしてエリンさんも別の世界からここに来たとか?
「簡単にここがどこなのか説明してもいいかな?」
「お願いします」
こちらから尋ねる前に説明に移ろうとする辺り、やっぱり対応に慣れている。そう思いながら返事をすると、エリンさんはこの世界について教えてくれた。
「この世界はブランクドって呼ばれていて、あたし達がいるここは人間領ウィズダムの中のクロッスという町。町の中は安全だし、異世界から来たからってどこかに軟禁して取り調べすることもないから安心して」
人間領。人間の中でも人種がいくつか別れていると思うが、人間という大きな括りになっているということは、人間ではない種族もいるのだろうか。もし他の種族も存在しているのなら、国家間の関係性はどうだろう。現実世界の政治については関心も知識も薄かったが、環境が変わると途端に気になる。
「人間領とは言っても、他の種族も比較的自由に出入り可能で、特にこの町は周囲の環境のこともあって、色んな種族の人が住んでいるの。さっき覚えた言語能力で言葉は共通化されているから、興味があったら話し掛けてみるのもいいかもね」
種族間で確執があるのかと思ったが、そうでもないらしい。意外と平和な世界なのかもしれないが、甲冑を着た見張りが存在していることと、高い壁が町を囲っていることを考えると、外敵は少なくなさそうだ。
森の中で見た歩くキノコとか巨大蟻の他に、もっと危険な存在がいるに違いない。ドラゴンとかいたら見てみたいけど、実際に見たら怖いだろうな。
「種族は五……いや、六つに分かれていて、人間、獣人、エルフ、ドワーフ、妖精、魔人。魔人以外はそれぞれ国家を持っているけど、魔人は魔界って言う……この地上とは別の、言わば異世界に住んでいるの」
意外と種族が多かった。ドワーフと妖精って似たようなものの気がするけど、この世界では別ものなのか。
魔人とか魔界とか、侵略されそうだけど大丈夫なのかな。王がいたらやっぱり呼び名は魔王だよな。魔界が異世界として認識されているから、俺がこの世界に紛れ込んだことについても大して驚かないのか?
ごちゃごちゃと考えている頭を整理していると、その様子がエリンさんにも伝わったのか、少し申し訳なさそうな表情を作った。
「一方的に話しちゃってるけど、聞きたいことがあったら遠慮なく聞いてね」
情報量と不明点が多すぎて整理するのもやっとなのだが、折角の気遣いを無駄にするのも勿体ない。
「自分のことを異世界から来た存在だと知っていたようですが、この……ブランクドが他の世界と繋がっているのは一般的に知られているのですか?」
「あー、それね。原因はよく分かってないのだけど、時々、レイホと同じような人が訪れて来るのよ。その人達は皆共通して、見たことのない服装を着ていて、聞いた事のない言葉を話すの。それで、レイホのことも異世界から来た人だって判断したわけ。異世界から来た人への対応もギルドの仕事の内の一つなの」
「自分と同じ世界から来た人が他にもいるんですか?」
「いるわよ。冒険者として登録した人限定だけど、ギルドに戻れば名簿で調べることも可能よ」
地球人がいる可能性が出て来て安心したが、どこか残念な気持ちがあった。多分、自分だけが特別だというどうでもいい優越感がなくなった所為だ。尤も、地球人だからと言って、この世界に来た人が俺の知り合いである可能性は低く、初対面であるならこの世界の住民と大して変わらない。地球人か、どこの国の人かは興味ないが、一つ気になる事がある。
「異世界から来た人達は、今はどうやって暮らしていますか?」
「人によって様々よ。元の世界で商売をやっていた人はお店で雇ってもらったり、自分でお店を出したりしているわ。逆に元の世界に無かった、新しいことを始める人もいるわ。衛兵とか、冒険者とか、魔法使いとか」
鼓動が一つ、大きく鳴った。冒険者に魔法使い。俺のイメージしていた異世界が近付いてきた。
「冒険者は何をするんですか?」
興奮を抑えて聞くと、エリンさんは嬉しそうに口角を上げた。
「その名の通り冒険よ。ギルドから依頼された未踏地の調査、魔物の討伐、薬草や鉱石採取。個人で出掛けて手に入れた魔物の素材を売って生計を立ててもいいわ。中でもこのクロッスは周囲に魔窟がいくつもあるから、冒険者が集う町とも呼ばれているわ」
「魔窟?」
どういったものかは分からないが、丘の上から周囲を見渡した時にそれらしいものは見えなかった。町の周囲は濃い森が広がっていたので、その中に隠れていた可能性は高い。
「魔窟っていうのはさっき言った、魔人が住む魔界に繋がる洞窟のことよ。魔窟からは魔法を使用するのに必要なマナが流れ出ているけれど、マナは魔物を出現させる原因ともなっているの。ちなみに、マナの影響で魔窟は定期的に形を変えるから、魔界に行こうと思っても中々辿り着けないわ」
どんどん常識離れしていくな。話しを聞いているだけでも面白い。
「魔法は自分の世界ではなかったのですが、魔法使いというのは、異世界からきた人でもなれるものですか?」
「なれるわよ。ただ、マナを操るための器官が眠っているから、魔法使いに器官を起こしてもらう必要があるし、どの程度の魔法が使えるかは個人差があるわ」
「その器官を起こすことや、魔法を使用することで悪影響はありますか?」
「んー……あたしが知っている限り特にないと思うわよ。最初は軽い目眩がする人もいるけど、時間が経てば治るし、魔法も調子に乗って連発しなければ倒れる事はないわ」
なるほど。機会があれば器官を起こしてもらった方が良さそうだ。いくらかかるかは知らないけど、なんとなく安くはないんだろうな。
料金のことで気付いたが、この世界の通貨はどういったものなのだろうか。日本円はいくらかあるけど使えないし、多分、換金も無理だろうな。
「すみません。この世界での通貨はどういったものになりますか?」
「通貨の単位はゼースが一般的だけれど、人によっては銅貨とか銀貨何枚って言う人もいるわ。通貨の種類としては小銅貨、大銅貨、小銀貨、大銀貨、金貨、金塊の六種類があるけれど、普通に暮らしていたら目にするのは精々大銀貨までね。ちなみに、言語能力習得は九百ゼース、小銀貨九枚ね」
金塊がどういったものかは分からないが、一先ず通貨は全て硬貨ということで良さそうだ。嵩張るだろうから、管理についてはよく考える必要がある。……あれ、最後にさらっと何か重大なことを言われた気がする。
エリンさんの方をみると、俺が血判を捺した書類を持って、数字と思われる字が書かれたところを指差している。
「……知っていると思いますが、無一文です」
冒険者だ、魔法だと浮かれている場合ではない。途端に先行きが怪しくなった状況に、背中で冷たい汗が流れた。
「もちろん知っているわ。身ぐるみを剥いだりしないから安心して。でも払ってもらうから覚悟して」
何故だろう、エリンさんの笑顔が今までの中で一番友好的に見えるのに胸倉を掴まれた気分だ。
血判を捺さなければ言語は分からないままだったし、独学で覚えるにしても何ヶ月必要になるか分からない。言語能力習得を受け取ったのは間違っていない。間違っていない筈だ。
異世界人がたまに来ると言っていたし、九百ゼース、小銀貨九枚という安くない金額を無一文から返済する現実的なプランがあるに違いない。
「どうやって払えば良いのでしょうか?」
「当然、働いて稼いだお金で払ってもらうわ。期限は特に設けられていないし、どうやって稼ぐかも自由だけれど、返済するまでの収入は全てギルドを通して支払われるから、踏み倒そうなんて考えちゃ駄目よ」
踏み倒す気は毛頭なかったが、死んでも返済しようと心に誓った。
しかし、どこで働くか……世界は違えど、飲食店や雑貨屋はあるだろうから、頼み込んで雇ってもらうか。人手を欲してそうな農業なら雇ってもらえる可能性が高いか。なんなら冒険者ギルドで雑用とか。
働き口についてあれこれ考えてみるが、心の中で答えは既に決まっている。答えを自分の中で認める為に他の選択肢をいちいち否定していくのは俺の悪い癖だ。
何の意味があるか分からない昔からあるものに縛られ、何を成したか分からない人間に従って生きる、普通という洗脳を受け入れるのは俺に向いていない。社会不適合者と言われればそれまでだが、社会から脱却して改めて人生の選択の自由が与えられたのなら、遠慮する必要はない。
「冒険者には、どうやったらなれますか?」
現実世界のように漠然と社会に生かされる人生じゃない、自分自身が生きる為に生きて行く。
元々頭の良い方ではないし、死なないけど面倒なしがらみを抱えて生きて行くより、生きるか死ぬか極端な世界で生きていった方が良い。
「ふふっ。良い質問ね。ついてらっしゃい、ギルドで冒険者について詳しく教えてあげるわ」
短い笑い声と共に立ち上がったエリンさんは、町に通じる門を開けると俺を手招きして呼んだ。
町の構造に時間や日にちの数え方など、聞くべきことはまだ沢山あるが今はとりあえずこの世界、ブランクドでどうやって生きて行くかを優先して決めたかった。