第二百九十三話:一人足りない
ヒドラによる侵攻が開始された。
予定より早く合流できた皆の口から告げられたのは、再会を喜ぶ言葉からは程遠い、震恐すら覚える言葉だった。
争いの音など一切無い、静寂と平穏に包まれた村の中で、俺たちの居る空間だけ重苦しい空気が満ちていた。
ヒドラがどうして? 聞いたところで答えは出ないし、侵攻に疑問を抱くほどヒドラのことを理解しているわけではない。奴が人と戦わない道を探していたことは気がかりだが……。
誰もが音を発することを躊躇っている。
俺が動くべきなのだろうが、寝起きの頭では上手く言葉を紡げない。
「体は大丈夫なの?」
重い空気を無視し、抑揚の無い声で訊ねたのはアクトだった。
擦り切れ、焦げ、乾いた血があちこちに散っている衣服を纏ったアクトの方こそ大丈夫なのかと訊きたくなったが、破れた服から覗く肌に傷は見当たらない。
「ああ。まだ少し怠さはあるけどな」
答えに満足したアクトは「ん」と返事をし、懐へと手を伸ばした。
「あ、くそ……」
大きく穴の空いた衣嚢から手が貫通させて舌を打つ。
どうやら、懐に忍ばせていた菓子か何かを落としてしまったようだ。アクトにとってはヒドラの侵攻よりも重大事件だ。
「腹減った。何かない?」
次の問いの対象はプリムラだった。彼女は少し目を泳がせた後、シオンへ──正確には彼女の肩に座っているコデマリへと視線を向けた。
考えるまでもなく視線の意図を汲み取ったコデマリは、高い位置で二つに結ばれた薄桃色の髪を軽く揺らし、鼻を鳴らした。
「幻獣が攻めて来ているのに呑気なことね。でも、ま、いいんじゃない。今からヒドラを倒しに行くなんて言わないでしょ?」
問い掛けの先は俺だ。言葉尻からも窺えるように、コデマリの中ではほとんど答えが出ているから、問いというよりは確認といった方が正確か。
ヒドラを討伐することで身の潔白を証明する道もあるのかもしれないが、俺たちが向かったところで戦場を混乱させる要因になるのは目に見えている。
「ああ」
「なら、食事の準備をしましょ。アタシも手伝うわ」
シオンの肩から降りて人間体へと変身し、既に厨房で準備を始めているプリムラの下に向かう。その様子に怪訝な表情を浮かべる者が一人。
「余計な物入れないでよ」
椅子に座って料理を待つアクトからの一言に、コデマリは口をへの字に曲げた。
「文句言うなら、あんたは馬の糞でも食ってなさい」
「糞は食い物じゃないだろ」
「あんたにやる食糧は無いって言ってんのよ」
剣呑な空気になる二人の間に、慌ててシオンが仲裁に入る。
「二人とも、食事の前に喧嘩はやめようね~」
背の低い二人の頭を撫でて宥めるが、どちらも撫でられることに抵抗があるらしく、身を捩って手から逃れようとしている。仲裁は上手くいったようだ。
「エイレス」
訊きたいこともあったので、厨房の方から視線を移し、疲れているのか一人呆然と立っているエイレスへと声を掛ける。
「は、はい! すんません、聞いてなかったッス!」
「……これから言うから何も聞いてなくて問題ないぞ」
「あ、そうだったッスか……」
「どうかしたのか?」
正義感の強い奴だ。ヒドラから村や町を守るために戦わず、ここに居る事が気になっているのかもしれない。
「いや、アニキに心配されるようなことじゃないッス。ただ、ヒドラの姿に……圧倒されてるだけッス。情けない限りッス」
「ヒドラを見たのか?」
「うす。鐘楼に登った時、町の北の方にいたッス。あんな化け物だったなんて……」
視線を合わせずに吐き出された言葉から、エイレスが受けた精神的衝撃の大きさが伺える。
味方としてだが、幻獣の力を目にしたことのあるエイレスがここまでの衝撃を受けたとなると、ヒドラは噂通りかそれ以上の怪物なのだろう。
「他にヒドラを見た奴はいるか?」
台所へと集まっている四人に向かって問いかけるが、皆一様に首を横に振った。ならば──
「──顔を上げて皆を見ろ。そうすればヒドラのことなんか忘れる」
俺たちはもう、ヒドラ討伐部隊の人間ではない。群れから弾かれ、逃げ、自分勝手に動くしかないはぐれ者だ。
「それに、頭の中の出来事よりも、目の前の出来事だ」
俺が言える事ではないが。と心の中で付け足す。
エイレスは言葉の意味を図りかねているようで、眉間に小さな皺が寄っている。
「俺を救出し、全員で合流できたんだ。先ずはそれを喜べよ」
偉そうに説いてから、非常に重大なことに気付いて「あっ!」と声を上げる。
「ど、どうかしたッスか?」
エイレスだけでなく、台所からも何事かと注目が集まる。プリムラは激しく動揺して鍋をひっくり返しそうになるが、コデマリがすんでのところで押さえた。
「あ……いやぁ……」
今か? 今この時なのか? もっと自然なタイミングがあるだろう。例えばそう、全員がこの借家に集まった時とか。
しかし、その自然なタイミングはヒドラによって奪われた。だが、機を逸したからといって、俺の気付いた事は有耶無耶にして良いものではない。
覚悟を決めて寝台から立ち上がり、視界に五人を入れる。
疑問符を浮かべる顔が二つ。期待に染まった顔が一つ。安堵した顔が一つ。困惑している顔が一つ。
「皆のお陰で俺は今ここにいられる。本当にありがとう」
頭を下げ、ありのままの感謝を伝える。
今日、処刑台から救出してくれたことだけではない。出会ってから今日、この瞬間に至るまでが皆のお陰なのだ。その感謝を伝えるにはあまりに簡素な言葉だったが、飾って見栄を張るような間柄でもない。
「同じだよ」とプリムラから投げかけられたことで俺は頭を上げ、再び視界に五人を映した。
「あたいらもレイホがいたから、ここにいる」
シオンが胸元を押さえて続くと、その次は自分だと主張するように鼻を鳴らしたのはコデマリだ。
「パーティの頭が反逆罪、しかも冤罪で処刑なんて不名誉の極みよ。見過ごせる方がおかしいわ」
「もう仲間を失うのはごめんッスから!」
コデマリとエイレス、二人の言葉は違えど示す意としては“仲間を助けるのは当たり前”ということだろう。
「それで、次はどこに行くの? 何を目指すの?」
感謝されることに意味を感じないのか、前の四人に言いたいことを言わてしまったのか、それとももっと他の理由からか、アクトの赤茶色の瞳は俺たちのこの先を急かした。
「次は……」
言い淀んだのは、思考の中で案を探しているからではない。ただ、自分の中で思い出す時間が欲しかっただけだ。この場に居ない仲間の顔を。
「ソラクロを探す。そのために先ず、首都で情報を集めようと思う」
必ずしも首都でないといけない理由は無いのだが、俺たちがいる村から最も近い町は現在戦場と化しており、情報収集どころではない。次に近く、情報が集まっていそうな町が首都なのだ。
先が見えたことによりアクトは微かに満足げな表情を浮かべる。が、直ぐに普段の無表情に戻し、視線をコデマリの方へと向けた。
「ドチビ、邪魔してないで早く料理出してよ」
「はぁっ!? あんた、ただ待ってるだけのクセに、よくそんな態度取れるわね!」
「おれはプリムラの邪魔にならないようにしてるだけ」
「そんなこと言って、料理が面倒なだけでしょ!」
真面目な雰囲気が一転して喧々囂々。その騒がしさに押し動かされ、プリムラは料理を再開。シオンとエイレスが騒動の発端となった二人の間に入って鎮静する。
ここにソラクロが居れば、俺の隣でニコニコと柔和な笑顔を浮かべながら尻尾を振っていたことだろう。
今のソラクロに笑う余裕があるのか、そもそも無事でいるのかも分からないが……いや、無事に決まっている。だから、俺たちが必ず見つけ出して、こんな戦争終わらせて…………笑い合おう。