第二百九十二話:憩い
酷くぼやけた意識の中、薄く開いた視界で何かが迫って来ているのが見えた。
敵か……!?
頭の中で警鐘が鳴る。しかし、体が言うことを聞かない。動け、動けと念じ、自分の手足を意識するがまるで駄目だ。脳ばかりが覚醒し、動かぬ体に焦燥を覚える。
やがて、迫り来る何者かは俺に覆い被さるような体勢となり……服を脱がし始めた。
「ん?」
意識と身体の接続が完了し、跳ねるように目を覚ますと、薄い金髪に頬を撫でられた。
「あ、起こしちゃった?」
息が触れ合う距離だというのに、プリムラは動じずに見つめながら訪ねてくる。
いつの間にか寝ていたのか……。いや、それよりも──
「──近い」
捲り上げられた肌着を戻しながら起き上がる素振りを見せると、プリムラも体を起こして寝台から下りた。
「体を拭いてあげようと思って」
寝台の下に視線を落とす。水が張られた桶と、それに掛けられた布が目に入る。
「ああ……助かるが、自分でやるよ」
汗と垢と血で汚れきっている事を思い出した途端、自分の体から不快な臭いを感じた。
こんな臭い状態でプリムラたちの近くに居たと思うと、申し訳なさが込み上げてくる。
「背中とか拭きづらいでしょ? いいから任せて」
「いや、布を背中に回せば問題ないだろ」
「もう、体調が悪いんだから大人しく言うこと聞く! ほら、服脱いでそっち向いて」
怒られ、体を押されてなお抵抗するつもりは無い。
自分で無理なく出来ることを自分でやろうとしたのに、どうして怒られたのかは不明だが……それを聞いたら更に怒られるだろう。
肌着を脱ぎ、寝台から足を下ろした形で座ると、プリムラは水で湿らせた布を手にして背後に腰を下ろした。
「……謝らせて」
今しがたの強めの語気は消え、しおらしい声と共に、ひんやりとした布の感触が背中から伝わった。
プリムラが何を謝るというのか……そう言えば、合流した時に謝罪を口にしていたな。
思い出していると、プリムラは手を動かしながら言葉を続けた。
「助けに行くのが遅くなったこと、本当にごめんなさい」
それは謝ることなのだろうか。救出が予定されていたもので、その予定が遅れてしまったのなら分かる。しかし、今回の件は違う。俺を救出する事をプリムラたちが判断し、計画して行ったのだから、プリムラたちには何の落ち度も無い。
「謝るな。助けに来てくれたこと、俺の方が先に礼を言うべきだった。ありがとう」
「助けるのは当たり前だよ。大切な……仲間なんだから」
「……そうか」
自分が助かる事も、誰かが助けに来てくれることも期待していなかった。なんて言ったら怒られるだろうな。
「…………俺は正直、助からないと思っていた。助けが来るとも思わなかった」
いつもなら口に出さない思いを、敢えて口にしてみる。多分、俺に足りないことの一つは、こういう所だと思うから。
背中を拭く力が強まるのを感じるが、それは僅かな間だけだった。
「そうだよね。それだけ辛いことをされたんだよね」
優しく、寄り添うような声が背後から届く。
予想と随分違う反応だ。当たり前だ。俺が人の心理全てを理解しているなど、あり得ない話なのだから。
「沢山、痛いことをされて、酷い言葉を言われて……苦しかったよね」
あれ、精神的にも弱ってると思われてる? 違う違う、助けが来ないと思ったのは、俺がお前らに対してそこまでの期待を初めから持っていなかったからで──
「──!」
背中を拭く動きが止まったかと思うと、布とは全く違う柔らかさで温かい感触が、背中の中心にある二本線の傷を撫でた。
「もう大丈夫だから。レイホのことは私が守るから」
いやぁ、あなたのような方に守ってもらうのは逆に気を遣ってしまうと言うか、俺の中の世間体的に許されないと言うか……。
しかし、ここで突っ返したらプリムラを傷つけてしまうだろうし……。
「……あんまり気負わなくていいよ。多分、プリムラが思ってるよりずっと平気だから」
「本当?」
「ああ」
「どうだろ? レイホ、平気なフリして無理するから」
背中を拭く動きが再開する。
良かった。運良く軌道修正できたようだ。
「あー……背中拭き終わったら、後は自分でやるから」
「駄目。私がやる」
いや、それこそ駄目だ。どうにかしてプリムラから布を奪わないといけない。
「……そういや、腹が減ったなぁ。拘束されてからまともな食事してないんだよなぁ」
何とも白々しいが嘘ではない。
「むー……」
プリムラの表情は見えないが、不満顔であるのは容易に想像できる。
「そんなこと言われたら断れないよ」
不満を口にしながら、背中を拭き終わった布をこちらに渡してくれた。
「大した物は作れないから、ごめんね」
「作ってもらえるだけ嬉しい」
「…………」
おや? プリムラが半眼で見つめて来るが、何か迂闊な事を言ったか?
「どうした?」
「ううん。あんまり嬉しそうじゃないなって思っただけ」
「ああ……悪い。でも嘘じゃない」
言葉は選べても表情はどうも苦手だ。
「くすっ……わかってるよ。少し仕返ししたくなっただけ」
「布を奪った?」
「そ。待ってて、直ぐに作るから」
プリムラは不満げな表情から一転して穏やかな笑みを見せると、机の上にまとめていた荷物から食材を探し始めた。
表情で相手を揺さぶるというのも、時には必要になるかもしれないな。と考えつつ、布を洗って体を拭き始めた。
「俺が捕まった後、そっちはどうだったんだ?」
体を拭き終え、替えの服に着替えてから、プリムラが用意してくれた、豆と乾燥野菜のスープを口に運ぶ。
味は染み出た素材の味に、かなり薄い塩気が加わったものであるが、これを不味いとは思わない。単純に俺の舌が貧しいという理由もあるだろうが、久しぶりに安心して物を食べられるという状況が何よりも大きな理由だった。
「レイホが魔王軍の間者として捕まったことを知らされて、私たちは監視も兼ねて別々の小隊に加わるよう言われたの」
机を挟んで対面に座るプリムラが淡々と説明を口にした
「……大人しく従ったか?」
焼き締めたパンをかじりながら問うと、プリムラは「まさか!」と声を荒げた。
「私とアクトは猛抗議した……かったけど、他の皆に抑えられちゃった」
その光景は容易に想像できる。
「当たり前だけど皆も納得してた訳じゃないよ。皆、怒ってた」
「そうか」
「レイホが町に移送される前か途中で救出することも考えたんだけど、監視の目が厳しくて、逃走経路の確保も難しいからってことで……あの時まで待たせたこと本当にごめんなさい」
だから謝るようなことじゃないのだが、謝罪を口にすることでプリムラの気持ちが楽になるのなら、それで良いのかもしれない。
「……別々の小隊に加えられたって話だけど、五人で会話する機会は作れたのか? 状況的に難しそうだけど」
「五人は流石に無理だけど、食事の時とか、訓練の時とかで一緒になった時に少しずつ作戦を話し合ったよ。て言ってもほとんどはコデマリとシオンだけど」
妖精の体とエルフの耳は何かと便利だからな。二人が思慮深いこともあるし、作戦を組み立てるには適任だったろう。
「……プリムラって自己評価低いか?」
「え!? 突然、何?」
「いや、何かと申し訳なさそうにするから。今も、作戦を立てたのが自分じゃないから不甲斐ないと思っているように見えた」
プリムラが平均より劣っているとしたら、俺の存在は今すぐ廃棄した方がいいぐらいの価値だぞ。表現が悪いから口には出さないが。
「自分のこと……どうだろ。あんまり考えたことないよ」
「そうか。だったら、自分が出来なかったからと言って、あんまり悩むな。それくらいでプリムラのことを悪く思うわけがない」
こうやって気を遣うから、頑張って応えようとするのか? だったら逆に厳しくするべきだろうか?
食事の手を止め、プリムラの顔を凝視する。相変わらず整った顔立ちだが、今は少し困り顔だ。
やっぱり、俺には誰かの為に厳しくするなんて無理だ。そこまで器用に言葉を使えない。
「……レイホは一人で来てくれたから」
「一人じゃない」
プリムラが言葉を切るのと同時に反論していた。
「教えてくれて、送り出してくれて、一緒に戦ってくれた人たちがいるから、俺はプリムラのところまで辿り着けたんだ。……俺は一人じゃない」
「レイホ……」
しまった。真面目な口調で反論したから、機嫌が悪くなったと思われたか?
「プリムラも一人じゃないんだからさ。誰かの手を借りたことに引け目を感じるよりも、誇ろうよ。自分には……その……頼れる……仲間がいるってことを」
やばい。言っててかなり恥ずかしい。
「急に顔が赤くなったけど、体調悪くなった!? ごめんなさい。私が気を遣わせたから……」
慌てて席を立ち、俺の世話を焼こうと近寄るプリムラへ手の平を突き出して見せる。
「体調は大丈夫だから。少し……言ってることが恥ずかしくなっただけだ」
自分の情けないところを正直に答えるというのも、それなりに恥ずかしいものだ。
無意識の内に逸らしていた視線をプリムラへ戻すと、驚いたような、安堵したような、どこか嬉しそうな表情で口元に手を当てた。
「あー……他の皆はいつぐらいに着くんだろうな」
妙な空気になってしまったので、無理矢理に話題を変える。
「何もなければ日暮れくらいには着く予定」
「そうか……」
気分が落ち着いていないから、もうずいぶんと言い慣れた相槌も上擦ってしまう。
「それなら、食べ終えたら少し休ませてもらおうかな」
「うん、そうして」
頷いたプリムラは席に戻り、食事中の俺をなぜか楽しそうな目で眺めた。
何が楽しいのか尋ねたい衝動が湧き上がったが、反応に困る回答が来るという直感の囁きによって無言を貫いた。




