第二百八十七話:クロッス崩壊
「魔界が本当の世界……? なら、この地上にある世界はなんだと言うんです?」
「偽物だよ! 異世界人が自分たちに都合が良いように創ったね!」
人が世界を創る。にわかには信じがたいが、ケルベロスはオルトロスの話を受け入れることにし、その上で自分の考えを持ち出した。
「わたしたちにとって偽物だったとしても、地上で生きる人たちにとっては本物なんです。それなのに、魔獣といっしょになって滅ぼそうだなんて、わたしは許しませんよ!」
言い終えてから、オルトロスが悲しそうな、苦しそうな、失望したような表情を浮かべていることに気付く。
まだ訴え足りないことがあるのだろうと思い、問い質そうとするケルベロスであったが、彼女が口を動かす前に地面が大きく揺れ動いた。
「これは……?」
ケルベロスは疑問符を浮かべながらも、異様な揺れと建物の軋む音によって何が起きるか見当は付いていた。オルトロスは拘束を解かれると、跳ねるように起き上がって姉の腕を掴んだ。
「建物ごと潰す気だ。脱出しよう!」
つい先ほどまでの険悪な空気が嘘であるかのように二人は頷き合うと、出口に向けて駆け出した。
互いにスキルを発動した状態であれば、その移動速度は崩落して来る瓦礫よりも速く、床の揺れも問題ではなかった。牢から出口までは、廊下を抜けて一階分ほどの階段を上るだけであったので、脱出に難は無い。
無論、冒険者や兵士とて建物の崩壊だけで幻獣を倒せるとは思っていない。更に言えば、倒す為の決定打として建物を崩壊させた訳ではない。内部に送り込んだ冒険者の反応が途絶えてから時間が経っても、幻獣に動きが無かったが故の一手である。本命は出口の直ぐ外に存在した。
「……駆け抜けるよ!」
出口を飛び出す直前、オルトロスはそう言って脇にずれ、走る速度を僅かに落として姉と並ぶ。そして前もって予定していたかのようなタイミングでスキルを発動した。ケルベロスは【エクサラレーション】、オルトロスは【真直速】による急加速で、不自然に開けられた道を駆け抜けた──筈だった。
冒険者と兵士に挟まれた道は一見して何も無いようであったが、上と左右、そして少し進んだところの正面に魔法障壁が張られていた。そして────
「マナよ、我が下に集束し身を守る盾となれ。プロテクション」
粉塵を舞い上がらせて瓦礫の山と化した建物への退路も、防御魔法によって塞がれた。万が一にも瓦礫を乗り越えて逃げられないようにするためである。
「くそっ! こんなの!」
【真直速】での衝突で魔法障壁を一枚無効化したが、周囲には数えきれない冒険者の数。魔法障壁が前後左右上、各一枚ずつの訳が無い。それでもオルトロスは道を作ろうと爪を振りかざす。
「なっ!?」
爪が魔法障壁に直撃する前に、オルトロスの纏っていた黒いオーラが消失。その事実に驚愕すると共に、全身に怠さや麻痺といった症状が現れていることに気付く。それはケルベロスも同様だった。
「いい時間稼ぎだったぜ、ケルベロス。お陰で魔法の準備が間に合った」
追加で唱え続けられる妨害魔法によって立っているのもやっとである二人の前に現れたのは、狼の獣人——ネルソン治療院に押し入った男——であった。
「そんなつもりなんて……ありません」
オルトロスを罠に嵌める為に叱っていた訳ではない。が、この場において理由は関係ない。
「否定は聞かなかった事にしてやる。だが、行動は示してもらう」
「行動、ですか?」
「オルトロスを殺せ」
狼の獣人から放たれた冷徹な言葉にケルベロスは言葉を失った。
幻獣と戦うことも、倒す——殺すことも覚悟はしていた。しかし、その時がいざ目の前に現れると、心が揺れ惑う。
能力も動きも制限され、冒険者や兵士に囲まれ見世物にされた状態で、弟の命を奪うことなどできるものか。
「オルトロスは、わたしの知らない情報を知っています。魔法で抑えることもできます。だから……」
「拘束して情報を搾り取ってから殺せってか? 見た目よりもしたたかなんだな」
「そんなことは……」
言っていない。言っていないが、直接口に出していないというだけである。そのような言い訳は通用しない。
オルトロスが人間側に味方する可能性も、人間側がオルトロスを生かしておく理由も無いのだから、今殺すか後で殺すかの違いしか生まれない。
「オレステ、もうどっちも殺しちまおうぜ!」
狼の獣人——オレステの直ぐ後ろに居た男が声を荒げると、その余波は瞬く間に広がった。
「そのために二体とも魔法で弱らせてんだ!」
「幻獣も魔法で捕まえられるって分かっただけで充分だろ!」
「殺れる時に殺るんだよ!」
言葉は次第に「殺せ」「殺せ」と調子の合わせた呼び掛けに変わる。その中にはソラクロが冒険者ギルドで顔を合わせたことのある者もいた。相手から向けられる眼差しには幻獣に対する殺意が満ちていた。
オレステの「チッ、うるせぇ」という声は周囲の声にかき消され、本人とケルベロスの耳にしか届かなかった。
「見たかよ、姉ちゃん。こっちの人間はこういう奴らなんだよ。殺して、奪って、僅かな願いや夢すらも啜って生きる、最低なクソ共だ!」
掛けられている魔法が多いのか、オルトロスは既に片膝を着いており、顔を上げる事すら満足に出来なかった。それでも声を荒げ、両手で拳を握るのは腹の内に溜まった怒りの大きさ故だった。
「おい! 殺さねぇなら俺に殺らせろ! 幻獣の首を取ったとなりゃあ金等級、いや英雄にだってなれるぜ!」
そんな欲を曝け出した言葉が一つ飛び出たとなれば、周囲も黙ってはいない。「殺せ」から「俺が」「私が」に早変わりである。いつの間にか、人々の目から怒りや恨みと言った感情は消え、代わりに欲と狂気で血走っていた。
「おい、早く決めろ。ここで死ぬか、生き残るか」
部隊の長であるオレステが冷静で、他の冒険者からも一定の評価を得ていたので、現在も二人は生きていられるが、それもあと数分と続かないだろう。理性が崩壊し、欲が抑えきれなくなれば、冒険者らは一斉に襲い掛かる。そうなれば首だけでは済まない。
幻獣のというだけで、手、足、胴……いいや、それでも足りない。耳、鼻、眼、舌、指、まだまだ足りない。髪、歯、爪、皮膚、骨、臓腑まで。もはやケルベルスなのかオルトロスなのか分からなくなったとしても構いやしない。なんたって幻獣の、なのだから。
人間たちに囲まれても、それでもケルベロスは、弱って無抵抗なオルトロスを手に掛ける覚悟が出来なかった。
優しさも甘さも、味方である者にとっては基本的に善意である。だが、明確に味方と敵を区別できなければ毒となり、自分や周囲を滅ぼす。
こんなことになるのなら、捕まった時にわたしだけ殺されるべきでした。
結果的にではあるが、仲間の情報を売り、オルトロスを誘き寄せる餌になったのだ。魔王軍からすればとんだ裏切り者である。
ケルベロスは折れかけた膝を、零れかけた涙を、あることを思い出すことで堪えた。顔を上げ、正面に立つオレステに視線を向ける。
「レイホさんは、幻獣の仲間じゃありませんから……」
限界だった。オレステが言葉の意味を汲んでくれたのかも確認せず、涙を零しながら顔を伏せ、膝が折れた。しかしながら、ケルベロスにはまだやるべきことが残っていた。
最期に忘れなくて良かったです。このまま何も言わなかったら、レイホさんが疑われたままでした。
オレステが敵の言うことを聞き入れてくれるかは敢えて考えないようにし、自分のことを褒めて感情を誤魔化す。そして、倒れ込みそうになっているオルトロスを包むように抱きしめた。
「大丈夫ですよ。お姉ちゃんが付いてますからね」
あれ? これ、前にも似たような場面で言ったような気がします。……何も大丈夫じゃないですね。ごめんなさい。
自分に特別な力があると思った事はなく、策が閃くわけでもない。“大丈夫”などただの気休めに過ぎないと理解していた。
「嫌だ。またこんな終わりなんて嫌だ。オレは……強いんだ。こんな奴ら、一人で倒せるんだ」
オルトロスは腕の中でもがくが、抱擁を解くことは出来ず、顔を上げて姉の顔を見ることもできない。
「そうですね。……じゃあ、次こそは楽しく、幸せに終われるようにしましょう」
「次なんて……」
「ありますよ。これがまたなら、きっと次もあります」
姉弟の言葉はお互いにしか聞こえず。周囲はお祭り騒ぎだ。オレステは収束を諦めて姿を消している。
「諦めたぞ!」
「認めたぞ!」
「ただ殺すんじゃもったいない!」
「手足をもいで磔にして、そして首を刎ねろ!」
「なんたって幻獣だからな!」
最近では、魔獣共が村人を人質にしたり、辺りに晒し首を置いたり、やりたい放題だった。しかし、魔王軍の幹部。冒険者で云うところの金等級、それも上位を討ち取ったとなれば、人間領に漂う陰鬱な空気も晴れるというものだ。今こそ反撃の狼煙を上げ、各地で奮戦する仲間たちの士気を上げる時だ。
武具を楽器代わりに歌い、踊る冒険者————それを上空から降り注いだ火炎が焼き焦がした。
「「————————————!!」」
獅子と山羊と蛇が混じった咆哮が二つ、クロッスに轟いた。
「キ、キメラだぁぁぁ!」
とある冒険者が指差した先では、獅子と山羊の頭を持ち、四足獣の胴体から大蛇の尾を伸ばした幻獣が二体、建物の上から睨んでいた。
「なぜ……どうして、急に幻獣がこんなに攻めて来ているんだ!?」
悲鳴の如き問いは、周囲の動揺に呑まれて消えた。そして、絶望は更に加速する。
「グルァアァァァァァァァァァァッ!!!!」
青空の一部に開いた大穴——否、闇竜の禍々しい咆哮を耳にした多くは、魂を吸い取られたと錯覚を起こした。そこに数体の飛竜が火炎弾を吐き散らしながら降下し、背に乗っていた小型の魔獣が雄叫びを上げて飛び降りた。
穴を開けようという発想が浮かばぬほど分厚く、飛び越える気も起きぬほど高くそびえ立ち、永く住民の安全を守護して来た外壁は、無傷のまま敵軍の侵入を許した。
クロッスが大混乱に陥っている中、キメラも動く。二体同時に建物から飛び降り、一体は冒険者らを威嚇し、もう一体はケルベロスの目の前に降り立った。
「キメラ……?」
死を覚悟していたケルベロスは、術者が死亡したことで魔法障壁が解除されたというのに、呆けたままオルトロスを抱きしめていた。
キメラは獅子の頭でケルベロスを、山羊の頭でオルトロスを見つめると、大蛇の尾を使って器用に二人を背に乗せた。そして、冒険者らを牽制しているもう一体を残して離脱の為に跳躍した。
 




