第二十八話:異世界の胎動
「それじゃあ、気を付けていってらっしゃい。良い知らせを期待しているわ」
「はい。いってきます」
ギルドでエリンさんに見送られ、銅等級昇格試験で指定された魔窟に向かう。
装備は相変わらず革のシャツとズボンに、爪先に金具の付いたブーツ、それと初突。右腰に水筒、左腰には今朝、雑貨屋で購入した雑嚢を下げており、中には毒薬と傷薬とコンパスが入っている。
十分とは思えず、むしろ頼りない。かといって頼りになる装備というのを聞かれても答えることは難しい。なんせ魔窟に行くのは初めてだし、魔窟は発生しているマナが影響して不定期に構造が変化すると資料室で読んだ。
大型の得物を持って入ったら狭い洞窟内だった、ということも少なくないらしいが、少し時間を置いて入り直せばまた別の場所から進むことができるから、自分の得意な装備で挑むことはできる。
ごちゃごちゃと知識を詰め込んだところで魔窟未経験なことに変わりはないし、大層な装備を整える金もない。今の俺で行けそうなら行って、無理なら逃げる。これに尽きる。
指定された魔窟は東の森の奥にあるので、いつも通り東南門から出て森に入る。踏み固められた道を真っ直ぐ進めば着くと言われたので、寄り道せずに進んでいく。舗装された道の近くではあまり魔物が出ないそうだが、一応の警戒はしておく。魔窟に入る前に無駄な体力は使いたくない。
銅等級昇格試験の討伐対象はゴブリン、もしくはインプ。ゴブリンは森の中で見かけた個体と同じだが、群れでの統率力が多少有り、単独で行動していることは少ないそうだ。インプの方は体躯こそゴブリンより小さいが、飛行能力を有しており、魔法主体の戦いをする。こちらも群れで行動していることが多く、単体で見かけることは稀だ。
試験自体はどちらか一体を倒して魔石を入手すれば達成するのだが、どちらも群れを成す魔物なので、聞いてきたよりも達成難度は高いと思った方が良い。となると、多少は見慣れているゴブリンを狙った方が良いか。
試験について勉強したことを復習していると、舗装された道が途切れる。迷った訳ではなく、元々この場所までしか舗装されていないのだ。魔窟の近くは魔物が出やすく、舗装するには危険が付き纏うのだとか。
冒険者を護衛に付けて舗装すれば良いのでは? と思ったが、コンパスを頼りに東に進むと、程なくして森が開けて岩で出来た洞窟が目に入る。
「これが魔窟か」
芝が生い茂っている地面を進み、魔窟の入り口前に立つ。外見は何の変哲もない横穴だが、近くに寄って少し中を覗くと黒い靄のようなものが渦巻いている。渦の先は全く見えず、試しに足元に落ちてあった石ころを投げ入れてみるが、無音が返って来るのみだった。
このまま入っていいんだよな? 入った瞬間魔物の巣のど真ん中とか、落下して死亡とかないよな?
未知なる物を目の前にして、あれこれと不安が脳裏に過ぎるが、答えてくれる者はいない。他の冒険者の様子を伺えれば良かったが、運悪く周囲に人の気配はない。
クロッスの周辺には魔窟が複数存在している。その中でもこの東の魔窟は強力な魔物が存在せず、深度が浅いのか、直ぐに行き止まりになってしまうらしい。なので魔窟に慣れた冒険者は他の魔窟に魔物を狩りに行く。
じっと魔窟の入り口を見ていると、「早く入れ」と煽り立てるように草木が騒めく。
よし、入る。入るぞ!
初突を抜き、深呼吸を一つしてから黒い渦の中へ、魔窟へ踏み入ろうとした瞬間だった。
「な、なんだ!?」
地面が揺れ動いた。いや、揺れ動いたなんてもんじゃない、地面を裂くような大きな揺れが発生して、俺は瞬く間に尻餅をついた。
魔窟が崩れるんじゃないか!? 揺れる視界で魔窟の天井を見上げる。逃げたいと思っても揺れの所為で体が上手く動かない。やばい、やばいと思っていると、今度は魔窟の奥の方から湿ったような、乾燥したような、温かいような、冷たいような、とにかく何とも言えない黒い空気が大量に放出される。
畜生、こんなの聞いてないぞ! 息苦しいし……頭が、ぼーっとしてくる。
両腕を顔の前に出して放出される空気を遮ろうとするが、何の意味も成さない。放出される空気は勢いを増し続け、息をするのも辛くなり、いよいよ吹き飛ばされそうになると、黒い空気の中に動物のような影をいくつか見た。
俺の記憶はそこで途切れる。体が浮遊感を覚えると同時に意識は体から離れて行った。
初めに視覚が回復する。緑の芝が空と平行に続いている。次に触覚。頬がやたらとちくちくする。数秒後に脳が働き始める。
なんで俺は芝の上で倒れてるんだ? 昇格試験を受けて、魔窟に入ろうとして…………!
気を失う直前までの記憶を思い出すと、反射的に俯せに倒れていた体を起こして魔窟の方へ視線を向ける。
魔窟は何事も無かったかのように口を開けて黒い靄が渦を巻いており、入り口の前には誰かが倒れていた。
何だったんだ、さっきの? 体に異常は……ないよな。ってそうじゃない、倒れているのは誰だ?
近寄ってみると横たわっている少女が確認できた。ただ、少女ではあったのだが、その見た目に俺の脳はまた働くことを止めた。
少女の見た目は、先ず全身黒。肌は色白に見えるが、それ以外の着ている服や髪や耳や尻尾は黒一色だ。セミロングくらいに伸ばされた髪の毛は乱れていて顔の側面を覆っているが、頭頂部付近から生えている一対の三角の耳は隠れようがなかった。腰の辺りから生えている尻尾は毛がふわふわしているが、細めで三本生えているように見える。
ここまでなら獣人の少女なのだろうと分かるが、問題は首と両手足首に着けられた金属の拘束具だ。大きさも厚みもないが、黒色というだけで重々しく見える上に、引きちぎられたような鎖まで付いているのだから、少なくとも平和な家庭で生活しているとは思えない。率直に言ってしまえば、閉じ込められていた奴隷が命からがら逃げて来た印象を受けた。
服装は袖なしで丈の短いシャツに半ズボンと布面積が少ないので、細身の体がよく見えてしまう。ちなみに素足だ。
はっ! 初めてこんな近くで獣人を見たから、思わず全身を観察してしまった。ごめんなさい。事情は分からないけど、このままにしていい理由がないから、一先ずクロッスに連れて行かないと……。
どうやって運べば良いだろうか。所謂お姫様抱っこか? いやいや、それはちょっとアレだな……運び難そうだ。うん、背負っていこう。やましい気持ちはないぞ。人命救助だ。そう。俺は君を助けたいんだ。
気を失っている少女の体に触れていると、どんどん俺の中の良心が傷んでいくが、ぎりぎりの所で持ちこたえて背負う事に成功する。
あー、これ精神力三倍くらいに上がっただろ。いや、消耗したから逆に下がったのか? とかなんとか考えながら歩き出そうとした時、視界に影が落ちてくる。
今度は何だ!?
上を見上げて、そこで目に映った物を、俺は数秒間茫然と眺めるしかなかった。
空には地面があった。妙な事を言っている自覚はあるが、正にその通りなのだ。無造作に切り取られた地面が、空に浮かんでいた。
何だ何だ? この娘はあの浮島からでも逃げて来たのか? 翼の生やした住人が降りて来て、「そいつを渡せ」的な展開か? 勘弁してくれ。せめてもう少し俺が強くなってからにしてくれ。今の俺じゃ歯向かったところで瞬殺されるだけだ。
訳も分からず気絶し、いつの間にか獣人の少女が倒れていたかと思うと、今度は空に地面が浮かんでいる。こんな状況を上手に理解できる気がしないので、とにかくクロッスに戻ろう。
変な魔物、出て来ませんように。




