第二百八十六話:姉弟喧嘩
「────わたしが知っていることは以上です」
自身が人間側であることを証明するためとはいえ、幻獣の能力と魔界の王のことを話し終えたケルベロスの表情は暗かった。
「そうか。ご苦労さん」
情報を書き留めていた兵士に視線を送り、問題無いことを確認すると、三人はその場を離れようと足の向きを変えた。
「あ、あの! ここから出してくれませんか?」
「悪いが専門の奴じゃないと、牢は開けられんし拘束も解けない。もうしばし待て」
ケルベロスの問いに男は足も止めずに答えると、連れと共に立ち去った。
「人の姿を持つこと以外は、我々が入手した情報と大きな違いはありませんでした」
ケルベロスの牢から離れ、書斎に戻ると兵士は書類に目を落としながら口を開いた。
「異世界の伝承に登場する怪物と、冥府の統治者の名を借りた異世界人か」
「厄介なものを持ち込んでくれたものですね」
「でも」と会話に入って来たのは魔法使いだった。
「今までは魔界から魔獣が溢れないように……言うなれば人間の味方をしていたのに、どうして今回になって魔獣の味方をしているのでしょう?」
「味方だった者が敵対する理由なんざ、そう多くはねぇ。そうした方が自分らにとって都合がいいか、味方するだけの価値を損なったかか」
男が忌々しそうに口にしたことで、書斎には僅かな間、沈黙が流れた。
「……督戦の斜陽と呼ばれるドルフ隊長でも、裏切られることがあるので?」
恭しく尋ねたのは兵士だ。
「冒険者なんてやってりゃあ、んなもん幾らでもあらぁ。お前らも気を付けるんだな」
乱暴に頭を掻きむしる姿を見て、兵士は余計な事を聞いてしまったと後悔した。
「ケルベロスはこの後どうしますか? 我々の味方をする事は真意でしたし、本当に牢から出すのですか?」
嫌な空気に支配されてしまう前にと、魔術師が早口気味に言葉を発した。
「近々、反攻作戦が決行される。その時に改めて幻獣としての力と、味方であることを証明してもらう。それまでは閉じ込めて様子を見る」
言葉を切ったドルフだったが、兵士が何か言いたそうにしているのを見、先に説明することにした。
「期待外れだった時は、即処分する。幻獣の首だ、いくらでも使い道がある」
ドルフの、まるでケルベロスが期待を裏切ることを望んでいるかのような不敵な笑みと、瞳の奥で怪しい光が揺れたのを目にした二人は、背筋に震えを感じた。
捕らえられたその日の内にケルベルスの拘束は解かれたが、牢から出ることは許されなかった。
薄暗く、硬い床と壁に覆われた牢内でケルベロスにできることと言えば、自分や仲間たちについて思案することくらいであった。
レイホさんたちは無事でしょうか? 魔王軍の手先だと疑われていると聞きましたが……わたしの所為ですよね。わたしが一緒にいなければ、疑われることなんてなかったですし……でも、あのまま魔界に残っていたら、今頃わたしも人と敵対していたんですよね。
レイホたちと対峙する、もしもが脳裏に過ったので直ぐに頭を振ってかき消した。
どうして幻獣やハデス様は魔物と一緒に人を倒そうとするのでしょう? オルトロスは人が“奪った側”だと言っていましたが……何を? あの廃村が故郷だと言っていましたが……何も思い出せません。
大切な人たちに迷惑ばかりかけて、その上、何も知らないなんて……。
自分はなんて駄目なのだろうかと拳をきつく握る。
孤独にひたすら門を守る日々はなんと楽だったろうか。仲間と共に冒険に繰り出す日々はなんと恵まれていたことだったろうか。
変わらない日々を望むのが、どんなに贅沢なことだったか。
分かっています。分かっていた……つもりなんです。
なら、これからどうするべきか。
終わらせないとなんです。この戦いを。幻獣のわたしだからできるやり方で、魔物の王を倒すんです。
上手くやればきっと、自分の大切な存在は傷つかずに済む。
戦争が終わった後、仲間たちと笑い合う光景を思い浮かべると、自然と口元が緩んだ。
無機質な牢で幾度目かの目覚めを迎えた日だった。いつも無音の牢に、人々の喧騒が轟いた。何事かと犬耳を澄ませ、気配を探る。すると、悲鳴と雄叫びの中に幻獣の名を叫ぶ声が混じっていた。
「ケルベロス!」
兵士が一人、血相を変えて牢に現れた。
「何が起きているんですか?」
問いに答えは返って来ない。が、代わりに開錠音が鳴り、鉄格子の扉が開けられた。
「その言葉が本当ならお前がどうにかしろ!」
言葉の意味は分からないが、これまで閉じ込めていたケルベルスを牢から出す目的はそう多くない。
「魔獣が攻めて来たんですね?」
兵士が焦りと苛立ちを全面に出し、口を横に開いた瞬間だった。
「姉ちゃん、見つけた!」
鉄と肉が叩き付けられ潰れる音と共に、答えが目の前に立っていた。
「オルトロス!」
あどけない笑みを見せ、二尾を愉快に振って見せる少年。ただし、その顔は、尾は、手は、足は、体は、血と臓腑に濡れていた。
壁に転がる鉄鎧から流れ出た血がオルトロスの足下を濡らす頃、外から大勢の足音が聞こえて来る。
「ああもう、弱いのにしつこいな。姉ちゃん、行こ!」
腕を掴まれ、引かれるのを反射的に拒む。
「どうしたの? どうやって力を取り戻したのか知らないけど、オレたちと一緒に戦ってくれるんじゃないの?」
「わたしは、人と争うつもりはありません!」
流れ込む足音と発射音。オルトロスは「おっ」と声を漏らしてケルベロスを押し込み、牢の中に入って多数の矢から逃れる。
「押し込んだぞ! 魔法を!」
「向こうはそう思ってないみたいだけど?」
「それはあなたが暴れ回るから……」
言い合いを始めている間に唱えられたのは、複数人の魔法使いによる【ブラスト】だ。
牢内に轟音が連続し、鉄格子が吹き飛び、壁と天井が崩れて悉くを圧し潰した。しかし、それで幻獣を倒せたと油断はしない。魔法使いは次の術の詠唱へ、それ以外は各々の武器を構えて追撃に移る気でいた。そして、そのまま首を吹き飛ばされて絶命していた。
「オルトロス!」
【ブラスト】や瓦礫が直撃する前に牢を出て、【エクサラレーション】による高速前進で冒険者の群れを抜けたケルベロスだったが、背後に広がった惨状に怒りを示す。
「いいんだよ。元々、存在することもなかった奴らなんだから」
オルトロスは背中を向けたまま、首だけ振り向いて死体を睥睨すると走り出そうとしたが、慌てて前方に跳び込んだ。
「姉ちゃん!?」
前転し、起き上がると同時に振り返る。そこには【魔界の番犬】を発動させ、全身に流れる黒い帯状のオーラを纏わせたケルベロスが、右腕を振り下ろしていた。
「どうしてそんなに簡単に人を殺せるんですか!?」
オルトロスが動揺している内に飛び掛かり、両肩を掴んで押し倒す。
「魔獣の味方をして人を殺して土地を白紙化させて、何が目的なんです!? ちゃんと教えなさい!」
【魔界の番犬】の効果で金色に変化した双眸でオルトロスを睨み付ける。
「痛っい! 言うから、教えるから! 放してよ!」
姉の怒り顔に萎縮したオルトロスは、たった今冒険者を何人も殺害した者とは思えぬ態度で許しを求めた。
弟の脅えた態度にケルベロスは多少の罪悪感を覚えながらも、釣り上げた眉は下ろさず、両手の力を緩めた。
「ただ、喋るにはここは邪魔が多い。付いて来てよ」
もはや【気配察知】で感知するまでもなく、大勢の冒険者や兵士らが外で待ち構えているのは明白であった。しかし、それをオルトロスは脅威に感じていなかった。町を離脱し、戦う理由を話せば姉も人と戦うことに納得してくれるだろうと考えていた。
「駄目です。あなたをここで拘束します。話は牢の中で聞きます」
緩められた手に再び力を入れるが、オルトロスが脅えることはなかった。むしろ反抗して【魔獣の番犬】を発動し、ケルベロスと同様に流動性の黒い帯状のオーラを纏い、身体能力を飛躍的に向上させた。
「どうしてだよ! どうしてそうまでしてこっちの人間の味方をするんだよ!」
発動したスキルの影響で金と紅のオッドアイとなった瞳で睨み返す。
「元々、わたしたち幻獣は人を守るための存在です。ハデス様からそう聞いている筈でしょう?」
「違う! ハデス様の言っている人は、オレたちが守ろうとしている人は、地上の奴らじゃない! 魔界の人たち……本当の世界の人たちだ!」
 




