第二百八十四話:番犬復活
無月 月初 クロッス
人間領西部最大の拠点となったこの町には平時よりも更に多くの兵士、冒険者が集い、作戦の立案や連携に重点を置いた戦闘訓練が連日行われていた。
「むむむむ……」
真剣に、しかしどこか困ったような唸り声は、戦時下の緊迫した空気から少し離れた、下流区の奥にある治療院から漏れていた。
「あー! また変な結び目つくってる!」
幼さの残る声で指摘され、唸り声の主は「えっ!? どこですか?」と、手にしていた棒針と毛糸を覗き込んだ。
「待って、待って。あたしが直すから、犬のおねーちゃんはじっとしてて!」
少女に言われるがまま、犬のおねーちゃんことソラクロは体の動きを停止させ、問題が解決するのを待った。
「もー、どうしてこうなっちゃうのかなぁ」
「うううぅぅ……。面目ないです」
愚痴をこぼされ、ソラクロは眉と犬耳を下げて自分の不甲斐なさを悔やんだ。
アルヴィンの屋敷で目を覚ました後、ネルソン治療院に移ったソラクロは杖をついて治療院の仕事を手伝ったり、今日のように見舞いに来た子供と共に過ごしたりしていた。
「はい、戻したから気を付けてね」
「ありがとうございます」
毛糸を解いた少女は、自身の作業である裁縫へと直ぐに戻った。小さな手でありながら、慣れた手つきで針と糸を扱い、服のほつれを直していく姿にソラクロは「器用ですねぇ」と感嘆した。
「犬のおねーちゃんが不器用すぎるんだよ」
「うっ!」
自覚があったとしても、他者から容赦の無く指摘されれば傷付くものである。ソラクロはしょぼくれながら、毛糸を編む手を動かす。
「おにーちゃんが帰ってくるまでに作らなきゃなんだから、頑張って」
「もちろんです!」
自作の襟巻をレイホに贈ろうと考えたのはつい先日のことだ。自由に歩き回れないソラクロのためにと、隣で裁縫をしている少女が編み物を教えてくれ、何を作るか考えた時に思い付いたのだ。
これまで迷惑を掛けたお詫びの意を籠め、襟巻で暖を取る彼の姿を思い浮かべ、意気よく作成に取り掛かったものの、ソラクロの致命的なまでの不器用さによって進捗は芳しくない。しかしながら、不器用だからと言って棒針や毛糸を投げ出すほど幼稚ではない。教わったことを頭の中で復唱し、指先に伝達する。
集中力が高まり、棒針の動きからぎこちなさが取れ始めた頃、治療院の裏口が開き、慌ただしい足音が転がり込んだ。
足音の主は他でもない治療院の主であり、癖の強い暗い紫の髪をぐしゃぐしゃに乱していた。
「ソラクロくん、悪いが説明している時間は無い。今すぐレイホくんの所に向かうんだ」
何の事かわからず首を傾げるソラクロであったが、ネルソンはお構いなしである。寝台の下から荷物の詰まった背嚢と、五つの漆黒の輪を取り出した。
「君、悪いが家に帰りたまえ。遊ぶのはまた今度だ」
ネルソンが少女に言い放ったと同時、診療所の玄関が叩かれた。鍵の掛かっていない戸は訪れる者に対して平等に道を開ける。
「ここから北東のルグナ村を目指すんだ。地図もそこに入れてある。急げ」
僅かに声を潜め、すれ違い様に言い残すと、ネルソンは玄関の方へ早足で向かった。
「どうしたの?」
状況が分からず脅える少女の頭を優しく撫でる。
「大丈夫ですよ。ただ、ネルソンさんに言われた通り、今日はもうお家に帰った方がいいですね」
「犬のおねーちゃんは?」
答えを探す様に視線を寝台の上へと向けた。
漆黒の輪。かつて自身を縛り、人を超える力を与えてくれた拘束具に類似していた。
どうしてこれがここにあるのでしょう……分かっています。
どうしてネルソンさんはこれを渡したのでしょう……分かっています。
どうしてもっと早くこれを渡してくれなかったのでしょうか……分かりません。分かりませんが、きっとあの人ことですから、考えや悩みがあったからで……そしてそれは、わたしへの優しい、あったかい気持ち。あの人は、そういう人なんです。わたしがこれを着けて会いに行ったら、多分すごい複雑な表情をするんです。でも、それを口にすることはなくて、色んなことを自分の中に押し込めて、迎え入れてくれるんです。
だからわたしは…………
「ふふっ」
「犬のおねーちゃん?」
「あ! ごめんなさい。わたしは大丈夫ですから。さ、もう今日はバイバイです」
ソラクロの犬耳には玄関でのやり取りが滞りなく聞こえて来る。相手は幻獣を捕らえに来た冒険者が五人……いや、玄関の外からも武装した人の音が聞こえる。そんな連中に凄まれても、ネルソンはいつも通り尊大な口ぶりで、大いにもったいぶって誤魔化している。だが、それも長くは持たない。冒険者たちの声音に苛立ちが滲み始めている。
「また、会えるよね?」
「もちろんです。わたし一人じゃ襟巻を編めませんからね」
少女を見送りながら、重く光る拘束具を両腕、両脚に着ける。最後に残した一つには、短い鎖が付けられており、輪の内柄にはケルベロスの名が刻まれていた。
「いつまでしらばっくれてんだ! いい加減に通しやがれ!」
荒れた声と打撃音。次いで衝突音。
「しらばくれてなどいないさ。何度も言っているだろう? 病室にいるのは救うべき患者であり、町を襲う魔王軍の手先でも、ましてや悪しき幻獣などではない」
病室へと続く戸を背で守るネルソンであったが、その膝は折れており、顔には腫れ上がっていた。
武装した冒険者らは力ずくでネルソンをどかそうとするが、彼らを押しのけて狼の獣人がネルソンの前に立った。
「無許可で治療院を開いている医者にしては随分な気高さだ。患者を治すのは医者の仕事だろうが、化け物から町を守るのは冒険者の仕事だ」
狼の獣人は声を荒げることも、凄むこともなく淡々と言い終えると、予備動作も無く戸を蹴破った。背中の支えを失い、ネルソンは床に倒れる。
「こいつも連れて行け。叩けば埃が出てくるだろうが、医者はいくらいてもいい状況だ」
指示を受けた冒険者らがネルソンの体を拘束しようとした時だった。廊下の奥から、身を竦めさせるほどの波動が全員を襲った。ただし、ネルソンだけは何が起きたのかを瞬時に理解して口角を上げた。
「行くんだ! 君の助けを本当に必要としている者の所へ!」
波動によって全身を硬直させていた冒険者たちだったが、ネルソンの声によって何が起きたのかを理解すると、対象を逃すまいと廊下を駆け出す。
「裏から逃げたぞ!」
無人の病室と、開け放たれた裏口の扉を目にして冒険者の一人が声を張り上げた。
治療院の裏から表から冒険者が駆け出て来る様子を、ソラクロは屋根の上から窺っていた。
「ネルソンさん……ごめんなさいっ!」
連れ出されるネルソンの姿を目にし、ソラクロは小声で謝罪しながら奥歯を噛んだ。右脚の自由どころか幻獣としての力を取り戻した今、人を一人助け出すことは容易だが、それはその場凌ぎのものでしかない。身体能力としては一般人でしかないネルソンを連れて、冒険者の追跡を振り切るのは困難である。何より、ここで冒険者と敵対してしまっては弁明の余地が無くなってしまう。狼の獣人が言っていたように、ネルソンは医者で、今は戦争中なのだから、連行されたとしても即重罰を科せられることはないだろう。
ソラクロに出来ることは、レイホと合流してこの戦争を終わらせることだ。それこそがネルソンを真に救うことになるのだから。
 




