第二百八十話:無用の暴力
溟海の月 某日
人間領東部の白紙化した大地に突如として出現した、魔を纏う城塞。
深い青の月が失われた空を竜の大群が覆い、白き大地では獣がひしめき合い、暗い地中では虫が蠢き、静謐なる水中で怪物が目覚めた。
魔獣の侵攻が始まると、冒険者や兵士の抵抗も虚しく街は焼かれ、人は引き裂かれ、地は白紙へと還った。次々と白紙化が広がる人間領であったが、それを変化と認識することはできない。世界の強制力が、白紙化した大地は“元からそうであった”と人々に認識させるからだ。
人間領は魔獣の群れに蹂躙されるしかないのか。
これまで築いて来た歴史を白紙に戻されるしかないのか。
隣人と苦楽を共にする日々を奪われるしかないのか。
思いを馳せた未来を閉ざされるしかないのか。
否である。
いかに絶望の淵に立たされようと、全ての人が等しく蹴落とされるわけではない。
魔獣の襲撃を受けた、とあるの都市の生存者が首都に事態を伝えたことで状況は変転する。
統率の取れた魔獣の群れを魔王軍と称し、各地から冒険者を招集、反攻に打って出た。これまでに例のない、魔獣の戦術的な動きに対して人類は苦戦を強いられた。しかし、大型弩砲や火砲などの兵器の量産化、魔法学校が製造した魔法兵器の実戦投入により、戦局は逆転した……かに見えた。
魔獣の侵攻を押し返したとしても、白紙化した大地では失地回復することは叶わない。倒せども倒せども魔獣の数は減らず、魔王軍以外の各地に出没する魔物の対応にも追われる。加えて、人間領を包囲するように領境で睨みを利かせる五体の幻獣と、彼らに率いられた魔獣によって他種族からの支援は隔たれた。
終わりの見えない戦いと、徐々に迫り来る白紙化による疲弊から、やがて人の心には陰りが現れ始めた。
無月 某日 ルグナ村
人間領北部領堺付近にある村では、北の幻獣からの襲撃に脅えながらも、南にある町へ避難することができない人々が細々と暮らしていた。駐屯している兵士や冒険者の数は少なかったが、だからこそ脅威と捉えられなかったのだろう。今日まで幻獣からも魔獣からも襲撃を受けず存続していた。そう、今日までは。
月の無い夜が明け、朝日に照らされて始まったのは穏やかな一日などではなく、底企による略奪と殺戮であった。
「うわああっ! 何で、何であんたらがっ!?」
寝起きを襲われ、成す術なく追い込まれた農夫が叫ぶ。魔獣が相手ならば返答は農夫の死以外にあり得なかったが、今、刃を銀色に光らせて農夫に迫る者は言葉を持つ者であった。
「知ってるか? 食い物や資源ってのは無限じゃねぇんだ」
知っているに決まっている。無限でないからこそ、農夫は農夫として生きて来られたのだ。だが、刃を持つ男は農夫からの答えを望んでなどいなかった。恐怖と混乱で固まる農夫に蔑みの目を向け、腹部に向かって刃を振り下ろした。
「ぎゃああああぁぁぁぁっ!」
「だったらよぉ、戦える奴が腹いっぱい食えるように、口数は減らさねぇとなぁ!」
二度、三度と無造作に刃を振り下ろすと、農夫の叫びは小さくなり、直ぐに動かなくなった。男は冷めた様子で唾を吐き捨てると、屋内を物色し始めた。
場所は変わり、母娘が営む雑貨屋にて。
「やめて、やめてください! お金は差し上げますから、娘だけは! 病気なんです!」
全身を鉄の甲冑で包んだ男に母親は追い縋るが、無慈悲な拳によって簡単に倒される。
「お母さん!」
甲冑男の脇に抱えられた娘が声を上げるが、手を縛られた状態では満足に抵抗もできない。その様子を見た甲冑男は嘲笑を浮かべ、親子の間を引き裂くように言葉を発した。
「わかってないなぁ。この家で一番金になるのが娘さんなんだよ。それに病気ったって、首都やでかい街にいけば治せるから、こんだけ蓄えてたんでしょ?」
甲冑男は先ほど奪い取った、銅貨と銀貨が詰まった革袋を母親に見せびらかしながら頭を踏み付ける。
「あうぅ……」
「ちゃぁんと使ってやるから、安心しなって」
愉快だった。暴力を振りかざせば、こんなにも簡単に自分が欲するものを手にすることができるのだ。
規律を守り、厳しい訓練に耐え、こんな辺境に配属されても腐らずに努力しようと考えていた自分が酷く愚かに思えた。
甲冑男は、母親が苦しむ様子を一頻り楽しんだ後、玄関に向かって歩き出した。
「お母さん!」
叫ぶ娘と、頭を押さえながら力無く腕を伸ばす母親を見て、甲冑男は嗜虐心に刺激されるまま捨て台詞を放つことにした。
「南の街や首都に行くにはそれなりに時間が掛かるし、それまで暇つぶしの相手よろしくな」
娘の全身に強烈な悪寒が走り、本能が危険を叫んだ。
「や……いやあ! やだ、助けて! お母さん!」
痛む体に鞭を打って母親は立ち上がり、兵士に掴み掛かろうとするが、容赦のない拳によって打ちのめされる。
助けは来ない。
本来、村を守るべき存在である兵士たちが、冒険者らと共に村へ暴力を振るっているのだから。
悲嘆と喜悦が交錯するルグナ村を、俺たちは少し離れた場所で目撃していた。
周囲の地表は平坦であるが、林のお陰で身を隠しながら様子を窺うことは容易だった。
状況も分からないまま村に突撃しようと逸るエイレスとプリムラを、纏っている外套の裾を掴んで引き止めていると、頭上から「お待たせ」という声が降って来た。妖精体のコデマリだ。
「何があったのかは知らないけど、何が起きてるかは分かったわ。兵士と冒険者が暴れ回ってるのよ。何かに操られてる感じじゃなかったから、魔王軍が関わっている可能性は低いと思うけど」
状況を説明しつつ、コデマリはシオンの外套へと潜り込んで行く。
両手から伝わる抵抗が強くなる。
「戦力は?」
「数は十前後。装備は銅等級の並ってとこね。各々が好き勝手に動いているから、連携や外への警戒は薄いわ」
頭数では負けているが、個の戦闘力は俺を除いて五分以上だろう。連携が取れていないのであれば、奇襲で引っ掻き回せばどうにかなるか。
「よし、行っていいぞ。ただし行動は二人でだ」
「うん」
「了解ッス!」
両手を離した途端、二人は弾けるような速度で村へと駆けて行く。
「おれは?」
頭まで隠す外套の奥から、赤茶色の瞳がじっと見つめて来る。
「好きに暴れろ。できれば中央で」
「ん」
アクトはいつもの簡素な返事をし、外套の中から器用に太刀を抜くと、先行する二人の後を追って行った。それから少し遅れて俺とシオンも村へと向かう。
「二人は村の外側を回って、村人の救助と、逃げる奴がいたら確保を頼む」
「わかった」
「あんたはどうするのよ?」
「何があったのか調べつつ、先に行った三人の援護をする」
幻獣討伐の拠点にする為の使いとして来た筈が、妙な場面に出くわしたものだ。本隊に事態を報告するなら詳しい方がいいに決まっている。
「そ、気をつけなさいよ」
「ああ。そっちも」
互いに素っ気なく無事を祈り、それを聞いたシオンは薄く笑んだが、何かを言う余裕は無いと判断して、軽く手を振りながら分かれ道へと逸れて行った。
「おわぁぁぁっ!」
「なんだ、お前らは!?」
村内の喧騒の色が変わった。エイレスたちが戦闘を開始したのか。
なるべく殺すな、と言うのを忘れたが、思い出したところでもう遅い。隊長たちが、この村に駐屯していた戦力をどれだけ当てにしていたかは知らないが、無くなって困るようなら幻獣討伐になど踏み切りはしなかっただろう。
 




