第二百七十六話:戻る者
「——そんなことで本当に呪いが治って……人間に戻るのか?」
アルヴィンから伝えられた、ソラクロの右脚を治す方法と、世界を戻した時に人間だった頃に戻れる方法。それはソラクロにケルベロスの力を取り戻させる、というものだったが、その方法が余りにも単純……正直なところ馬鹿げているとさえ思えるものだった。
「騙されたと思って試してみるといい。副作用なんて発生しないし、君もあれは持て余しているんだろう?」
あれ——魔界でハデスから貰い受けた鉱石は、確かに持て余している。というより、ここで話題に出なければ存在そのものを忘れていた。
「彼女が力を取り戻せば、この世界での今後の戦いも楽になる。そして、この世界を越えれば平穏が待っている」
世界のこと、アルヴィンの目的のこと、ソラクロの足を治す手段、多くの情報が詰め込まれた頭で、自分がどうすべきか再考する。
世界を戻すとか、英雄と戦うとか、そんな大それた冒険に興味は無い。規模が大き過ぎて想像できないと表現した方が適当だろうか。
ソラクロの死はおよそ生物に相応しくない悲惨なもので、あれが無かったことに出来るなら、そうしてやりたいとは思う。だけど、今のソラクロにあの時の記憶は無い。なら、あいつの幸せの為にと、俺が勝手に意気込むのは愚かなことだ。そもそも、個人の幸せは本人にしか測れないのだから、他人の価値観で押し付けていいものじゃない。
答えは決まった。
「悪いが、ここで聞いた情報をどう扱うかは俺が決める。お前の目的に手を貸す気も……無い」
アルヴィンは驚くわけでも、不満を露わにするわけでもなく、ただ静かに眼鏡の位置を直した。
「それでいい。助けてもらった恩だとか、情報を与えられた返報だとか、いらぬ情で協力を申し出られても困る。世界をよく見たまえ。それからの協力でも、私は一向に構わない」
「最後まで協力しないかもしれないし、反抗するかもしれないぞ」
「その時のことはもう言ったよ。諦める、と」
諦めて、時間跳躍で戻って、また世界を取り戻す戦いを始めるってか。アルヴィンはこれまでに一体どれだけやり直して来たのだろうか。
「なあ…………」
疑問を投げ掛けようと、声を掛けてから迷いが生じる。聞いても良いことなのだろうか、と。
「なにかな?」
突然黙り込むものだから聞き返された。当然だ。
何でもないと引っ込むこともできるが……。
「何度目なんだ? 英雄たちと戦うことを決めて、時間跳躍でやり直しているのは」
アルヴィンの表情は無い。眼鏡の位置を整えることもなく、真っ直ぐにこちらを見て開口する。
「失敗の数に興味は無いよ。ただ一度の成功だけを目指しているのだから」
「……そうか」
やはり聞いても意味のない問いだったと後悔しながら相槌を打つと、アルヴィンは鼻で笑って返した。
「さあ、私が伝えたいことは伝えた。君もどうするか判断は付いた。もう戻ってもらって構わないよ」
長く重い話から解放されたというのに、俺の足は止まったまま、右手の人差し指を立てた。
「最後にもう一つ」
話の中でずっと気になっていたことだ。
「魔界の王と伴侶って言うのは……」
「ハデス、ペルセポネと名乗っている。君が魔界で会ったことのある、あの二者だ」
質問の途中だったが、意図を察したアルヴィンの答えによって遮られた。
やはり、と納得する俺に向かって、アルヴィンは言葉を追加する。
「ついでで言うことではないと思うが、常闇の英雄はタルタロスと呼ばれている」
タルタロス……聞いた覚えがあるな。確か、奈落とやらに落ちた時に見た怪物がそう呼ばれていたか……。えっ、俺があれを倒せんの? 絶対無理だろ。いや、それよりもハデスたちの方だ。
会ったことのある二人の顔を思い出し、思考を回そうとした時だった。
ぐるる~……。
獣の鳴き声にしてはやけに間抜けな音が鳴った。それも当然だ。室内は密室で、俺とアルヴィン以外に人はおろか獣なんていない。
俺が半ば反射的に音の発生源を押さえると、アルヴィンは堪らずといった様子で鼻を鳴らした。
「フッ、フッ……。長話をし過ぎたか。空腹では頭も回らないだろう。食堂に戻って何か食べるといい」
「……悪いが、そうさせてもらう」
緊張が途切れ、空腹を強く意識したからか、ついさっきまで自分が何を考えようとしていたかも明確に思い出せない。
挨拶を早々に切り上げ、恥ずかしさから逃げる様に退室する。
書斎で一人になったアルヴィンは控え目に息を吐き、椅子の背もたれに体を預ける。が、それも数秒のことで、直ぐに体を起こし、執務机の引き出しから分厚い一冊の本とペンを取り出した。
机の上に置かれた本は、部屋の大部分を専有する本棚にぎっしりと詰められた、題名のない本と同一の物だ。
彼は本を開き、白紙の頁を見つけると無感情にペンを走らせた。
食堂ではユニオンに所属している冒険者がちらほらと見受けられ、食器の音や話し声で賑わっていた。空いている席もいくつかあったが、足は自然と一つの卓へと向かっていた。
「おかえり。長かったね」
声を掛けてきたアクトの前に食器は無い。大食いの奴が食べ終えているのだから、他の者も食事が済んでいるのは当然だ。
「ああ」とだけ答え、手近にあった椅子——コデマリの隣に腰を下ろす。途端、体重が強烈に主張してきて、だらしない体勢になりかけた。
「そんなに疲れてどうしたのよ?」
コデマリに訊ねられたが、何があったかを話すのも面倒だ。せめて何か飲み物でも貰って来るんだったな……。
立ち上がる事を拒否した体でも、恨めしさから目線を厨房の方へと向けると、水の入った杯を差し出された。
「はい」
両手で丁寧に杯を持つのはプリムラだった。気を利かせて取りに行ってくれたのか。
「……ありがとう」
受け取る以外の選択肢も、他の言葉を選ぶ必要もないのに、俺は何故か少し間を開けてから杯を受け取り、中身を口に含んだ。
「…………」
寝起きから今まで何も口にしていなかったからか、体は待ち望んでいた水分を強欲に求めた。あっという間に水を飲み干し、手には空になった杯だけが残る。
「おかわり、いる? 食べ物も何か取って来ようか?」
傍らに立って待機していたプリムラがやたらと世話を焼こうとして来る。
正直なところ水分も食べ物も欲しいが、じゃあ、と言って甘えるつもりはない。
自重を支えるので精一杯な体を、少しだけ反動を付けて立ち上がらせる。
「何があるか分からないし、自分で取って来るよ」
ありきたりな理由を口にすると、プリムラは不満そうな、悲しそうな表情を見せた。相手が何を望んでいて、俺はどうすればいいのか分かってはいたが、実行に移すには体力に余裕が無かった。
プリムラの横を通り過ぎて…………ない。視界の端で淡い金髪がふわふわと動いている。
「付いて来なくても……」
「いいでしょ」
小声の愚痴に小さな反抗。
付いて来る必要はないと思うが、付いて来られて不都合なこともない。好きにさせよう。
「ね、何食べるの?」
懐くような問い掛けに違和感を覚えて横目でプリムラの顔を見るが、間違いなく彼女だ。
質問への返答は注文と同時でいいだろうと思って、厨房前に立て掛けてある献立表を流し見る。
何を頼んでもべつに文句は言われないだろうが、他が食べ終えていることを踏まえると、あまり手間取らずに食べられる物が良いと考え、ハンバーガー系の軽食を頼む。
「それ、好きなの?」
この世界でも手軽に食べられる物は人気があり、通りに屋台が出ていることも少なくないので、俺もそれなりの回数、口にしたことはある。香草が口に合わない場合を除けば、味に不満を感じた記憶はないし、付け合わせのポテト含めて大型だから量も充分だ。
好き嫌いを意識したことのない料理であったが、こうして考えてみると好きに分類して問題ないな。
「ああ」
肯定したところ、くすりと笑い声を返された。
「ずいぶんと考えたね」
「好き嫌いを考えたことがなかった」
「そうなの? じゃあ、これからは好きな食べ物を聞かれても直ぐ答えられるね」
さっきからプリムラの態度に違和感があるな。距離感が近いような……有り体に言えば明るくなった。
「……何か良いことでもあったのか?」
厨房から料理を受け取ってから問うと、プリムラは大きな碧の瞳を更に大きく開いた。
「……うん!」
「そうか」
何かの内容を聞く気はないが、とにかく良いことだ。けど、機嫌が良いからって、あんまり付いて回られるのは勘弁だな。
俺としては元の他人行儀気味の…………いや、思い返せば初めて会った時は今みたいな雰囲気だったか。プリムラの心境にどんな変化があったかは知らないが、精神が立ち直れて来ているのだろうか。
「あ、戻って来たッス」
「楽しそうに話してたけど、どんな話してたの?」
楽しそうにしていたのはプリムラだけだと思うけどな。
「レイホの好きな食べ物の話」
プリムラが自分の席に戻りながらシオンの問いに答えているが、話に加わるつもりはない。
ハンバーガーを大きめに頬張る。
正面では、シオンが「何が好きなの?」と尋ね、プリムラが「あれ」と視線を向けて来る。
話題にされながらだと食べづらいのだが。
「今度冒険に行く時、私が作ってあげるね。みんなの分も」
「ホント? なら、おれのは肉多めで」
自分が関わる食べ物の話になった途端、アクトが話に混ざる。
「あっ、じゃあオレも肉倍でお願いするッス」
「……おれのはエイレスのより多くしてよ」
「じゃあ、オレはもう肉だけでいいッス!」
肉を巡って謎の張り合いをしている二人に向けて、コデマリは呆れを隠そうともせず頬杖を付いて溜め息を吐く。
「はあ~……バカ」
「ドチビ」
「種族が違うんだから同じ尺度で考えるんじゃないわよ」
気分が冷めているからか、いつもみたいに食って掛からない。ただ、どう返されようとアクトは興味が無いようで、プリムラに作れる料理の種類などを聞き出していた。
全滅しかけた冒険の後だというのに、いつもと変わらず……いや、いつもより賑やかだな。コデマリを除いて。
シオンもさっき顔を合わせた時は気まずそうにしていたが、今はいつも通りの様子で会話に参加している。
「……気にしてるなら、気にしなくていいぞ」
口の中の物を水で一気に流し込み、隣に聞こえるだけの声量を出す。
「……言いたいことは分かるけど、何か変な言葉よ」
頬杖を解いて、こちらに半眼を向けて来る。
「俺も言ってからそう思った。けど、気にしてるかどうか分からなかったから、あんな言い回しになった」
コデマリは鼻を鳴らすだけで、心の内に言葉を溜め込んでいる。
「今回の冒険は俺が愚かだった。っていうか、元々ここはそんなに良くない」
右手の人差し指で自分の頭を差す。
悪いのは俺で、皆は悪くない。なんて、コデマリは絶対に納得しない。寧ろ感情を逆撫でする言葉だと理解していたから、更に言葉を続ける。
「今、コデマリが言いたくなった言葉は全員が自分に対して思っていることだ。だから、コデマリも一人で思い詰めるな。……小さいんだから、すぐ一杯になるだろ」
「んなっ!? アンタまでチビって言うな!」
良い反応だ。余計な一言を加えた甲斐があるというものだ。
コデマリが声を荒げたことで、他の四人がこちらに意識を向けて来たが、俺は知らん顔をしてポテトを摘まむ。
一人ずつがどこか足りなくて、全員が不足を補えなくて、でも結局誰も欠けることなく帰って来られた。だったらもう、それで良いじゃないか。冒険前ならあれこれと頭を悩ませることで緊張感を得られるが、冒険後にまで緊張していてはいつ休むのか。
コデマリの相手をアクトが引き受け、エイレスが賑やかし、シオンが笑いつつも仲裁し、プリムラが成り行きを静かに見守る。いつもの、冒険後の緩んだ光景だ。
違う。
一人、足りない。
あいつの足を治す方法は教えてもらった。だけどそれは、世界が戻った時、あいつが人間に戻るってことで……記憶が改ざんされたら、皆あいつと冒険してきたことを忘れてしまう。一人足りない今の状況が全員だと認識してしまう。
七人の冒険が無かった事にされてしまうことに悔しさを感じ、周りが談笑する脇で顔を俯かせて奥歯を噛む。それを悟られないように咀嚼をする。
「レイホ」
正面から名前を呼ばれたので俯いていた顔を上げると、伸ばされた人差し指が額に当たる。
プリムラは何も言わなかった。俺の額に指を当てたまま、薄く笑みを見せ、やがて指を離した。
「今の、何かのおまじない?」
シオンが尋ねると、プリムラは離した指をそのまま自分の口元に当てた。
「ん~……皺除け?」
「ああ、レイホには良さそうだね!」
笑い物にされたことで居心地が悪く感じ、自分の眉間を揉んでプリムラの指の感触を消そうと試みたが、彼女の柔らかな感触はいつまで経っても消えなかった。
体が感じていた重さはいつの間にか消えていた。
これにて七章【奪われた異世界生活】完結です。
ここまで読んでくださった皆様に最上の感謝を。
窮地に陥る冒険を書いたはいいけど、脱し方が他人頼りだったので盛り上がりに欠けた印象ですね。もっと各キャラの“生きてきた経験”みたいなところを活かした見せ場を作れるようになりたいものです。
さて、次章は魔物(魔獣)の存在についての話になる予定です。相変わらず書きたいものは多く、詰め込めるものは有限ですが、どうにか形にしていきたいです。その前に、激遅になっている更新速度を修正しないとですが……。
これからも皆様のお時間が許す限り、お付き合いいただければ幸いです。
長くなりましたが、これにて後書きを以上といたします。
 




