第二百六十四話:怨嗟
形も重量も異なる鎧を身に付けながら、左右にぶれる事なく歩み寄るレヴァナント。右手には無骨な戦斧、左手には飾り気のない細剣を持っているが、構えようとはしない。それどころか、部屋の端に立つソラクロとの距離を半分ほど詰めた所で立ち止まった。
「……来ない?」
ソラクロの肩に隠れつつ様子を伺っていたコデマリが、安堵の息を滲ませながら呟いた。
「恐らく、わたしたちがここから出ようとしない限りは……」
「じゃ、じゃあ、助けが来るまで待つ……ってわけにはいかないわよね。向こうにはオルトロスが向かったんだし、むしろこっちが援護に行かないと」
【妖精の障壁】で身を守りはしたが、悍ましい死霊の集合体から発せられた瘴気は、目にしただけで精神力を大きく削る。
ソラクロは弱腰になったコデマリへ視線を向け、手を伸ばして小さな体を包んだ。
「大丈夫ですよ。倒し方なら知ってますから」
伊達に魔界で番犬をしていたわけではない。現存する魔獣のほぼ全てと戦い、倒し続けてきたからこそ、ソラクロは今もここで息をしているのだ。
既に番犬としての力は失っているが、そのことを言葉にする意味は悪い方向にしかない。故にソラクロは、今有るものに対して言葉を使うことにした。
「棺の中にいる本体を狙います。コデマリさんは後方から能力強化の魔法をお願いします」
「ん……わかったわ」
体温に包まれ、落ち着きを取り戻しつつあるコデマリは、こちらを見つめる顔が愉しげなものであることに気付いた。
「何がおかしいのよ」
「おかしいわけじゃありません。返事の仕方が、アクトさんに似ていたなぁって思っただけです」
「んなっ!」
脳裏に浮かんだ、反りの合わぬ者の顔を突き破るように、コデマリはソラクロの手を振り払って飛翔した。
「変なこと言ってる場合じゃないでしょ! それより、どの能力を強化すればいいの? 全体的に上げることもできるけど、一つに絞った方が上昇量は多いわよ」
いつもの調子に戻ったコデマリを見て「ふふっ」と笑むと同時に、気持ちを切り替える。
「それなら敏捷をお願いします! できれば効果が途切れないようにしてくれると助かります!」
「大魔法使いになるアタシに対して、随分と安い注文ね」
しかし、大魔法使いならばどんな注文であれ完璧に熟してこそ、だ。
「マナよ、彼の者の下に集いて敏捷に活力を与えよ。チア・アジリティ!」
指定した能力値を上昇させる魔法は、火のマナによって効果を強め、ソラクロの体を軽くした。——それでも番犬時代の能力値には少しばかり届かない。
ソラクロはその場で一度、二度と軽く跳んで身体の具合を確かめ、二度目の着地と同時に大きく膝を曲げた。
「行きます!」
陰鬱な地下に疾風を起こし、レヴァナントへと突進する。その速度は正面からであっても十分に武器として機能するものであったが、レヴァナントは更に速く動いた。突進に合わせて踏み込み、戦斧を振り上げる。
自らの速度に慢心した者、相手の力量を見誤った者であれば回避は叶わず、体を両断されていただろう。だが、ソラクロはそのどちらでもない。迎撃を読んで左にステップを踏んだ直後に【エクサラレーション】を発動。敏捷による突進から、技巧による前進に速度を上げてレヴァナントの右肩の裏に潜り込む。
目の前の傀儡を倒したところで本体をどうにかせねば何度も蘇るのだが、敏捷に任せて振り切るには室内は狭い。
「や……」
全力の一撃を叩き込む為の覇気は、発した瞬間に怨嗟に呑み込まれる。そればかりか、ソラクロの背中はレヴァナントの不可解に曲がった右腕によって掴まれていた。
レヴァナントは纏った鎧によって人の形を成しているが、その身を動かす為に必要なのは肉でも骨でもなく、死者の怨念だ。既に死に、腐った骨肉を継ぎ合わせてできた体であれば、肉が切れ、骨が断たれようと構うことではない。
「あっ……!」
背筋を這う怨念によって床に引き倒され、衝撃によって呼吸が乱れる。しかし、咳き込んで呼吸を整える時間は無い。つい今しがた、振り上げられると同時に宙へ放られた戦斧が、回転しながら落ちて来る。
「危ない!」
薄い緑の魔弾——風の【マジックショット】が戦斧を弾き飛ばす。しかし、ソラクロの危機は回避されたとは言い難い。起き上がろうとした所を、今度は頭部を掴まれて押し倒されたのだ。
鈍い衝撃が後頭部に走るが割れてはいない。奥歯を噛んで痛みに耐えながら、押し付けて来るレヴァナントの右腕を軸に体を捻って足払いを仕掛ける。如何に人体の理屈が通じぬ相手でも、体を支える足を払われれば転倒は免れない。
形勢逆転。今度はソラクロがレヴァナントを見下ろす形となる。
今が好機と捉えたソラクロは棺まで一気に駆けようとしたが、またもや背後からの力によって行動を阻害された。うつ伏せに倒れたままのレヴァナントがソラクロの尻尾を掴み、肩の可動域を無視して力任せに引っ張ったのだ。
軽装かつ軽量のソラクロの体は、腕力に成すすべなく浮き上がって後方に飛ばされた。
「ソラクロ!」
妖精のコデマリにソラクロの体を受け止める筋力は無いが、風を起こして衝撃を和らげる技術は有る。
「あぅ……。あ、ありがとうございます」
よろめいて衝突した程度のダメージで済んだソラクロは、羽をはばたかせて近寄って来るコデマリに笑む。
「お礼なんていいの。それより回復するわよ。マナよ、我が下に集いて彼の者の傷を治せ。キュア」
初級の回復魔法であるが、大きな傷を負うには至っていないソラクロの体力を回復十分だった。
棺とその奥の階段から離れたからか、レヴァナントが襲って来る気配はなく、今は弾き飛ばされた戦斧を拾いに行っている。
「で、どうすんのよ、アレ。あんた一人じゃ荷が重そうだし……ねぇ、本体ってのはアタシでも倒せるもんなの?」
「はい。魔法で一撃ですが……」
一人で攻めるよりも二人で攻めた方が有利なことは間違いない。が、ソラクロは憂いを隠し切れなかった。
「何よ。何か気になることでもあるの?」
「危険ですよ。この辺りにいれば狙われることはありませんが、前に出れば狙われ————」
ソラクロが言い切る前にコデマリは動いた。「てい!」という掛け声と共に額へチョップをお見舞いする。
「あうっ」
間の抜けた声を上げる様を見て、コデマリは開きかけた口を閉ざし、再び片手を振り上げた。
「……ていてい!」
「痛っ、痛いです!」
二度、三度と見舞われたチョップに堪らず首を振って抵抗する。
「まさかあんたに馬鹿にされるとは思わなかったから、余計にぶっちゃったじゃない」
ふんっ、と鼻を鳴らし、困り顔のソラクロを一瞥する。どうやらまだ怒られた理由が分かっていないようだ。
「ふっ!」と手を振り上げるコデマリ。
「ひゃっ!」と両手で額を抑えるソラクロ。
しかし、互いの手がそれぞれの意味を果たすことはなかった。
「危険がどうとか、今更すぎるのよ! アタシは空を飛べて、あいつは飛べないのなら、上から棺を狙ってやるわよ!」
「飛べますよ」
「え?」
部屋の中央で仁王立ちするレヴァナントを一瞥する。翼を持たぬ全身鎧の人型。どう見ても飛べるとは思えない。
「天井や壁を這って移動することもしますよ」
「……」
なんとなく悔しくなったコデマリは静かに片手を上げ、ソラクロが身を強張らせるのを面白がる。
「ま、あいつが飛べようと飛べまいと、アタシらのやることは変わらないわ。ソラクロ、あいつの足止めよろしく。アタシが本体を狙うわ」
二人の能力値を考えれば当然の作戦であり、ソラクロも考え付かなかったわけではない。
「はい! 頑張ります!」
ソラクロが自分の口から作戦を告げるのを躊躇い、コデマリの指示に尻尾を振って見せたのはつまり、ソラクロの性分の所為であった。
「マナよ、彼の者の下に集いて敏捷に活力を与えよ。チア・アジリティ」
効果時間の切れた【チア】を再度唱えて敏捷を強化。先ずはソラクロがレヴァナントに接近する。
今度の迎撃は左手の細剣によって行われた。構えの無い体勢から高速の突きは、ともすれば光の筋に見える。だが、その一撃をソラクロの眼は間違いなく捉えており、身体は回避を可能にした。
「やぁっ!」
狙いを外した細剣が引かれるのと同時にレヴァナントの懐に潜り込み、左、右と拳による打撃を加え、迎撃が来るよりも先に身を翻した。けれどそれは後退の為ではない。たなびく尻尾は白く発光している。尻尾を鞭状に薙ぎ払うスキル【トップテール】だ。
高い技巧によって威力が上乗せされた【トップテール】は銅鎧を中程まで拉げさせたが、レヴァナントは意に介せず上を見上げた。天井付近まで飛翔していたコデマリの姿を捉えると、体を震わせ、叫ぶ様に頭部から瘴気を溢れさせた。
「コデマリさん!」
名前を呼んで注意を呼び掛けつつ、自身も跳び退って瘴気から逃れる。
「アタシがそんなのに当たるわけないでしょ!」
意味があるか定かではない挑発をしつつ宙を自由に飛び回り、瘴気から逃れる。
「わたしが棺に行きます!」
レヴァナントは瘴気を噴出させているからだろう、完全に足を止め、ソラクロへの警戒も緩んでいた。その隙を見逃さずコデマリと役目を交代し、レヴァナントを迂回しようと駆け出す。
「ソラクロ、上!」
焦りを含んだ声を受け、慌てて頭上を確認すると、コデマリを追う為に噴出していた筈の瘴気がいつの間にかソラクロの頭上を覆っていた。
広範囲に伸ばされた瘴気は直ぐに落ち、声を上げることすら許さずにソラクロを呑み込んだ。
「ソラクロ……」
魔法で助けられないかと逡巡するが、直ぐに思考を切り替える。レヴァナントの意識がソラクロに向けられた今、棺にある本体を狙う好機であり、本体を倒せばソラクロを瘴気から救える、と。
位置を調整し、上空から棺の中に狙いを定める。
「あ……」
本体を目にしたコデマリは小さな声が漏れ……それだけだった。体内を、頭から指先までを、おびただしい数の怨嗟が蠢いたのだ。男も女も老人も子供も獣も魔物も、声を持つ生物全てが地中で唸っているかの様な響きが体内で湧き起こる。
おぞましい現象に発狂しかけたコデマリだったが、怨嗟から生まれた憎悪の念によって声も意識も貪られた。
意識が混濁したコデマリは地に落ちるのみだった。
瘴気に包まれたソラクロは、全身が不快な熱を持ち、軋み、自由を奪われていた。薄っすらと見える視界から、自分が地面に伏せていること、レヴァナントが近付いて来ることは理解できた。
「はっ……はっ……」
砕けるか潰れそうになる体が新鮮な空気を求めて息を吸い込むが、体内に取り込まれるのは瘴気ばかりである。
息をしてはいけない。そう思って息を止めるが、長くは続かず、僅かでも止めた反動で呼吸はより激しくなる。
強烈な倦怠感と全身が軋む苦痛が同時に襲い掛かり、身動き一つできないでいるソラクロに、別の感触が訪れる。滑りと粘り気を持ち、柔らかさの中に角がある。不気味で不可解な感触。それは二つ、人の手のように動きながらソラクロの露出した脚部をまさぐり、やがて止まると、静かな地下に何かが折れる音が響き渡った。
「いっっっ、ああああああぁぁぁぁぁぁああぁぁぁぁっ!」
膝の骨を折られた激痛に、倦怠感も軋む苦痛も振り切って悲鳴を上げるが、地下深いこの場所では誰の耳にも届かない。唯一の仲間であるコデマリは床に落下した後ぴくりとも動かず、魔獣のレヴァナントは聞く耳を持たない。
レヴァナントは腐り、幾人のものが混ざり合った脳で考えていた。自分に与えられた命令は「姉ちゃんをここから出すな」だ。
姉ちゃんというのが何なのかは分からないが、地上に出ようとするもの全てをここに留めておけばよいだろう。
出すなと言われたが、生死についてはどうとも言われていない。殺してしまえば動けなくなるだろうが、比較的新しい脳が否定する。けれど……けれど、生者を怨まずにはいられない。憎まずにはいられない。嘆かずにはいられない。悲しまずにはいられない。
巡る思考。転がる答え。……面倒だ。正解を求めて悩むなど、正しく生者の所業ではないか。ああ……怨めしい。憎い。嘆かわしい。悲しい。
思考を放棄し、死者の怨念に身を委ねたレヴァナントはいつの間にかソラクロの膝を一つ破壊していた。生者が見たなら脚は嫌悪感を覚える曲がり方をし、レヴァナントの腐肉から飛び出た骨によってあちこち切り傷を負っている。
なぜこんな行動に出たのか、レヴァナントは答えを持たない。探さない。ただ、何かに惹かれるように、まだ壊れておらず、生命力に満ちた肉体へと手を伸ばした。




