第二百四十三話:言葉は空を切り、思いは伝わらず
迸る狂騒が止まぬ惨劇の中を少年が一人。まるで彼だけが別世界にいるかのように、その足取りは軽やかだ。
「聞こえる、聞こえる。命を尊ぶ嘆声が、死を恐れる悲鳴が」
裂かれ、潰され、食われて飛び散る臓腑を浴びようと全く意に介せず、それどころかどこか恍惚の表情を浮かべる少年。その肩を強く掴み、路地に引き込む者がいた。
「おい君、一人でふらふらしているんじゃない! こっちに来るんだ!」
使い古された、けれど手入れの行き届いた装備の冒険者は、四つの星が付いた銅板を首から下げていた。彼の手は少年を助けるべく動いたのだ。少年の肩を引っ張りながら、口早に路地裏の建物が緊急の避難所となっていることを告げる。
「こんな時に見ず知らずのボクに手を差し伸べてくれるなんて……ありがとうございます」
冒険者の行動に感動して涙ぐんだのも、述べた感謝の言葉も、間違いなく本心によるものだった。
「礼なんていい。助けられる奴を助けるだけで精一杯なんだからな。さ、そこの扉だ、さっさと入んな」
肩から背中に移された手に押され、少年はつんのめりながら扉の前に立つと、両手を祈るように組んで冒険者の方へ向き直る。冒険者は既に背を向けて路地裏から出ようと歩を進めているところだ。
「あぁ……本当に、この世界の人々は素晴らしい」
組んだ両手に額を当て、愛しみの言葉を漏らした。すると、冒険者の絶叫と共に肉を貪る音が返って来る。文字通り力の限りの叫び声を上げる冒険者であったが、救いの手は差し伸べられず、やがて声は尽きていき肉塊の立てる音のみが残った。
「怖かったろう、恐ろしかったろう。けどもう大丈夫。君は生者にとって最大の恐怖を乗り越えたんだ。これから先は何者にも脅かされることのない、喜劇の一員だ」
冒険者を背中から貪った二体のグールを呼び寄せ、さらに複数のグールを召喚すると、少年は静かに路地裏の壁へ凭れ掛かり、眼を閉じる。これから奏でられる阿鼻叫喚を鑑賞するために。
少女は自室のベッドの端で、片手で扱うには長い剣を抱えて座っていた。窓の外からひっきりなしに狂騒が飛び込んで来ようと、部屋の外から助けを求めるが聞こえて来ようと、少女は虚空を見つめたまま微動だにしなかった。
グールの襲撃による恐怖で精神が死んでしまった訳ではない。少女が無気力な状態に陥ったのは、昨日、幼馴染の形見を持ち帰ってからずっとだ。
家だけでなく産まれた日まで近く、物心付く前からずっと一緒だった彼。喜びも怒りも悲しみも楽しみも共有してきた彼。
少女の心は体の成長と共に変化が現れたものの、幼馴染としての居心地に慣れ、自らその場所を壊す一歩が出せないでいた。その結果、踏み出す先を失ってしまった。知らぬ間に奪われてしまった。
いつかこんな時が来るのではないかという不安はあった。彼に注意をしたのは一度や二度ではないが、毎度鬱陶しそうな態度を取られるだけだった。「けれど」と、「あの時」と後悔したのは数えきれない。彼が今こうして目の前に現れ、手を伸ばしてくれていたら…………。
「えっ!?」
ひどく驚いて上げた筈の声は、掠れた吐息にしかならなかった。けれどそれを問題として取り上げられるほど少女に余裕は無く、目の前に立つ彼をどう受け止めるかだけに全能力を集中させた。
「なにぼーっとしてんだよ。俺の剣、寄越せよ」
人の気も知らない、無遠慮な口調。心配を掛けた相手に対する第一声がそれでは、多少なりとも反感を抱かれても文句は言えない。が、少女は気にした様子を一切見せず、ただ双眸から涙を溢れさせた。
彼が帰って来た。生きていた。
「うっ……ぐしっ……うあぁぁぁぁぁ!」
感情の昂りを抑えられず、小さな子供のように泣き喚きながら彼へと抱き付く。
二日以上冒険に出ていたにしては、剣を失い等級証も落としたにしては無事な姿であったが、少女にとっては些末な事だ。口元と指先に濡れた赤が付着していることも、些細な事だった。再会を喜ぶこと意外、どうでもいい事だった。
「その娘から離れろ!」
二人の間に割り込む声音、そして銀の軌跡。
少年は少女を突き飛ばし、反動で剣撃を避けると同時に愛剣をひったくる。
「誰だ?」
追撃が無いことを確認してから、片手で扱うには長い剣を鞘から引き抜き、両手で構えて見せる。
乱入者は防具を着けていない私服姿で、特徴の無い安っぽい片手剣を向けているが、その姿からは慣れが垣間見える。くすんだ橙色の短髪は戦場を駆けたことで乱れているが、そんなことは意に介せず、淀みない黄色を宿した眼を強く吊り上げている。
「知りたいなら教えてやる! オレの名前はエイレス・クォールビット! 魔力は無く、剣の腕も未熟な若輩者だが、お節介精神だけは一人前の、お前を止めに来た男だ!」
立てた親指で自身を指差しながら名乗り上げるエイレスに、少年は眉をひそめて「止めに来た?」と返す。
「そうとも! その娘はお前の幼馴染なんだろ! 大切な人なんだろ! だったら、そっちに連れていっちゃいけない!」
「チッ、どうするかは俺とこいつで決めることだ。部外者が口出しすんな!」
言い切ると同時、両手を振り被ってエイレスへ斬り掛かる。が、銅等級になったばかりの少年の一撃が、銅等級星四にもなった者に正面から通用する筈もなく、容易く躱される。
回避に余裕があったということは、それだけ反撃に割ける時間が多いことでもある。エイレスは片手剣を手の中で回し、柄頭で少年の脇腹を殴打した。
「うっ!」
痛がる必要も、苦しむ必要もない体であるが、まだ慣れていない少年は反射的に脇腹を抑えてよろめいた。
「人としての痛みが分かる内に、ここから離れろ! お前がやろうとしていることはもっと痛いことで、一生……いや、永遠に消えないことなんだぞ!」
「うるせぇ!」
脇腹を押さえつつ、片手に持ち替えた剣で回転斬りを放つ。
剣の重量と遠心力に引っ張られ、体勢を崩した少年の攻撃はエイレスに届かず、暴れる剣先に脅えた少女がベッドの上から転がり落ちる。
「お前なんかに言われなくたって分かってる! けど、もう戻れないなら……死んだ後でも先があるっていうなら、進むしかないだろ!」
「その道に、生きている人間を巻き込むな!」
壁を削り、床を傷付けるのも厭わず振るわれる少年の剣を、エイレスは受け流し続ける。時折、刃が服や肌を掠めて行くが、そんなことで怯む筈がない。
「死んだら先なんてない! あいつにいいように操られるだけだ! まだ人としての心が残ってるなら、その娘を大切に思えるなら、思い止まれ!」
「うっあぁぁぁぁ!」
両手に持ち替えての斬り下ろし。ここまでまともに攻撃を当てられなかった相手に、力に任せた大振りが当たるものか。簡単に躱され、振り下ろした手を鋭く蹴り上げられると、少年は剣を手放した。
「ちくしょうっ!」
空になった諸手でエイレスに掴み掛かる。
「もう遅いんだよ! じいさんも、おばさんも、おじさんも俺が殺した! 他の奴に殺らせるくらいならって……俺がっ!」
少年は三人にそうしたように大口を開け、エイレスの首筋を狙う。しかし、押し倒された訳でも、剣を手放した訳でもないエイレスは十分に反撃の時間があった。
「馬鹿野郎がっ……」
少年の胸に深々と突き刺さる片手剣。死者になって間もない少年にその一撃は重く、死ぬ事がないにも関わらず少年は活動を停止した。
「……やっぱり、オレなんかの言葉じゃ止められない。元凶を……あいつを倒さなきゃ!」
崩れ落ちる少年を見送り、エイレスが生存者である少女を避難させようと視線を動かした時だった。室内に炸裂音が響き、エイレスは腹部に鋭い衝撃を受ける。遅れてやって来たのは火薬の臭いと、腹部から燃えるような液体が流れ出る感覚だった。
エイレスは腹部に当てた手の平に視線を落とし、赤く染めている液体が少年の物ではなく自分自身の物であることを確認する。
「あぁ……そりゃあ、こうなるよな……」
誰が何をして、どうして自分の体から力が抜けて行くのか、エイレスには全て理解できた。
体を支え切れなくなった膝が崩れ、少年の横に倒れる。
「幼馴染が目の前で刺されたら……誰だって、怒るよな」
脳裏に浮かぶのは故郷に残して来た少女の姿。魔力無しであるエイレスにも分け隔てなく接してくれた優しい幼馴染の姿だ。
あいつ、今どうしてんだろうな……。
送り出した幼馴染の帰りを待ち続けているという答えには辿り着かない。
オレに構ってばっかの所為で、貧乏くじ引いてることに気付かない馬鹿だけど……。
気付いていないのはエイレスの方である。彼女としては貧乏くじを引かされていると感じていない。
オレが疎まれ、蔑まれることの多かった人生で、腐らずにいられたのは間違いなくあいつのお陰だ。
このことを口にして伝えた事は無い。感謝の気持ちを伝えるのは、彼女の優しさに見合う強さを手に入れてからでないといけない。故郷に帰るのは、彼女に引かせてしまった不利益を払拭できるような名声を手にしてからだ。
止まらない流血と、薄れ行く意識の中で過去と誓いを思い出すエイレス。そして、この場にはもう一人、幼馴染へと思いを馳せる者がいる。
「はっ……はは……。もう、意味が分かんない……分かんないよ」
細い硝煙を吐き出す拳銃を握った両手は固まったまま震えている。
「分かんないけど……私も死ねばいいんだよね? そうすれば一緒になれるんだよね?」
混乱と恐怖と悲嘆が入り混じり、少女の顔は引きつった状態で涙だけが潤滑に流れる。
そして、少女は固まった両手を解き、銃口を自身の頭部に向けた。誰でも扱え、命を奪う事に関してこれほど簡単な物はない武器を。




