第二百三十六話:暗き穴の果てで
四角に模られた白亜の通路を、角灯から漏れ出させた灯りを頼りに進んで行く。
道幅は二人並んでも余裕を持って歩けるくらいの広さがあるので、隊伍は二例に変更した。パーティの編成によっては後ろから敵襲を受けた際、直ぐに加勢できるように道幅を確保しておく必要がある。その点、このパーティは前衛が多いので前後どちらから敵襲を受けてもそのまま対応可能だ。ソラクロとシオンが長物を使用しないというのも都合が良い。
地下特有のカビの臭いと冷えた空気を受けながら、先へ、先へ。所々に照明と思しき角灯を見かけるが、どれも灯りは点いておらず、留め具が外れて地面で割れている物も少なく無かった。
この通路は一体何なのだろう。
誰しもが抱く疑問であるが、しかし誰も言葉にしようとはしなかった。息を潜め、靴底が石床を擦らぬよう注意を払っている。
分かれ道の無い通路を順調に進んで行くと、次第に鼻腔が嫌悪感を覚える。鉄臭い血の臭いと、腐った肉の臭い。迷い込んだか、ゴブリンに捕らえられた動物の死骸でも落ちているのだろうか。
奥に進む度に増す臭いは確かに不快だったが、ゴブリンの襲撃に意識が向いているお陰か、嗅覚が感じている程の不快さは心身へ表れなかった。
そうして進んで行くと、ふと目の前の犬耳が跳ね、手を広げて進行を止めた。
「人が……」
そう言って首を振り向かせたソラクロは悲痛な面持ちであり、次の言葉を待たずとも通路の先の状況は予想出来た。
「……回収しよう」
生きていれば連れ帰る。死んでいれば等級証か遺品を持ち帰る。冒険に来る前から決まっていた事だ。だと言うのに、ソラクロは血の気の引いた顔で俺を見つめたまま前進しない。
「何かあるのか?」
「あの……苦手な人は、ここで待っていた方がいいと思います。……酷い、ですから」
優しさや気遣いというより警告に近い言葉だということは、ソラクロの様子を見れば明らかであった。だから俺は振り返り、アクトとシオンに目配せする。返って来たのは首肯だった。
「エイレスは?」
肩を叩いて尋ねると、ぎこちない動作で振り向き、これまたぎこちない表情を浮かべる。
「だ、大丈夫ッスよ。オレはパーティを守る盾ッスから! それに……ちゃんと、還してあげたいッス」
あまり大丈夫そうには見えないが、本人の意思を聞いておきながらこちらの意見を押し付けるのは筋違いだ。エイレスの肩から手を離し、自分の右肩を見る。
「平気よ」
尋ねる間も無く、素っ気ない答えが返って来た。妖精も人より夜目が利くから、もしかしたらもう見えているのかもしれない。
隊列はそのままに、通路を進む。広がる闇の壁を、歩幅の分だけ角灯の灯りが開けて行く。
白亜の床が赤で濡れ始める。
死臭が場を支配する。
激しい動悸を感じる。
「うっ」えずいたのはエイレスか。
そこには幾多の死が無造作に転がっていた。幼子の遊び場のように、分別なく放り込まれただけの屑籠の様に、冒険者の死が広がっていた
頭が潰された死体。胸に穴が開いた死体。背中だけを斬り刻まれた死体。四肢だけを叩き潰された死体。骨以外の中身を失った死体。腐って原型を留めていない死体。
他にもまだあるが、一つとして安らかなものは無かった。
体内に取り込んだ死臭が猛毒のように暴れ回り、胃液が逆流する。奥歯を噛み締めて堪え、口から静かに息を吐き、喉奥に残る不快感が溢れ出ない事を確かめてから言葉を作る。
「等級証だ」
たった一言。それ以上は言葉が出なかった。
凄惨な光景に誰も彼もが口を閉ざし、けれどやるべきことに着手しようと動き出す。
「後ろです!」
エイレスの介抱をしていたソラクロが跳ね上がると同時。細い風切音が俺たちへと接近し、停止した。
「うっ、あ……」
苦悶の声の主はシオンだった。体ごと角灯を向けると同時に雑嚢へ手を突っ込む。
火の光に照らされたシオンの腰部からは一本の細い棒が……矢が生えていた。嫌でも思い返される毒矢の記憶。雑嚢から二本の瓶を取り出しつつ、よろめくシオンの体を受け止める。
「コデマリ、灯り!」
言うが早いか、アクトは角灯の灯りを抜けて暗闇へと走り出す。
「あっ! こら、待ちなさい!」
肩から飛び立つコデマリを見送る暇は無い。
シオンを背後から襲った矢は貫通し、腹部から鏃が突き出ている。鉄の鏃に付着した、血とは別の黒い液体には見覚えがある。対象を内側から腐敗させる猛毒系の毒だ。
直ぐに治療を行いたいが、壁を使って座らせるにしても、床へ寝かせるにしても、矢を抜いてからでないと傷口が広がってしまう。しかし、体に力の入らないシオンを抱えたままでは矢を取り除くことは困難だ。人手が要る。
「ソラクロ!」
「アクトさん、駄目です! 挟まれます!」
俺がソラクロを呼ぶのと、ソラクロがアクトの背に向かって口を開くのは同時だった。そして、ソラクロ声に呼応して響くゴブリンの鳴き声には嘲りが混じっており、それは時間を置かずに増大していく。
通路の奥には光源——コデマリの魔力によるもの——が周囲を照らしているが、見えるのはゴブリンの緑色の体表だけだ。十か、それ以上。
「オレが行くッス! 二人は姉さんを!」
兜の目庇ではっきりと顔は見えなかったが、本調子からは程遠いだろう。けれど、休ませておける状況ではない。動ける者には動いてもらわねば、動けぬ者が増えるだけだ。
「ソラクロは体を押さえててくれ」
「はい!」
座らせ、支えていた背をソラクロに託し、薬品を床に置く。そのあと雑嚢から手拭を、鞘から短剣を取り出す。
「矢を抜く。噛んでいてくれ」
口元へ手拭を差し出すが、シオンは体を上手く動かせずに唇を震わせるだけだ。このまま強行して、舌でも噛まれたら一大事だ。
「手荒にするぞ」
断りを入れてから上を向かせ、開いた口に手拭を突っ込む。
別の手拭を取り出して鏃を押さえると耳元で呻き声が聞こえたが、一々気にしていられない。腹部から突き出た矢柄に短剣を叩き込んでへし折り、鏃を取り外す。
「ンンンンッ……!」
短剣を叩き込んだ衝撃で悶絶するシオンの体を、ソラクロが力の限り抱き留める。
他人が悶える様を何度も鑑賞する趣味は無いし、一刻も早く治療せねばならない。取り外した鏃を投げ捨て、シオンの背後に回り、一気に矢柄を引き抜く。
「ンンッ! ンンンーーッ!!」
悲鳴と共に傷口に溜まっていた血が吹き出、俺やソラクロを赤く染める。
溜まっていた血が抜けた後、血で滑る手を自分の背中で拭き、回復薬の栓を開けて傷口に塗布する。その際、シオンは三度目の大きな呻き声を上げたが、瓶の中身が空になる頃には短く浅い呼吸をして全身を弛緩させた。しかし、この弛緩は治療の終わりではない。急いで解毒を行わねば体内が傷んでしまう。
無理矢理に噛ませた手拭を抜き取り、代わりに猛毒薬用解毒薬を服用させる。
「すんません! 抜かれたッス!」
治療が終われば事態は終息、なんて都合良くはならない。今は戦闘中だ。
エイレスの声に反応して顔を上げると、短剣を振り回してこちらに向かって来るゴブリンがいた。
ゴブリン一体ならどうとでもなる。俺は迷わず腰の鞘から両刃片手剣を抜剣した。
「グギャ、グギャアァァ!」
何かを叫び散らしながら躍りかかって来るゴブリン。しかし、こちらは体躯も得物の長さも優っている。この世界に来たばかりの貧弱な俺ならいざ知らず、今は剣の重量に振り回される事はない。ゴブリンの突進に合わせて踏み込み、迷い無く振り払う。
「ギャ……グ……」
胴体は刃の軌道を辿って深く斬り裂かれ、噴出する血液の勢いとは対照的にゴブリンは力無く倒れた。
両刃片手剣に付着した血糊を振り払い、戦闘の状況を確認すると、十以上……いや、二十近いゴブリンの群れはほとんど倒れ、残りが掃討されるのも時間の問題だった。




