第百八十八話:乗り越えた日
そこは太陽の無い世界だった。だからと言って夜がある訳でも無く、果てまで伸びた闇から、控え目に通って来た光が地表をうっすらと照らしていた。
細やかな作業をしなければ、もしくは物陰でなければ、不便には感じるが生活は可能な世界のとある村で、大股で歩く一人の男が見えていた筈の通行人と衝突して舌を打った。通行人は微かに後ろを向いて頭を下げただけであったが、男は酷い剣幕で口から歯軋りを鳴らすだけで通行人を見送った。掴み掛かったところで、ここの住民は脅えも、反抗も、謝罪もせず、人形のようにただ一点を見つめ返して来るだけだということは既に何度も体験済みだからである。それでも……いや、こんな状況だからこそ、男の血流は激しく頭に上り、よく肥えた腹を揺らし、寂しくなった毛髪を乱しながら踵で地面を蹴った。
「くそっ! なんだこのシケた場所は? ええい、それより……それよりもだ!」
男はこの村に来る前の事を思い出す。自分の首が交差した刃に斬り裂かれ、噴出していく血と共に意識を失って行く時のことを。
「なぜ、なぜこの俺様が殺されなきゃならんのだ! 二度も! 俺様はあの訳の分からない世界で平民を従える力を与えられた。だから役目を全うし、その上で元の世界に帰ろうとした。なのに、なぜあんな小娘に逆らわれ、殺されねばならん!」
往来のど真ん中で声を荒げ、地団駄を踏む者がいても住民は興味を示さない。流れるように、漂うように歩くだけだったが、ふとした瞬間に住民は音も無く消え、代わりに黒い影が男の前に降り立った。
「操野 干城だな」
低く、地を鳴らす声に名前を呼ばれ、タテキは睨み上げ……そこでぎょっとした。
目の前に立っていたのは人型の骸骨だった。しかし、こめかみから生えた一対の渦巻いた角が、その者を人とは異なる存在であることを知らしめていた。骸骨はタテキよりも頭一つ高い位置から、眼窩の奥で光る赤を向けていた。
「な、なんだ、お前……骸骨が俺様に何の用だ?」
タテキはたじろぎ、一歩後退ろうとして、足が動かないことに気付いた。
「我が名はハデス。この魔界を統べる王だ」
思考も感情も整理が追い付かないタテキであったが、魔界という単語を聞いた途端、全ての謎が解けたように脳内は鮮明になった。
「魔界ってことは、黄金のリンゴがあるんだろ!? 寄越せ! 俺様に! 俺様は金も能力も持った、選ばれた人間なんだ。殺されて人生を終えていい筈がない!」
動かせぬ体の代わりに言葉で詰め寄るが、見下ろす赤の光は微塵も揺れない。
「あの小娘のことは許せんが、元の世界に……日本に帰れるのならこの際どうだっていい! 早く、早くリンゴを寄越せ!」
ハデスは時が止まったかのように動かない。静かに、しかし威圧だけは残してタテキを見下ろすだけだ。
「俺様が融資した事業や学校からどれだけ有能な人材が輩出されたと思っている!? 財力と知性を兼ね揃えた俺様がいなければ日本の先進は滞ってしまうというのに……あの落ちこぼれの若造が……法で裁かれるなど生温い! 待っていろ、俺様が戻ったら死よりも重い責苦を味わわせてやる!」
自分の身の上と、それに対する決意を口に出して感情を昂らせる様を見て、これまで反応を示さなかったハデスは重々しく口を開いた。
「死よりも重い責苦か……。よかろう」
肯定的な言葉にタテキの脳と心は希望に満ちたが、ハデスに落ちている……否、ハデスから落とされた闇は、それらを嘲笑っていた。そしてハデスは骨手を大きく開いてタテキの顔を覆った。
「我が導に指されしは人、挑みしは修羅。汝、本能の焔に焼かれ、無色の聖の呼び掛けに誘われようとも、六の道においては導に従い、魔の境界の中に再臨せよ。カルマ・ラーバリィ」
「な、何しやがった!?」
「餞別だ。死よりも重い責苦というのを、その身を以って学んで来るがいい」
憤るタテキの声を、骨手を鳴らして掻き消す。すると、タテキが立っていた地面が黒い靄へと変化して行く。
「う、うぉっ!? うおぉぉぉぉぉ…………」
野太い悲鳴を上げて黒い靄の穴に落ちて行くタテキを、ハデスは登場した時から変わらない赤の光で見下ろし、「人の魂のまま帰還を果たしたなら、その時はリンゴを馳走してやろう」という言葉を投げ入れた。
黒い靄は、再度鳴らされた骨手の音と共に消え去った。
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首都全域に降り注いだ八色の雨により魔獣が一掃され、オーバーフローは終息した。魔法学校は壊滅的被害を被ったが、首都の市街部は、襲撃して来た魔獣の数と比較すれば損壊は少なかった。ただ、死傷者の数は酷いもので、死者は千人を超え、負傷者は重傷者で約三千人、軽傷者も含めると数え切るのは困難だ。ただ、この負傷者というのは外傷者であり、精神的に傷を負った者を含めれば数は更に増える。尤も、オーバーフローを体験して精神的に無傷で済む者が居よう筈もないが……。
しかし、いくら自分たち築き上げて来た栄華を血と涙で濡らすことになろうと、人は自らの鼓動が続く限り終わることはできない。荒涼とした街に漂っていた呻き声と啜り泣きは、次第に瓦礫を転がす音に変わり、瓦礫を転がす音は奮起の声に変わって行く。
街のあちこちで復興作業の快音が飛び交うが、それを掻き消すような喧しい声や足音によって俺の意識は引き上げられた。
「…………」
見覚えの無い天井を視界に移してボーッとしていると、凄腕の細工師が手掛けた美しい人形の顔が視界を塞いで来た。
「レイホ?」
人形は小さな口で俺の名を呼び、丸い碧眼いっぱいに凡人の顔を吸い込んだ。
…………近い。死ぬ。
「近い」
寝起きの俺に我慢比べをする気力は無いので素直に口に出すと、人形もといプリムラは顔を上げた。彼女を追い掛けるように起き上がろうとするが、全身に走った痛みに悶絶してしまう。
「動いちゃ、ダメ」
「あ……うん」
手を借りて上半身だけでも起こしたかったが、触られたら爆発して死んでしまいそうなので大人しく天井を見上げ……また顔を覗き込んで来たので流れるように視線を逸らす。背中から感じる固い感触と、視線を逸らしたら直ぐ近くに床と壁が見えたので、どうやら俺はどこかの……多分、治療院かそれと同義の建物の隅で床に寝かされているようだ。
意識がはっきりして来ると記憶も自然と蘇るもので、オーバーフロー中の自分の行動を思い出す。感想を言うなら「よく生きてたな」だが、自分の事は後回しにして状況を聞いてみよう。
「プリムラ、今日は何日だ?」
「無月、二十四日。五日も寝てた」
五日か……、魔界で九日寝て、数日動いてまた五日寝るって、俺の体大丈夫か? 大丈夫じゃないから起き上がれないんだけど。
「そっちは怪我してないか?」
「掠り傷だけ」
「そうか……」
「よかった」とは続けられなかった。俺が出しゃばらなければ負う事の無かった傷だ。かといって謝るのも違うと思った。ここで謝ったら、暗に自分の選択が間違いではなかったことを認めてほしい、慰めてほしいと言っているようなものだ。寝起きであっても、そんなクソッタレに成り下がる気は無い。
「ねぇ」
「ん……ぅっ!」
呼ばれたので振り返ろうとしたが、それよりも早く、プリムラは俺に覆い被さるようにして顔を覗き込んで来た。
驚いて腹に力が入ってしまい激痛に見舞われるが、身悶えした拍子にプリムラと接触することだけは避けねばならない。根性だ、根性で痛みを押さえ込め。
「どうしてそっち向いてるの?」
それはね、貴女と顔を合わせると、眩しくて恥ずかしくて申し訳なくていやもう同じ人間でごめんなさい文字通り住む世界が違いました。って気持ちになるからだよ。
「……寝疲れたから、少しでも体勢を変えたかったんだ」
苦しいか?
しかし、プリムラは「そう」と言って、あっさりと引き下がった。と思ったら、「少しだけ、我慢して」と言い、これまでよりも近くに寄って足を崩し……俺の頭を持って……
「ふっ!」
気合いと反射を融合させて上半身を起こし、プリムラの手から逃れる。
危ない。あのまま好き勝手されたら……とにかく危ないところだった。危機を回避できたのなら、この体を裂くような痛みも快感に…………裂く……ような?
脇腹の辺りから濡れるような、染み出すような感覚があったので患者服をはだけさせてみると…………裂けてました。開いてました。腹。
寝起きで激しく動いたことと、出血したショックで俺は力無く倒れ伏し、間も無く聞こえて来た慌ただしい足音を耳にしながら意識を手放した。
二度目の覚醒にそう時間は掛からなかった。恐らく一時間弱くらいだろう。治療院の先生に厳しく叱られたが、反論する余地は無い。ただひたすら反省するのみだった。だが、一つ気になったことがある。どうも怪我の治療に回復魔法が使われた形跡が薄く、大半は医術的な処置を施されている。これは俺だけでなく、治療院で見掛けた患者は皆、包帯やら絆創膏やら湿布やらで体のどこかしらを覆っていた。
叱られた後、先生に軽い気持ちで理由を聞いてみる。そして、「回復魔法の使い手が足りていないのだろう」程度に考えていた俺の能天気な頭は強い衝撃を受けた。
理由は、現在空気中のマナ濃度が薄くなっていることにあった。オーバーフロー終了直後は特に変化はなかったそうなのだが、どうも新しく放出されるマナが極端に減っているらしい。原因はもしかしなくともオーバーフローなのだが、これまで事例の無いことなので、首都のお偉方は慌てて魔法の使用を極力控えるよう呼びかけた。極力、というのを詳細に話すと、人命に関わるような、急を要する回復魔法の使用のみが許可されている。
「とんでもないことになったな」
杖を突いて大部屋の病室に戻り、宛がわれた布団の上に戻って来る。プリムラの「肩、使って」という申し出を断固として遠慮したからか、少しむくれている?
やべぇ、どうしよう。と焦っていると、布団の上に見慣れた上着が落ちている事に気付き、座りながら拾い上げる。
「……縫ってくれたのか?」
戦いでボロ切れになった俺の上着だったが、今は並々ならぬ努力の成果で“着れないことはない服”程度に復活を遂げていた。
俺の問いにプリムラはコクリと頷いてから傍に座り、俺から上着を引き取った。
「あの子も、直そうとした」
あの子? ……番犬、だよな。
「でも、手を血だらけにして、怒られた。……さっきの、レイホみたいに」
悲しいかな、「痛いです~」と言っている姿が容易に想像できてしまう。
「そういえば……番犬はどこに?」
なにが「そういえば」か、白々しい。番犬の安否を気にしない筈がない。ただ、起きて目の前にいた人のことを差しおいて別の人の安否を尋ねるのは……きっと、相手からしたら面白くないだろうから後回しにしていた。
「復興作業の手伝い。夕方になれば戻って来る」
「そうか」
分かっていたことだが、こうして言葉で確認したことで、俺の体は不自然なくらい力が抜けて行った。
「ありがとう」
体を壁に預け、プリムラへ顔を向けると、自然とその言葉が漏れた。
大きな怪我なくオーバーフローを乗り越えてくれたこと。服を修繕してくれたこと。気絶している間、傍にいてくれたこと。それらをまとめて一言で済ますのは、流石に言葉が高すぎるか。……ちゃんと、連れてってやらないとな。プリムラが幸せに暮らせる場所に。
「……こちらこそ」
少し、ほんの少しだけ口角を上げ、上着を抱き締める様は、見てはいけないものを見ているようだったので、自然と目蓋を閉ざした。
「こちらこそ」と返される心当たりは無いが……細かいことは気にしないでおいた。
次回投稿予定は6月5日0時です。




