第百六十六話:分岐
空も地面も無い空間をひた走る。足を動かす感覚も疲労も無く、通り過ぎる景色も無いので本当に走れているのか定かではない。
チラリと背後を確認すると、走らなければいけない原因となった異形の怪物は迫りも遠ざかりもせず、暗闇の中で触手を漂わせている。一度は首筋まで迫って来た魔獣たちも、今は俺に見向きもせずに“何者か”と死闘を繰り広げている。
獣の如き咆哮を上げて現れた“何者か”は、装備していた自身の身の丈以上もある太刀で、俺を追っていた魔獣を両断すると、そのまま魔獣の群れと戦いを始めた。フルプレートアーマーを着込んでおり、人語を発することはなかったが、形体から人と判断できはする……のだが、デーモンやらドラゴンやらを一人で斬り伏せ、叩き潰し、引き千切っている様を見ると人なのか非常に怪しく感じる。出会った時も、俺を助けに来たというより“魔獣を倒しに来たら偶然追い駆けられている人間が居た”と表現した方が構図の説明としては正しい。
あの甲冑がここに居る理由はどうでもいいとして、戦場から離れるように走り続ける。走り続けて何があるか分からないけど。
付近に魔獣の姿が見えないことで油断していた俺の視界が、急速に揺れ動いた気がした。
な、なんだ!? 転んだ?
体の感覚が無いので自分が今どうなっているのか分からない。後ろを向いて見るが、魔獣の姿も甲冑の姿は見えない。その代わり、血色がすこぶる悪い人……ではない。体全体を見れば人型と捉えられるが、各部位の大きさだとかバランスは人とは違い、髪の毛の無い醜悪な顔には血走ったような赤い双眸が付いている。
魔獣化したゴブリンだ。それも……四体。俺の四方を囲んで見下ろしている。
状況から考えて、俺は何かによって転ばされ、起き上がろうとした所でゴブリンに囲まれたのだろう。あの甲冑は魔獣相手に無双しているようだが、全ての魔獣を漏らさず倒すには手が足りないのだろう。
嗜虐的な笑みを浮かべたゴブリンたちは、一斉にそれぞれの得物を振り上げ、俺へと振り下ろす。
棍棒、剣、斧、メイス。物や当たり方によっては一撃で致命傷となる筈なのに、俺は袋叩きにされても痛みを感じず、意識が途切れることもなかった。
なんだ……これ?
反射的に上げていた腕を下ろし、ゴブリンへ視線を向けると重厚な刃が眼前に振り下ろされ、通過していった。
俺に当たっていない? 当たっているけど、感覚が無いから当たっていないと錯覚している? もしそうだとしたら、俺の体は既に目も当てられない肉塊に変わっていることだろう。
俺の体がどうなっているか気になるが、四方から武器を振り下ろされ続けていては落ち着きようがない。ボコボコにされながらも体を立ち上げるイメージに集中すると、これまで見上げていたゴブリンの顔が少し下に来る。
攻撃を無視して立ち上がったのが気に障ったのか、ゴブリンたちは「グギャァァ!」といきり立ち、攻撃は苛烈なものとなったが、相変わらず当たっている様子はない。
ゴブリンを無視して逃げても良かったが、試しに一体の首に手を伸ばしてみる。生前の体の感覚を思い出しながら、首を掴んで締め上げると、ゴブリンは攻撃を止めて苦しみながら抵抗しだす。
こっちからは触れる。もしくは、やっぱり俺にも攻撃は当たっているけどその感覚が無いだけで、あちこち無惨なことになっている?
考えている時間はそれほど長くなかった筈だが、締め上げていたゴブリンは抵抗を止め、力無く四肢を垂らしていた。
殺した? こんな簡単に? 嘘だろ?
ゴブリンから手を離すと、やはり体は脱力し切ったままで、力無く倒れて闇に飲まれていった。仲間が殺されたことで残りのゴブリンは怒りを表すが、感情の昂りだけではどうしようもないらしく、三つの武器は闇の中を横切るだけだった。
正面に居たゴブリンを蹴り付けると、体があり得ない方向に捩じれながら闇の彼方へと飛んで行く。後ろに居るゴブリンを叩き付けるように殴ると、高所から落下して来たのではないかと思う勢いで頭から倒れて闇に溶けた。
……なんだかよく分からんが、めちゃくちゃ強くなってるな。
努力が実った訳でもない、突然湧いて出た力。しかも死んだ後に得た力に感動する気も驕る気もない。
最後のゴブリンを拾った剣で斬ろうと振り上げた時だった。またもや視界が揺れ動く。
なんなんだこれ?
今度は暗闇だけでなくゴブリンが居る。視界がどう動いたのか判断する為にもゴブリンを見失う訳にはいかない。
視線を動かすがゴブリンの姿は見当たらない。その代わりに、突き出た口で並んでいる凶悪な牙と長い舌が近付いて来ていた。
避けろ!
動こうとするが視界は動かない。腕を伸ばして抵抗しようとするが、迫り来る牙は止まらずに俺の右腕を肩から食い破った。
…………違うっ!!
「ゲェッゲェッ」と嘲笑う黒い体表の魔獣——ジャバウォックは間違いなく俺の右腕に牙を突き立てた。けれど、そこに食い破るべき肉も、断つべき骨も、今の俺にありはしない。
視線を落とすと、直ぐ近くにジャバウォックの前足が見える。正面を見た時、自然とジャバウォックを見上げることから、俺は押さえ付けられていると考えるべきだ。
圧し潰される苦しさも、右腕の痛みも無いが、身動きしてもジャバウォックの前足はびくともしない。
ゴブリンはあんなに圧倒できたのに、どうなってんだ!?
嘲笑に飽きたのか、ぴたりと鳴き止んだジャバウォックは俺を掴み上げて闇へと叩き付け始める。
痛みは感じなくても、視覚情報と生前の記憶から勝手に体が強張る。ジャバウォックはそれを楽しんでいるのか、高らかに笑いながら好き勝手に振り回した挙げ句、俺を放り投げ……別のジャバウォックがキャッチした。
個体は代わっても鳴き声は一緒で「ゲェッゲェッ」鳴きながら、今度は舌で全身を舐め回した後に俺の左腕を食い破った。
食われてない、食われてない、食われてない、食われてない、食われてない……!
抗って何になるのかは分からないが、自由にできる意思を手放してはいけないと直感的に理解している。だから、両腕が失くなろうと、足から食われようと絶望はしない。どうせもう死んでいるんだ。絶たれる望みも、失うものも何一つない。……元から失うものなんてそんなに持ってないけどな。
下半身がジャバウォックの口に納まったところで開き直り、全身に力を込める。両脚を、両腕を上下に開いてジャバウォックの口を開けるイメージを浮かべると、「ゲェッ!?」という驚愕と共に口が開く。
解放された俺はジャバウォックの口から出ようとしたが、出たとこでまた追い回されては面倒だと思い、牙をへし折る。
「ゲェェェェ……!」
暴れ出そうが構わない。へし折った牙を握り締め、舌ごと下顎を貫く。
激しく首を振って俺を落とそうとするが、肉体の無い俺には意味がない。
そうだ。肉体に囚われるな。記憶に惑わされるな。意思しかないなら、俺の全ては俺の思い通りにできる。
並ぶ牙ごと上下の顎を掴み、強制的に広げさせる。苦しそうに藻掻くジャバウォックを、別の個体は嘲罵するばかりで助けには来ない。
俺の両腕はジャバウォックの顎を徐々に広げていくが、敵も必死の抵抗を続けるので中々にしぶとい。不快な笑い声をいつまでも聞いていたくはないので、思い切って下顎を踏み抜く。
下顎が外れるどころか弾け飛んだのは意外だったが、どうせ殺すのだから効果が高いのは喜ぶべきことだろう。
声にならない悲鳴を上げる上顎を蹴り上げて頭部を粉砕すると、ジャバウォックは体を痙攣させながら闇に消えた。そこでようやく笑い声が消えた事に気付いて周囲を見渡すと、どうやら姿も消えているようだった。
そういえば、擬態能力持ってるんだったか。
クロッスで襲われた際の事を思い出していると、背後から掴み上げられるが、俺を拘束することは出来ない。
掴み掛かってきた手に爪を立て、粘膜が張られた体表を突き破って肉に食い込む。そのまま握り潰してやろうと思ったが……どうも力が足りないらしい。
俺とジャバウォックが互いに握り合っていると、これまでとは違う衝撃が俺の意識を揺らした。
なんだ?
状況確認の為に交代すると、奥——甲冑が尚も戦い続けている方からスケルトンの軍勢が押し寄せて来ていた。それもただのスケルトンではない。魔法のローブを纏い、マナ結晶の付いた杖を持っているリッチと呼ばれる個体だ。
数十のリッチが聞き取れない詠唱の後に魔法を放つ。
魔弾……? いや、違うな。妨害系か?
放物線を描いて迫って来る球体を目で追っていると、ジャバウォックの尾が直前に迫って来ていた。
つっ!
突然の事に肉体が無いことも忘れ、思わず防御態勢を取ったが、これは過誤だった。肉体があると錯覚した俺の意識と視界は激しく揺れ、次の行動に移る自由を失っていた。そこに、射出されていた魔法が着弾して来る。
大丈夫だ。何が当たろうと傷付く体は……っ!
意識が引き裂かれ、消え去るかの如き衝撃に襲われる。
痛みなんてない筈なのに、苦しむことなんてない筈なのに……。なんだ……これ…………。
そこは丘の上だった。薄暗い空の下で複数の人間が戦っている。それを俺は俯瞰して見ている。
剣の少女は四本の魔法剣を自在に操り、無表情のままで対峙する男を攻め立てる。男は二本の剣を持って対応しているが、実力の差は歴然で、どうにか死なないでいるのが精一杯というところだった。男の方は何かを喚いているが、剣の少女は眉一つ動かさずにいる。
……正直、見ていられない。
そんな俺の意思に応じたのか、戦況は動く。剣の少女が魔法剣の一本を爆発させて男を吹き飛ばし、トドメを刺すべく接近する。そして、魔法剣を突き出した瞬間だった。男を庇って黒い少女が現れる。
黒い少女は男を突き飛ばして命を救うが、自身の回避が間に合わず、その身を魔法剣で貫かれる。男はボロボロの体に鞭を打って黒い少女へ寄り添うが、救うべき力を持たない男は、黒い少女と別れの言葉を交わすことしか出来ない。
やがて黒い少女が事切れた頃、魔法剣を再出現させた少女は男に歩み寄り、彼の言葉を聞かずに首を刎ねた。
暗転。
剣の少女は命令されるがままに戦い続け、人々にとって都合の良い存在として生を続けた結果、とある戦いにて誰にも知られず、惨たらしく命を散らせた。
暗然。
…………続きは無い。死ねば終わりだ。死んだ後に力を振るったところで、結末を見ることも変えることも出来ない。
……………………あの二人、生きてるよな?
俺の安い命で二つの命を助けられるのか? ……まさか。そもそも助けていないのに助かるわけがない。俺は助けられなかった……救えなかった……覆せなかった。
………………死んだら言い訳とか、弱音を吐いても許されるかな? 声に出せないから生前と変わらず、自分の中でモヤモヤさせるしか出来ないな。
……あぁ、悔しいなぁ。気になるなぁ。生きていてほしいなぁ……。
なんで死んだのに意識があるんだよ。綺麗に消え去ってしまえばこんな……こんなに……。
闇香。
……あれ、匂いなんて感じたっけ?
うっすらと甘さを含んだ香りの元を知りたくて、いつしか朦朧としていた意識を動かす。
揺れる視界。触れる黒い毛先がくすぐったいけど、体を包んでいる温かさと併せると心地良くてクセになる。さっき感じた匂いとは違うけど……なんか、すごく……落ち着く。
「————さん! ————さん! 消えちゃダメです!」
涙声に意識が揺らされる。
そうは言っても……な……。
薄れる意識に反して、爽やかな甘い香りは強く鼻孔をくすぐった。
次回投稿予定は4月30日0時です。




