第百四十九話:村と町の記憶
人間領の辺境にある村。薬草園や果樹園があり、緑豊かで長閑で、どこにでもある辺鄙な村。少し前までは竜車で二日から三日のところに、設備の整った町があったものの、今となっては町の存在を覚えている者は誰一人として居ない。町があった場所は真っ白な更地となり、人々の記憶から、歴史から消えてしまった。
町は近隣の村々と魔窟との中間地点に位置しており、魔物からの侵攻を防いでいた。その町が無くなった今、魔窟から湧き出る魔物が村に害を成すのは時間の問題である。
オーバーフローが起きた魔窟が、直ぐにオーバーフローを再発させた例は無い。だが、しばらく安全だと言い切れる保障はどこにもない。オーバーフローが起きずとも魔物は闊歩しているのだ。
危険だと分かっていたとしても、生まれ育った土地を離れることができない者も一定数存在する。村で薬草園の世話をしている老婆もその一人だった。何代にも渡って受け継がれた薬草園では様々な治療薬の原料となる薬草栽培しており、腰を悪くした老婆一人ではとても手が回らない。夫は既に他界しており、町で薬屋を営んでいた息子夫婦の事は、ある時を境に綺麗さっぱり忘れてしまった。
だが、幸いなことに老婆を手伝う者は多かった。村の象徴とも言える薬草園を腐らせてはならないと、村人たちはそれぞれの仕事の合間に手を貸しており、プリムラもその一人だった。
「プリムラちゃんは本当に明るく笑うねぇ。わしも嬉しくなって、腰の痛みを忘れてしまうよ」
老婆に限らず、愛想良く笑うプリムラから活力を貰った村人は少なくない。薬草園を手伝いに来ているのか、彼女の笑顔を見に来ているのか分からない者も一部存在していた。
プリムラは村が好きだった。村の皆が好きだった。穏やかな環境と人に囲まれ、風に運ばれて来る薬草や果物の匂で季節を感じ取れるこの場所が好きだった。
だから、村を守る兵士長である父が、村の防衛について頭を悩ませているのを見ると、胸の奥が痛んだ。
今が楽しくても、魔物が襲って来る時はいつかやって来る。わたしに何か出来ることは無いのかな……。
魔法の扱いに長けている訳でもない村娘が、魔物と戦うことなど出来ない。魔物避けの薬草を外壁に取り付けたり、村の外周で栽培を始めたりしているだけでも十分に貢献していると言える。それでも、父親の悩む姿や、村人たちの陰りを見る度に「何か出来ることを」と考えてしまう。
そんなプリムラに決断を迫る事態が起きたのは、風巻の月も後半になる頃だった。
白紙化で消えた町の次に近い町であるクロッスへ、村の防衛について便りを出したところ、外壁の保守と運用の主幹であるパストン卿から一つの提案が帰って来た。内容は、村の外壁の改装を引き受ける代わりに、村娘を一人、パストン家の息女の世話係として奉公に出してほしいというものだった。
私が奉公に……村を出なきゃいけないの……。
話を聞かされた瞬間こそ気持ちは沈んだけど、自分を差し出すことが本意ではないのは両親の苦渋の色から見て取れたし、最終的には自分の意思を尊重すると逃げ道を用意してくれた。だから、落ち込んだ顔は見せない。
「この村を守れるなら、私は喜んで引き受けるよ」
言葉に偽りは無い。常日頃、村を守る為に自分に出来ることは何か考えていていたし、自分に出来ることがやって来たと考えれば喜ぶべき状況なのだから。
ただ、両親に「ごめん、ありがとう」と悔やみながら頭を下げさせたことだけが心残りだった。
村人全員から惜しまれながら故郷を離れ、竜車による長旅を経てクロッスへ到着する。村とは比べ物にならない規模の外壁や建物の数々。多人種が行き交う大通り。見るもの全てに刺激され、直前まで抱いていた不安は一時的に忘れ去ることができたが、竜車が停止すると共に不安は蘇る。
失礼の無いようにしなくちゃ。私が変なことしたら、お父さんや村の皆に迷惑が掛かっちゃう。
ゆっくりと深呼吸をしてから竜車を下りる。日中という時間帯でもあったので、通りには大勢の人が居り、噴水前広場に居合わせた人々は何事かと竜車を見つめている。
わわっ、凄い人多い! へ、変じゃないよね? あぁ……竜車を下りる前に髪とかもっとよく整えておけばよかった……。
緊張したり落ち込んだりする気持ちをどうにか抑えていると、身なりの良い男二人が上品に笑って近づいて来る。大衆をものともせずに歓迎の言葉を告げると、より身なりの良い男はプリムラを上流区にある自宅へと案内する。
よ、良かった。とりあえずは歓迎されてる。……ん?
視界の端で奇妙な恰好をしている男を捉えた。目を横に動かすと、右手を頭頂、左手を顎に当てた格好の男と目が合った。
ふふっ……なんだろ、あの恰好。大きな町だと、ああいう可笑しな人もいるんだ。
口角を上げて男の横を通り過ぎると、なにやら慌てた空気が背中に伝わって来たが、振り返って確認することはしなかった。
パストン家に着くと、プリムラが着ていた私服よりもずっと上物の使用人服に着替えさせられ、他の使用人から仕事の説明を受けた。息女の世話が主な仕事になると聞いていたプリムラは少し面食らったが、奉公に来た以上は一つの仕事だけに従事すればいいという訳ではないと気持ちを切り替えた。
息女は今年六歳になったばかりだが、文字の読み書きに興味があるらしく、プリムラはよく絵本を読み聞かせていた。
屋敷に来てまだ日は浅く、仕事も覚束ない所はあるが、息女と打ち解けることには成功し、今も膝の上でお昼寝中である。
村にいた頃も小さい子たちに絵本読んであげてたなぁ。初めはどうなることかと思ってたけど、なんとかやっていけそうだよ。……今日、仕事が終わったらお父さんとお母さんと、村の皆に手紙書こう!
その晩、自室で近況報告の手紙を書き終え、いつもより遅い時間に寝床へ入った。両親のこと、薬草園を始めとした村のこと、頭の中で色々と想像を膨らませていたが、労働の疲れもあって眠りに就くまではあっという間だった。
どれくらい寝ただろうか。異様な寝苦しさを感じて目を覚ますと、何かがのし掛かっていた。寝起きの脳であったが、強烈な危険信号を受信したことにより超速で覚醒を果たす。
誰!? 何してるの!?
暗闇の中で人影は賤陋な動きで這いずる。
嫌っ! 嫌だ! 気持ち悪い!
反射的に体を捩り、何者かの重みから逃れようとするが、慣れた手つきで体を抑え込まれてしまう。それでも必死に抵抗するが、特別鍛えてもいないプリムラでは性別的な腕力の差はどうしようもなかった。
唯一自由に動かせる口を開き、助けを求めようとするが、何者かはその時を待っていたと言わんばかりに口を塞いで来た。
「んーっ! んーっ!」
いくら拘束されても抵抗を諦める気は無かった。相手は一人なのだから、単純な腕力で叶わずともどこかで隙を突いて逃げられると思った。
「そんなに叫びたいのなら、望みを叶えてあげようじゃないか」
聞き覚えのある声が耳元で囁かれ、布に含ませられた薬品の臭いを嗅ぐまでは……。
意識を失ったプリムラが次に目を覚ますと、冷たく沈んだ空気が肌に張り付いた状態で、両手両足を鎖で拘束されていた。
触れている床や壁は硬く、燭台の火に照らされて尚黒い。逃げ場の無いその部屋で、プリムラを見下ろす人物——パストン家の主人の姿からは理性や知性といった物は消え失せていた。
いつ自室に戻って来たのかは分からない。夢だったのかもしれないと思うが、逃避しようとすればするほど、脳と体は記憶した昨晩の出来事を鮮明に思い出す。
自失状態のままベッドの上で動けないでいたが、同僚に無理矢理起こされ、今日も息女の世話を始める。
「おねーさん、どーしたの?」
「え……?」
せがまれるままに絵本の読み聞かせをしていたが、いつの間にか固まっていたようだった。幼子特有の体熱と柔らかな手で触れられ、思わず涙腺が緩んでしまう。
「泣かないで、泣かないで」
小さな、とても小さな慰めであったが、それでも虚脱した精神が揺れ動く程度の気力を与えてくれたのだった。
しかし、プリムラの身に振り掛かる欲望が一夜限りのものである筈が無かった。初めはパストン家の主人だけだったが、奥方であったり、仲間を連れて来たりなど様々であり、人の数だけ醜穢な行為を受け続けた。
翌晩も、その次も、その次も……爪の軌跡が暗闇を駆けるまで、毎晩その身を弄ばれた。
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その日、プリムラは飛び起きるように目覚めた。激しく脈打つ胸を押さえ、見開いた目で周囲を見渡す。
誰も居ない。朝の静けさの中に一人。耳を澄ませば時計の針の音が聞こえるくらいだ。それなのに胸の鼓動は治まらない。悲鳴を上げるように鳴り続けて全身に血流を巡らせているのに、体はどうしようもない寒気を感じた。
「大丈夫、大丈夫…………大丈夫」
自分を抱き締めながら何度も言い聞かせ、ようやく体は平静を取り戻す。最悪の目覚めである筈なのに、頭の中はいつぶりか分からないくらいすっきりとしていた。
「レイホは……こんな私でも、まだ助けてくれるのかな……」
もう一度自分を強く抱き締め、支度を始める。今日の放課後レイホに会いに行こう、と不安と期待が入り混じる心の中で予定を決めながら。
だが、その日プリムラがレイホの前に姿を見せることは無く、彼女が放課後に向かった先は学校長室であった。
自発的にではない。登校した時にローナを経由して指示を受けたからだ。
「先日の魔界侵攻で、失態を晒したそうだな」
ふんぞり返って睨み付けて来るタテキの目を、見返す事ができなかった。昨日までは何も思わなかったというのに、今はタテキと二人きりで部屋に居るというだけで足が震えて来る。
「……ごめんなさい」
俯いたまま、震える声を絞り出す。どうして自分はタテキの指示に従っていたのか、どうしてこんなに怖いのに逃げ出せないのか、疑問ばかりが浮かび上がる所為で、立ち上がったタテキが目の前に来ていたことに気付けなかった。
「いいか! お前は俺様の言うことだけを聞き、俺様の為に動けばいいんだ! その為にここで面倒を見ているんだからな! また研究所に戻されたくなかったら、二度と失敗するな!」
太い手の平に頭を掴まれ、万力の様に締め付けながら恫喝を受ける。痛みから逃れたくて、反射的にタテキの腕を両手で掴むが、反抗したことでタテキの神経を逆撫でしてしまう。
「ガキの分際で大人に歯向かうか! お前らはいつもそうだ! 自分たちのごく小さい世界しか知らないクセに、それが全てと信じて疑わず、周囲や未来に目を向けもせずに刹那的な人生しか送らない! この俺様が導こうと言っているのが分からんのか!」
頭に加えられる圧力の強さに応じて煙の様なものが脳内に流れ込み、思考を朦朧とさせる。
「もう一度言う、お前は俺様の言うことだけを聞き、俺様の為に動けばいいんだ! 他の誰の言葉にも耳を貸すな!」
投げ捨てるような乱暴さで手を離されたが、その時には既にプリムラの思考は自由を失っており、直前に耳にしたタテキの言葉だけが脳内で反復していた。
「……了解しました」
もう、タテキの高圧的な態度も、見下す視線も気にならない。真っ直ぐに視線を返し、感情の無い言葉で応えた。
「ちっ、手間を掛けさせおって……。もう下がれ」
「はい。失礼します」
二人のやり取りが終わると同時に、学校長室の扉の前から立ち去る人影があった。その者はクセ毛を指で巻き込みながら、充実した笑みを浮かべる。
「良かったのだ。学校長の意向にそぐわないなら、処分しないといけないところだったのだ。……ウチらとしては背いてくれた方が都合が良かった……なーんて、怖いことは言わないのだ!」
プリムラが学校長室を出ると、昇降機は一足先に下の階へと下りて行った後だった。
次回投稿予定は4月1日0時です。
時間があれば3月中にもう1話更新します……。
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4月2日0時投稿になります。申し訳ございません。
 




