第百四十七話:月下の記憶
暗い、暗い、とても暗い。私の夜の居場所。
闇を裂いた三本の綺麗な銀色の軌跡が見えたのは、ほんの一瞬だけれど、強く目に焼き付いている。その銀色に連れられて歩いていると、不意に湿った静かな風が全身に吹き込んで、猫背気味だった体を伸ばした。鉛のように纏わりついていた空気が払われたことを感じながら空を見上げる。
深い青のお月様。記憶の中にある、一番新しいお月様の色は黄色だったから……いつの間にか月が変わったんだ。
日数を数えたら一ヶ月も経っていないけど……夜の空気を味わうのは随分と久しぶりに感じる。
あれだけ恐れ、厭忌していた夜が、今は例えようのない安らぎを与えてくれていた。けれど、その時間は長く続かなかった。
「助かったと思うな。この後、お前を研究所に引き渡す」
私を連れ出した爪の人は、袖に爪をしまい込みながら冷たく言い放つ。研究所がどんな所かは分からないけど、あの暗く卑しい場所よりも苦しい場所なんて無い。あの場所に行くこと、私が望んだことでもあるけど……行かなくて済むなら、行きたくなんてなかった。
「研究所。あそこは……お前にとってのあの世だ」
私にとってのあの世? どういうこと? 私、助かったんじゃないの?
「死んじゃうの?」
爪の人は私を見て、怒ったように寄せていた眉間の皺を少しだけ緩めたけど、直ぐに視線を外して空を見上げた。
「死ぬかもしれない。死ななくても死んだ方がマシだったと思うかもしれない。それはお前次第だ」
「そんな…………」
涙腺から涙が溢れ、下目蓋に溜まっていく。
あの場所に居たなら、もうどうしようもないと諦められた。村の皆の為にって、耐えられた。けど……けど、あの場所から出られたのに、まだ辛い思いをしなくちゃいけないの? そんなの嫌だよ。耐えられないよ。
爪の人に「助けて」と縋ろうと手を伸ばした途端、さっき緩めた眉間を再びきつく締め、睨み付けられた。
「オレに頼るな! オレは個を救わない!」
怒鳴られた拍子に、溜まっていた涙が溢れ出た。
頼るな? 救わない? じゃあどうして私をあの場所から連れ出したの?
研究所に連れて行く為だというのはさっき聞いた。だが、少し前のことすら思い出せない程、少女は混乱し焦燥していた。
泣き崩れる少女を、男は慰めもせず、懐から懐中時計を取り出してネジを回した。
「お前を引き渡すのは日付が変わってからだ。……あと一時間、好きにしていろ。ただし、上流区からは出るな」
両手で顔を覆って泣く少女の前に懐中時計を置くと、男は音もなく立ち去った。
一人残された少女は、冷たくなった夜風を浴びながらすすり泣いていたが、そう長い時間が経たない内に溢れ出ていた感情を押し込め、地面に置かれた懐中時計に視線を落とした。長針は十分を過ぎたところだ。
「うっ……ぐす……」
まだ嗚咽は漏れるけど、だいぶ落ち着いてきた。大丈夫、動ける。一時間しかないのに、泣いてばかりいたら勿体ないよね。
懐中時計をポケットにしまい、涙を拭って立ち上がる。立ち上がったところで行く当てもないが、最後になるかもしれない夜の空気を堪能しておきたかった。
兵士さんに事情を話せば助けてくれないかな。
上流区をゆっくりと歩いていると、巡回している兵士の背中が見えたが、助けを求める声は出せなかった。鎧の上からでも分かる、分厚い筋肉質の体。その広い背中は本来なら頼りがいのあるものに見える筈が、今の少女にとっては受け入れがたいものだった。
兵士は少女の気配に気付いて振り返り、体格に合った無骨な顔立ちを向けた。
目が合った途端、少女は反射的に逃げた。背後から兵士の呼び止める声が聞こえたが、頭を振って振り解いた。
土地勘の無い上流区を逃げることだけ考えて駆けていると、いつの間にか中流区へと続く階段を降りていた。その途中で、「上流区からは出るな」と言われたことを思い出す。
生まれ育った町でもないのに、ずっと屋敷の中で過ごしてきた少女にとって、どこからが上流区以外なのかは分からない。しかし、眼下に広がる街並みは生活感に溢れ、立ち並ぶ家々もこぢんまりとしているものが多かった。
この階段を下り切ったら上流区から出ちゃうんだろうな。
……逃げられないのかな。空を見上げてお月様に聞いてみても、深い青の光しか返って来ない。
走り疲れた体を休める為に階段に座り、青く照らされた街並みを眺めていると、通りをこちらに向かって歩いてくる人影が見えた。
兵士さんじゃないよね。鎧着てないし。俯いてて顔は見えなくて、男の人にしては随分と線が細いけど……身長と……あ! 見慣れない上着を着ていると思ったけど、見覚えがある。この町に来た日に擦れ違った、変な恰好をした男の人だ。
歩いて来るのが男性ということで少しばかり拒絶反応が出たが、女性なら大丈夫という話しではない。内なる欲望を満たそうとするのに、性別は関係ないということは嫌というほど思い知らされてきた。
男が一歩ずつ近付いて来る毎に少女の心臓の鼓動は高鳴っていくが、男が何の予兆もなく自分の顔を掴んだのを見て、少女は思わず言葉を漏らした。
「また面白い恰好してる」
初めて会った時も、自分の顔に両手を当ててたっけ。男の人は慌てて顔から手を離して、驚いた顔で私の事を見上げた。薄めの顔に丸くなった目が浮かんでいて、少しだけ可愛げがある。
月光が無ければすっかり闇に溶けてしまう純黒の髪と、夜闇を吸い込んだような黒い瞳。
少女が様子を見ていると、男は丸くしていた目を戻し、少女から視線を外して何やら考え事をした後、何も言わずに踵を返した。
「あ、ちょっと、無視しないで」
一時間の内、あとどれくらいの時間が残っているかは分からないけど、多分半分も無いくらい。深夜でみんな眠っているし、兵士さん以外で会える人は、もうこの人だけだと思う。
恐い人だったなら、呼び止める事はしなかった。けど、私を見ていたあの瞳や、何も言わずに立ち去ろうとする様子からして、この人は多分大丈夫。
男の人は背中を向けたまま立ち止まって、何か考えてから首だけ振り返ってくれた。
まだ不安はあるけど、ぐずぐずしてたら時間ばっかり過ぎちゃう。……日付けが変わったら、研究所に連れて行かれたら、もう普通の生活に戻れない。それなら最後に、少しでも楽しいお話しをしておきたい。
「は・や・く・お・い・で」
階段の上と下じゃ距離があるから、隣りに来るよう呼んでみる。だけど、男の人は表情を変えずに黙っている。よく考え事をする人だなぁ。けど、私は諦めずに自分の横をポンポンと叩き続ける。
そう思っていたら、また顔を背けて……少しだけ肩を上下させると、今度は体ごと振り返ってくれた。やった。私の勝ち。
「何か用ですか?」
初めて聞いた男の人の声は、疑い八割、怠さ二割……いや、七三かな? 私、面倒くさがられてるなぁ。 で、でも、ここで引いたら寂しくなるだけだもの。
「用か……んーと、わたしの思い出作り! ほら、座って」
声が聞こえやすいように、いくつか階段を下りてからまた座って横を叩く。
男の人は少し困ったような顔をしてる。どうしてだろ? ……あ、そうか!
「あ、もしかして濡れてるから嫌? なら……はい、どうぞ」
お母さんから貰った大切なハンカチ。手触りが良いからとっても気に入ってるけど、この際、汚れてもいいや。
階段にハンカチを広げたけど、男の人は益々困った顔をする。うーん、何がダメなんだろ?
「……知らない男にそういうことしない方がいいですよ」
「え?」
心配されちゃった。私だって、誰彼構わずって訳じゃないんだけど……まぁ、ここで言い合いしても仕方ないよね。えっと、何て返せば納得してくれるかな?
「……あ、そうか。私の名前はプリムラ。あなたの名前は?」
知らない人なのがダメなら、知り合いだったら良いってことだよね。
男の人は、なんだか疲れた様子で視線を落としたけど、直ぐに上げ直してくれた。私と話すの疲れるのかな? 少し悲しい。
「レイホです」
不満を言われるかと思ったけど、ちゃんと名前を教えてくれた。
「レイホね。よ……」
自己紹介をしたから、笑顔で「よろしく」と言いたかったけど……もう、直ぐに会えなくなるんだよね。
楽しい時間を過ごしたいけど、少し先に訪れる未来のことが、どうしても気になっちゃうな……。はっ! ダメダメ、落ち込んでる場合じゃない! レイホが気まずそうに視線を泳がせてるよ!
「……レイホはこんな時間にどうしたの? 何か悩み事?」
「……べつに、ただの散歩です」
「えー、ただの散歩で、こんな格好する?」
さっき見たのを真似して、自分の顔を掴む仕草をしてみると、レイホは少しだけ嫌そうに「癖です」と答えた。
「心の壁を感じる」
思った事をそのまま口にすると、レイホは何か言いたそうにしたけれど、結局何も言わなかった。
言いたい事があるなら言ってくれていいのに……。色々考え込んではいるけど、無視して立ち去らずに私のこと心配してくれたり、ちゃんと名前を教えてくれたり、優しいんだ。
「ね、レイホ、わたしたち友達になれると思う?」
こうして話していられる時間も残り僅か。
「なれたら、いいですね」
「そっか。じゃあ、はい」
どうしようもない事だっていうのは分かっているけど……。
「ダメ?」
誰かがこの手を握ってくれて……。
「ダメです」
「そっかぁ……」
苦しみから引き離してくれたなら……。
「そういえば、言うの忘れてたけど。私、この階段より下に行ったら死んじゃうんだ」
どんなに…………どんなに救われるだろう。
足が階段から離れるのと、ポケットの中で懐中時計が震えるのは同時だった。
あぁ……嫌だなぁ。周りからの“良い子”という評価を裏切りたくなくて流されたのも。村の為にって覚悟を決めた筈なのに、暗闇から抜け出せた途端に助かると安堵したのも。これからまた苦しい思いをしなければいけないのも。何より、この辛さを大好きだった村の皆の所為にしようとしている自分が一番嫌だ。
抱き留めてくれた腕は頼りないけれど、確かな気遣かいを感じる。
受け止めてくれた胸はそんなに広くないけれど、伝わってくる体温は心地良い。
離れたくない。抱き留めていて。
行きたくない。連れ去って。
どうか、どうか……私を…………
「たすけて」
溢れ出る感情と言葉を掻き分け、絞り出た言葉。だけどダメ。巻き込んだら、きっと良くない事が起きる。
私はもう諦めなくちゃいけない。
震える体に無理矢理力を入れてレイホから離れ、涙ぐんだ顔を見られないように俯き、急いで階段を上る。
「三秒以内に階段に戻ったからセーフ! じゃあね、レイホ。迎えが来たみたいだから…………さよなら」
急いで戻らないと、爪の人に怒られちゃう。レイホが巻き込まれちゃう。
全速力で階段を駆け上がる。自分の名を呼ぶ声が背中に叩きつけられても、速度は緩めない。緩めたら甘えてしまう。振り返ったら手を伸ばしてしまう。伸ばした手を掴んだら……レイホが酷い目に遭う。
階段を上り切ると、感情のない瞳とすれ違った。
ダメ、レイホは何もしてない。私が勝手に動いただけなの!
言葉は浮かび上がっても喉が震えない。様々な感情に振り回された体は言うことを聞いてくれない。
私は、爪の人の右腕がレイホの腹部にめり込むのを見ていることしかできなかった。
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魔法学校女子寮の自室で、プリムラは静かに目を覚ました。帳からの隙間から差し込む朝日に、数瞬前まで見ていた夢の内容のほとんどが掻き消されてしまう。
いつもなら夢の内容など気にも留めずベッドから起き上がるのだが、この日は何故か学校に行くのが億劫に感じた。
肉体的にも、精神的にも問題はない。
昨日、魔窟の最深部まで行ったが魔界へは辿り着けず、徒労に終わった事も関係ない。学校長に叱られないかだけ心配だったが、プリムラ含め校章持ちはお咎め無しだった。
今日、また魔界を目指せと言われたら素直に従うだけだ。
何も問題はない。なのに、プリムラは体を起こすことが出来ず、それどころかベッドに潜り込んで寝返りを打った。
「……レイホ」
何故起きないのか、何故彼の名を口にしたのか、どれだけ考えても、その答えが出ることは無かった。




