第百十七話:血の訴え
グールが蔓延る雑木林を抜けると、洋館を囲む高い塀が現れる。塀を乗り越えることはできないが、門は開かれており敷地内に入ることは出来るようだ。周囲にグールの気配は感じないし、一旦落ち着くか。
門の直ぐ隣りで塀を背にして座り込み、回復薬を取り出して左肩の傷口へ塗布する。強烈に沁みるが、傷は思ったより浅かったようで直ぐに塞がっていく。
「すー……くっ!」
一息吐こうと深く息を吸った途端、【死の恐怖】が見せるグールが脳裏でチラついた。
「だ、大丈夫?」
コデマリが普段見せない弱気な表情で心配してくれる。そんな顔されたら、大丈夫じゃなくてもどうにかするしかないだろ…………違う、心配されたって関係ない。俺が動くのは俺自身の意思だ。
奥歯を噛み締め、眉間に力を入れ、幻覚で貪られている体と現実の体を引き離す。俺はここに居る。食われてなんかいない。現実を見ろ。
「教えてくれ」
体の自由が利かないから多くは喋れない。コデマリは少しだけ逡巡していたようだが、それでも分かる限りの状況を教えてくれた。
「村人がグールに変わって……でもただのグールとは少し違っていて、少しだけ理性があるようなのよ。アクトがどこかに飛び出して行っちゃうからシオンに追わせたけど、敵の数を考えればかなり危険よ」
村人がグールに……昼間会った時は何の違和感も無かったけど……そもそも人間が魔物化することなんてあるのか? ……無駄な思考だ。
幻覚で肉を剥がれながらも、五感を集中させてグールの群れに圧し潰されないよう耐える。
「クラースは?」
「あの小屋に案内された後から見てないわよ。村の中にはいくつかの冒険者パーティが戦っているようだったけど、統率なんて取れたものじゃないわ。目の前の敵の対処で手一杯って感じよ」
……昼間、クラースは「魔物が塀を越えたことはない」と言っていた。俺はてっきり「村の中に侵入して来た事はない」という意味だと思っていたが、「村の外に出た事はない」という意味だったのか? 何でクラースはあんな言い回しをした? どうして村人がグールに変貌すると知っていた? 他に協力者は? 敵なのか味方なのか?
バチッ!
思考に集中し過ぎて【死の恐怖】に引き込まれ始める。体が震え出し、視界がグールに埋め尽くされていくが、意識が完全に切り替わってしまう直前に背後でガラスの割れる音がした。少し間を置いて、何かが地面に叩きつけられる音。
気になるが、体が上手く動かない……目に現実が映らない……。
脳裏からグールを追い出そうと足掻くが、強く噛み付いたグールは離れない。
「人よ! 怪我してるわ!」
くそっ、動けよ……動け! 俺の体だろ……俺に逆らうな! 自分にすら従えないなら……っ!
震える右手で小太刀を掴み直す。服の袖を捲る余裕なんてないから手の甲に刃を当てる。
「ぅあっ!」
カタカタと震える小太刀を引いた所為で綺麗に切れなかった。傷は浅いが、痛みだけは強い……けど、今はこれでいい。
僅かだが、脳裏からグールが薄れる。まだだ、もっと……さっきグールに噛まれた時のような……あれ以上の痛みを! 【死の恐怖】なんてくだらないことを意識する余裕を与えるな。楽をするな。怠ける自分の体なんて、突き殺せ!
「っっっ!!」
ブチッ、バチバチッ!
脳裏で火花が迸るのと、左手から伝わる激痛で脳裏のグール共は消え去ったが、刃が貫通し、強く脈打って血を溢れさせる左手から暫く目を離せないでいた。
「ちょ……あんた、何してんのよ!」
コデマリの声で漸く落ち着き、ゆっくりと小太刀を抜く。溜まっていた血が一気に溢れ出るのを見て気分が悪くなりかけるが、気つけとして左手を握り込む。
「ぉっ……ぁっ……!!」
言葉にならない声が絞り出て来る。耐えろ……この痛みが俺を【死の恐怖】から現実に引き戻してくれたんだ。
「…………待たせた」
「待たせた。じゃないわよ! めちゃくちゃ痛そうな顔するなら、早く回復薬使いなさいよ!」
表情に出てるか……んんんんん…………。
顔、肩、体、腰、脚と順に力を抜いて行く。左手だけ強張ってしまうけど仕方ないか。
「ふぅー……よし。大丈夫、死にはしない」
「死にはしないって……止血はしときなさいよ」
「後でな。それより、落ちて来た人がいるんだろ?」
またいつ【死の恐怖】が訪れるか分からない以上、動ける時に動くべきだ。ガタガタ震えて身動きが取れなくなったら、どうせ血塗れにされて殺されるんだから。
開けっ放しの門を通り、仰向けに倒れた男の傍に駆け寄ると、装備していた防具は半壊しており、全身傷だらけだった。近くに堕ちていた血で濡れたロングスピアはこの男の武器だろう。
「うっ……ぐ……」
「あんた、しっかりしなさい! マナよ、我が下に集いて彼の者の傷を癒す火となれ。ヒーリング・ファイア!」
【ヒーリング】は下級回復魔法で、回復・補助魔法に対する火属性の固有効果は……術者と被術者の距離が近いほど効果上昇だったよな。無条件で効果が上昇する光属性とどれだけ効果が違うのか分からないけど、男の傷は見る見るうちに癒えていった。
「安心しなさい。傷は治ったわよ」
コデマリの言う通り男の傷は治ったが、感じた痛みや疲労までは抜けきらないのだろう。男は少しの間唸り続けた後、ハッっと目を覚ました。
「お、俺は……」
「そこの洋館から落ちて来たのよ。気付いたばっかりで悪いけど、何があったか教えてちょうだい」
「よ、妖精!? ……あんたらもクラースからこの村に呼ばれた冒険者なのか?」
あまり妖精体を見られたくないのか、コデマリは「あ、しまった!」と慌てたが、今更人間体に変化しても手遅れだと諦めた。
「はい。クラースから依頼について説明がある筈だったのですが、その前に村がこんな状態になってしまって……」
「そうか。俺は……いや、俺たちはクラースと一緒にこの洋館の最上階にいる元凶ってやつを倒しに来たんだが、中は冒険者のグールで溢れ返っていて、中々進めやしないんだ」
元凶……そこまで調べが付いていたのか。クラースは本当にこの村を救うために動いていると判断して良いのか?
「何故、あなた達はクラースと共に戦っているんですか?」
「同じパーティの仲間だからだ。クラースとは今日久しぶりに再会したけどな」
久しぶりということはクラースは別行動をしていた訳で、最近の動きについては同じパーティメンバーであるこの男も知らないか。
「こうしちゃいられない。俺は仲間の所に戻る。あんたらは……怪我治してどっかに隠れてるといい。元凶ってやつは俺たちで絶対に倒す」
男は重そうな腰を上げるとロングスピアを拾って洋館へ向かって歩いて行く。
どうする……【死の恐怖】がある以上、行動するだけでリスクは高い。この辺りはグールが見当たらないし、男に言われた通り身を隠すか? それとも、ここからなら村の出入口も近いし、村の外に逃げてしまうか? クラースが元凶とやらを倒してくれるなら、それ以上にありがたい話しはないけど、もしこの村を使って何かを企んでいたら? 考えたって無駄だ。俺に止められる力なんてない。せめてアクトとシオンと合流してから……この村中探し回るのか? それこそ無茶な話しだ。
「ねぇ、どうすんの? いつまでもここに居るのは……なんか気味悪いわよ」
右肩に乗ったコデマリが落ち着かない様子で声を掛けて来た。
「なにか感じるのか?」
夜の洋館で、辺りには外灯も少ないから不気味ではあるけど……。
「なんて言ったらいいのかしら……魔法とは違う……とにかく嫌な感じがその建物から感じるのよ」
変な感じ……クラースの言う元凶とやらの力だろうか?
何か感じるものがないか五感を研ぎ澄ませてみるが、不快さは感じない。寧ろこれは……高鳴り? 興奮? 左手の傷口と心臓の脈拍が体を、脳を揺さぶる。
左手を凝視する。当然だが血が止まる気配はまだない。手の平も甲も真っ赤に染まって痛々しい。血を見るのはそんなに得意じゃない筈なのに、俺は自分の赤にどうしようもない程に引き込まれた。
「コデマリはアクトかシオンを探しに行ってくれ」
一本だけ常備していた魔力薬を差し出すと、コデマリは両手で抱えるように受け取りつつも怪訝そうに顔を顰めた。
「探しに行けって……あんたはどうすんのよ? この辺に隠れてるつもり?」
不安になるのは当然だろうけど、血が俺に訴えかけているんだ。
「俺はクラースを探しに洋館へ入る」
生きる為に……
「心配なら二人を連れて来てくれ」
戦えと。
「はぁ? ちょっ……ああっ、もう! なんで男共は勝手に突っ走るのよ!」
行き場のない怒りで魔力薬を叩き割りそうになるが、ぎりぎりの所で踏み止まる。
「アタシは魔法使いであって、伝令役じゃないっての!」
力いっぱいに文句を叫びながら、小さな羽を精一杯に羽搏かせて暗い空へと飛び去るのだった。




