「戦争のはらわた」と「万引き家族」
サム・ペキンパーの「戦争のはらわた」を見た。良い映画とか悪い映画とかいうより、「凄い映画」だった。
是枝監督の「万引き家族」を以前に見たのだが、、ああいうテーマであれば、もっと徹底的にやってほしいと思った。「万引き」という犯罪の小ささに代表されるが、人間の醜さ、くだらなさ、そういうものを監督は徹底的にえぐり取っていないという印象を受けた。それが十分可能であると感じたからこそ、そう思ったのだった。
「戦争のはらわた」は人間の醜さ、戦争という異常な状態で人間がいかにろくでもない事を平気でやるか、そういうものが表現されていた。
一番見ていてきつかったのは、主人公の部下が敵方の女兵士をレイプしようとする場面である。詳細を語るのは避けるが、戦争というものは、卑小な人間にとってはやはり、あまりにも巨大な事態であると思う。マニアは戦争にロマンティシズムを見るが、実際に投入されれば、精神が、脆い卵のように破壊されるのだろう。自分がもし戦争に投入されれば、どんなひどい事をするか、正気を保っていられるとは思えない。
人間というのは、極めて脆く弱い生物であって、自分は優れているとか、賢いとか、正しいとか、そう信じられている人はおめでたい人ではないかと思う。ある種の環境に放り込まれれば、人間は象に踏みつけられる蟻でしかない。そこで、人の魂はいともたやすく壊れる。
「戦争のはらわた」は少しも美しいものでなく、見て気持ちが良いものではないが、芸術になっていた。それはサム・ペキンパーが何らかの形で、現実と接続しつつ、それを乗り越えようとしていたからだと思う。現実と遊離したマニア的精神には芸術はない。また、多くの人に受ける為に妥協した精神にも芸術はない。芸術は通常思われているより遥かに芸術らしくない。それは現実よりも生々しいものだ。しかし、その生々しさ故に最初、人はそれを避ける。後に人はそれを研究対象にしてみたり、美術館に閉じ込めてみたりする事によって生々しさを凍結させる。これによって、我々の平穏は「傑作」に乱される事なく、着々と遂行可能なものとなる。