別離
17
「ただいま」
涼真は鍵が空いてることに安堵し、部屋に入った。
しかし思いの外、部屋は真っ暗だった。
ベッドに寄っかかっている夏帆を発見し、焦って声をかける。
「夏、夏!」
夏帆はあらぬ方向を見ていた。
そんな夏帆の様子を見て、涼真は全てを悟った。
「………思い出したのか…」
その言葉に反応し、夏帆はひどく緩慢に涼真を眺めた。
こちらを向いた夏帆の頬に涙の跡があった。
瞼も腫れぼったく、今日1日で違う人のように小さくなった夏帆を見て、涼真の胸は張り裂けそうだった。
「しっ…てたの?」
なんとも言えない表情をしている涼真を見て、夏帆は笑った。
「言わないで、いて、くれたんだね」
最後の方は掠れていた。
夏帆の身体は震えていた。
「忘れたままで……よかったのに。何度もなんども、思い出すの…あの日、倒れていた大ちゃんを見つけたこと…」
涼真は夏帆の身体を抱きしめる。
しかしこんなことでは、恐怖が拭いされるはずもないことは分かっていた。
「…救急車にも一緒に乗ったの。彼の手がどんどん…どんどん冷たくなって…」
夏帆はーーそれ以上話すことができなくなった。
言葉にできない叫びが彼女の内側を侵食していくようだった。
彼女が壊れてしまう、と思った矢先、彼女の力が全て抜けて人形のようになった。
焦り、思わず脈を測るが、気絶してしまっただけのようだ。
あまりの興奮状態故、自分を保てなくなったのだろう。
記憶を失っていた彼女にとって、その出来事は、まさに先ほど起きたことと同じなのだ。
傷が癒えるにはこれから果てしない時間がかかるに違いないーー
狂おしく切なく、涼真は自分の無力を痛感した。
だからこそ、尚、夏の側にいなければと思っていた。
18
夏帆が大家さんと話していたあの時、涼真は夏帆が口にしていた大地のフルネームをネット検索してみた。
嫌な予感がしたが、その予感が杞憂に終わることを期待して…。
しかしそんな希望はすぐに打ち砕かれ、いくつかの記事が発見された。
ーー
29日午後10時頃、東京都立川市のアパートで頭部を強打し意識不明の藤本大地さん(25)を知人の女性が発見。搬送先の病院で死亡が確認された。
室内は荒らされており、藤本さんの財布がなくなっていたことから警察は強盗殺人事件として捜査。
ーー
耳元で自分の鼓動が聞こえる気がした。
はやる気持ちを抑えながら、次の記事を見てみる。
ーー
東京都立川市のアパートで住人の藤本大地さん(25)が殺害された事件で、警視庁は9日、住所不定、無職の平山嵐容疑者(33)を強盗殺人容疑で逮捕した。
警察の調べに対し平山容疑者は容疑を認めているが、「殺すつもりはなかった」と話しているという。
発表によると、平山容疑者は7月29日、同市のアパートに押し入り、室内を物色していたところ、藤本さんが帰宅。乱闘の際に藤本さんが頭部を強打し、病院に搬送されたが30日の午前に死亡が確認された。平山容疑者は現金約12万円とキャッシュカードを奪った疑い。また、そのキャッシュカードで同日、現金自動預け払い機(ATM)から50万円を引き出した疑いも持たれている。
防犯カメラの映像から、平山容疑者が1ヶ月ほど前から藤本さんのアパート周辺に出没していたことが判明。その際に藤本さんの帰りが普段遅いことを調べていた。
「ここなら見つからずにお金が手に入ると思った。いきなり帰って来て焦って取っ組み合いになった。死ぬなんて思わなかった」などと供述している。
ーー
記事はまだ続いていたが、それ以上頭に入ってこなかった。
夏が俺と出逢ったのは、30日の午前ーー
そう考えると全てが符合した。
夏は第一発見者だったのだーー。
涼真が初めて夏帆のアパートに足を踏み入れた日ーー夏帆の部屋はスッキリしていた。
部屋の中に入るとほのかに柑橘系の甘い香りがした。
リビングに置いてあった卓上カレンダーは7月のままだった。
そこには唯一29日に丸がされており、東京と可愛らしい字が踊るように書かれていた。
夏帆が何か話しかけたらしいが、涼真の頭の中はいっぱいで聞き取れなかった。
そんな状況を悟られまいとなんとか平静を保ちながら、会話していく。
夏帆が自分の部屋の物を確認しながら、記憶を呼び起そうとしている姿が見える。
しかし涼真は、そんな夏帆を止めたい気持ちでいっぱいだった。
あの事実をーー夏が知るのはずっと先で良いーー
知って良いことなんて何もないじゃないかー
そう思う自分がいた。
夏帆がその事実に耐えうるのか、不安でたまらなかった。先延ばしにしても仕方ないことは分かってはいたが、どうにかして彼女の心を守りたかった。
適当な嘘をつき、夏帆のアパートを少し出て電話する。
相手は4度目のコールで出た。
「はい」
緊張して喉が渇いた。
「すみません、先日名刺をいただいた、梯 涼真と申します」
相手の声は静かだ。「…あぁ、駅であった子だね」
「あの…一緒にいた彼女なんですけど、名前は楠 夏帆といいます」
特に驚いた様子もなく低い声が返答する。
「きみ、彼女の知り合いだろう?財布や携帯を取りに来るよう言ってくれ。立川の警察署に届いている」
「は、はい。今日それが分かりました」
何と言うべきか言葉を探す。
「こんなことを言っても信じていただけないかも知れませんが……彼女、記憶喪失だったんです。昨夜やっとフルネームが思い出せて」
相手の息が詰まった気がした。
「……そうか。だからいくらアパートに連絡しても出られなかったんだな」
「彼女は事件の第一発見者でしょう?」
唐突になった自分の上擦る声を聞いた。
「…何のことだね」
「立川の強盗殺人事件、ですよ」
「それは彼女に聞けば良いんじゃないか。私から何か聞き出そうとしてるなら相手を間違えている」
「彼女はまだ彼が生きてると思っているんです。だから今日はお願いがあって連絡させていただきました。
彼女はおそらく月曜には、そちらに財布等取りに行くつもりでしょう。その時…事件の話はしないでやってください…」
「……」沈黙に向かって言葉を重ねる。
「まだ忘れていると言うことは、心が思い出すことを許してないんです。
…もう事件は解決したはずでしょう。これ以上彼女を刺激しないで下さい」
永遠とも思われる沈黙を低い声が破った。
「……彼女が忽然と病院から姿を消してしまったので、私の方も心配した。とりあえずその面は配慮しよう」
「ありがとうございます」
思わず頭を下げる。
「いや、とにかく無事でいることが分かり良かった。彼女の動転ぶりは見ていて辛くなるほどだった。どんな行動に出てもおかしくないと思ったので、ずっと気にかかっていた。
しかしいずれは思い出すこと…。
携帯が戻ったら彼女は結局知ってしまうとは思わないか?君は…親戚ではないのだろう?こう言っては何だが、あまり…深く関わりすぎない方が良い」
もう遅かった。涼真の心は既に夏帆に寄り添っていた。
「いろいろと…すみません。ありがとうございます。恐らく、私も一緒に警察署に伺うと思います」
「…分かった。気をつけて来なさい。いつ来るか教えてくれれば、対応する人に今の話ができるから、また連絡をくれても良い」
「分かりました、よろしくお願いします」
確かに夏帆が携帯を手に入れれば、夏帆と大ちゃんを知る人たちと連絡が取れるようになる。
彼女が事実を知るのも時間の問題だ。
携帯をポケットに突っ込み、涼真は深い溜息をついた。
19
自分よりふた回りも大きい大地の胸に頬を寄せ、夏帆はこれ以上ないくらいに安心するのを感じる。
今まで感じていた恐怖や哀しみの感情は嘘のようにどこかへ消え去り、ただ穏やかな夜の海のように揺蕩っていた。
顔を上げると、いつもの優しい彼の笑顔が見られた。
「…大ちゃん」
自分の声がなぜか遠くに聞こえた。
首を傾げ、顔を覗き込まれたことで先を促されているんだと分かる。
彼は言葉少なな人だった。
いつでも多くを語らず、語る言葉には嘘がなかった。
だから夏帆はいつでも、どんなときも安心して彼の側にいられた。
「…大ちゃんがいたから、私は独りじゃなかったの…小さい時からずっと…」
妙に伝えたくなったが、昂ぶる想いが邪魔をして上手く喋れない。
「寂しかった私を見つけて…守ってくれた。陽の光の暖かさを教えてくれた…花の香りや木々のざわめきに気づかせてくれたの」
頰を涙が伝った。大地のゴツい指がそれを柔く拭う。
「……私の望みは1つだけ……
どうか大ちゃん、私と、ずっと……一緒にいてね」
言いたいことは山ほどあった。けれどその言葉は思うようには出てきてくれなかった。
いつもの大地なら、ここで不安定な夏帆を馬鹿だな、と言って安心させてくれるところだった。
予想に反して彼は、困ったような顔をして、夏帆の頰にキスをした。
それはまるで儀式のようだった。
「泣くな、夏帆……。
夏帆が泣いてたら、俺は辛くて堪らない。夏帆のことが心配で、心配で……」
彼も言葉に詰まったようだった。
「ずっと好きだし、ずっと大切だ。
どんな時でも一緒にいるから、絶望するな」
両手を痛いほど握られ、真剣な瞳が交わると金縛りにあったようになった。
「……どうか元気になってくれ。それだけが俺の望みだ」
どういう意味だろうか。私は今、こんなにも元気なのに……。
……大ちゃんがいてくれたら、私はいつも元気だよ……?
そんな言葉が出てこない。
感じていた彼の温もりが途端に不確かなものとなり、焦りが生まれる。
それでも彼はもう一度、夏帆を抱きしめる。
愛おしむように、そっと。
大切なことを忘れてるーー
そう思ったところで、
目が覚めた。
そう、覚めてしまったのだ。
目覚めたことに気づいた夏帆の気分は、一瞬で最悪へと転落した。
けれど大地の言葉がまだ夏帆の中に残っていて、それらを忘れまいと必死に反芻した。
思い起こせば温もりさえ、感じられる気がする。
彼が馬鹿な私を心配して、会いに来てくれたのだろうか……。
胸が苦しくなるくらい締め付けられて、思わず両手を握りしめる。
まだ今見た大地から離れたくなく、ベッドを出たくなかった。
まるでここに留まることで大地にまた会えると信じているようだった。
求めようと思えば思うほど、意識は覚醒してしまう。
思わず寝返りをうったら何かに当たるのを感じた。
まだ薄暗い部屋の中、涼真がベッドに上半身だけを預けスヤスヤと眠りについている。
彼の姿に驚き、胸が熱くなる。
「……ごめんね、涼真くん……」
誰にも聞こえない微かな声でそう言い、枯れたはずの涙が再び瞳に溜まるのを感じた。
20
大事な人を亡くすというのはこういうことなんだろうか。
夏帆に記憶が戻ってから早1週間が過ぎようとしていた。
あれ以来、夏帆は糸が切れたようにどこへも行こうとせず、食事もほとんど喉を通らず、どんどん痩せてしまっていた。
夏帆の意識はまるでこことは離れた場所にあるかのようで、涼真は怖かった。
このまま大地が夏帆を連れて行ってしまわないか、正直なところ気が気じゃなかったのだ。
そんな時でも夏帆は、涼真のことを心配する。
時折気づいたように笑ってみせては、早く携帯を貰いに行って、うちに帰らなきゃと呟く。
しかしそれは夏帆にとっては酷なことだった。大地がいないことを更に思い知らされる拷問のようなものだったのだ。
だから涼真は何も言えなかった。
涼真がバイトの間、春翔や天音に来てもらったり、夕貴に来てもらったりした。できるだけ夏帆を1人にはさせたくなかったのだ。
本当はバイトなど行きたくはなかったが、行かないことで夏帆を追いつめることは分かっていた。そのことが切なく苦しかった。
時が過ぎるのをただただ待ち侘びていた、そんな夏の終わりだったーー。
21
何度目かの大地の夢を見た後、これじゃダメだ、と思った。
自分の弱さのせいで逃げ出し、記憶をなくし、最期に大地に直接会える機会さえ失ってしまったことを、夏帆は悔やんでも悔やみ切れなかった。
せめてお葬式に出たなら、少しは納得いったのだろうか。彼がいないという世界が理解できたのだろうか……。
今となっては確かめようもない。
涼真の留守時に、警察署に行って手に取った携帯を眺める。
充電して開いてみると、案の定たくさんの着信があった。
震える指でラインのトークを見ると、大地と会う前の楽しそうな会話が目に飛び込んで来た。
あの日、自分と会う約束さえしていなければ、大地は早く帰宅することもなかった。
自分さえいなければ、彼は助かったのだ。
考えても仕方のないことを延々と考える。
未だ治らない痛みは、途方もなく自分を打ちのめす。
しかしそれは、夏帆にとっての罰のようなものであるにも関わらず、その痛みがなければ生きてはいけなかった。
夏帆には彼を忘れた罰が必要だったのだ。
1人で逝かせてしまったことの贖罪はどれほど考えても考えつかなかった。
夢の通り、大地は夏帆が苦しむことを望んではいない。そんなことは分かっていた。
しかし彼の存在しない世界は色がなく、あまりに空虚に感じられる。
死ぬのが素敵なことに思えるくらい、大地のことを愛している。
彼の側にいられれば、何もいらなかった。
けれど、それは違う、と思う。
死ぬことは違う、と。
自分の最後の理性を繋いでいるのは涼真だった。
彼の瞳や仕草や優しい言葉は全てを語っている。何も言わずとも涼真の言いたいことは、夏帆に伝わってきていたのだ。
こんなに辛い思いを他の人にさせるのは違う、と夏帆の中のまだ生きている自分は叫んでいた。
自分は楽になったとしても、それが結果として新たな哀しみを産み出すのは違う、と辛うじて分かるのは、涼真が側にいたからだった。
22
涼真が帰宅したとき部屋には誰もいなかった。
見知らぬ便箋がテーブルに置かれていることにすぐ気がついた。手に取るとそこには夏帆の整然とした言葉が綴られていた。
こんな日が来ることを予期していたにも関わらず、心は傷んだ。
探したい気持ちを抑え、もう遅い、と自分に言い聞かせる。
部屋の明かりをつけることも忘れて、玄関の灯りに仄かに照らされた文字を追う。
ーー
涼真くんへ
黙っていなくなってごめんなさい。
涼真くんの顔を見たら、決心が鈍ってしまうからこんな形にしてしまい、本当にごめん。
今日、警察署に行って自分の所持品を返してもらいました。それを眺めながら思ったの。
やっぱり長野に帰ろうって。
あそこには大ちゃんとの思い出があります。
そして、彼の家族も友人もいる。
そんな人たちと会って、私は向き合わないといけない、と思います。
まだ実感がなくて、毎日夢のようで、自分ではどうしたら良いかよくわからないのだけど。
でも私は夏帆として戻って来たから、やはり夏帆としての人生を、失った時間をやり直さなきゃいけないのです。
涼真くんと過ごせた日々は、記憶がなくて不安な毎日だったにも関わらず、真綿で包まれているように温かいものでした。
それは涼真くんが私のことを守ってくれたから。感謝してもしきれません。
こんなことを言っても無駄かもしれないけど…
どうか心配しないで下さい。
私の命は大ちゃんの温かさによって繋がれ、そして確かに涼真くんの優しさによって救われているのだと思います。
だから安心して。
私は…これからも生きていきます。
ただ、今はまだ大ちゃんとの思い出の中で生きていたいのです。彼が長年住んだ街で、彼との思い出を1つずつ思い出し、彼の声を聞いていたいのです。
私が飽きるまで。私が諦められるまで。
彼のことを感じていたいのです。
ねぇ、覚えているかな?
あなたのアパートに初めて泊めてもらった日のことを。
私は「恩返しさせていただきます」って言ったんだ。
でも何も出来ていないでしょう?
あなたがしてくれたことの半分も返せていない。
だから、ねぇ、いつか。
いつか又涼真くんに会いに来たいな。
私の止まった時を動かすことが出来たなら、今度こそあなたに恩返ししないとね。
でもあなたは忘れちゃうかな。
それで、良いんだと思います。
あなたは幸せになれる人だから。
私と出逢ったことで、優しいあなたはたくさん悩み、辛い思いをしました。
本当に申し訳なく思っています。
どうかこれからは自分のことを一番に考えて、幸せになってください。
どんな時も側にいてくれて、心からありがとう。
夏帆
ーー
「馬鹿だな、夏は……」
何も言えなかった。自分にとって夏と過ごした時間がどれほど大切だったのか、何も伝えられなかった。
悩み戸惑いながらも、夏と笑いあえた日々こそが自分にとって幸せだったのに……。
夏はそのことに全く気付いていなかった。
それこそが今胸を焦がすくらい欲しいものなのに…。
意識して深呼吸をする。
時は動き出した。
自分はまた元の生活に戻らなきゃいけない。
そんな風に思いながらも涼真は動けずにいた。
ボディバッグを下ろすこともせず、右手には便箋を持ったまま、薄明かりの中ぼんやりとしていた。