想起
14
レンタカーを借りて夏がカーナビに入力した住所に向かっている時だった。
「…あの…この住所、実は大ちゃんのなの」
恥ずかしがって言ったその言葉に少なからずショックを受けながら、涼真は表情に出さないよう努める。
「私、家の鍵がどこにあるか分からないから……大ちゃんなら持ってる…と思う」
昨夜から夏が「大ちゃん」という名前を発する度に、特別な物を感じていた。
それはまるで、自分にとって大切で仕方ないものを、壊さないようにそっと守るみたいな言い方だった。
だから涼真には予想がついていた。
彼が夏にとって過去の存在ではないということに。
しかし今時5年生の初恋がこの年齢に至るまで変わることなく実を結んでる、なんてこと涼真にとっては信じ難かった。
というか、単に信じたくなかったのだろう。
なんと言ったら良いのか分からないまま、できるだけ不自然じゃないように言葉を発する。
「そうか。彼と付き合ってるの?」
頰を赤くした夏を見て、胸が焦がれるような思いがした。
夏から目を背け、別の話題を振る。
「そういえば夏の本名って何なのかな??もう分かった…んだょね?」
夏は隣でクスッと笑って答える。
「夏の帆って書いてかほ、なの。すごい偶然でしょう?涼真くん、すごい。」
自分が適当につけた名前が夏の本名と被ってるなんて…。
「俺って超能力があるんじゃ」
珍しくおどけた涼真に夏帆は言った。
「涼真くんは夏ってそのまま呼んで?涼真くんが付けてくれたこの名前、気に入ってるの」と笑った。
大地が居るというアパートに着き2階へ上がっていく。
涼真はドキドキしていた。
夏帆が迷うことなく向かった203号室の表札には橋下、と書いてあった。
夏帆の動きが一瞬止まった。
「……大ちゃんの苗字じゃ…ない」
予想外だったのだろう。動揺がこちらまで伝わってきた。
しかしこうしていても始まらないと思ったのか、夏帆はチャイムを鳴らした。
誰も出ないかと諦めかけたところ、学生であろう若い男が怠そうに出てきた。
「…何か?」
欠伸をしながら問いかける。
一瞬怯んだ夏帆だが、すぐに気を取り直して尋ねた。
「あのっ、私、楠と申します。つかぬ事をお伺いしますが、藤本大地って人、ご存知ですか?こちらに住んでると伺ったのですが…」
「はぁ…ちょっと分かんないっす」
「…っ、あのあなたはいつからこちらに住んでいらっしゃいますか?」
「……2年前くらいかな」
夏帆は涼真から見てハッキリと分かるくらい落胆していた。
「…突然すみませんでした。ありがとうございました」
扉が閉められ涼真たちはしばし茫然とする。
夏帆が思い出した記憶が最新のものでないということだけが分かったが、次にどうするか決めかねていた。
「鍵はないから、家には入れないだろうけど、夏の家の前まで行ってみない?」
気分を変えるべく涼真は提案した。
しょんぼりした夏帆が「そうだね、お願いします」と応えた。
「おばあちゃんはね、私が高校を卒業する少し前に亡くなったの。それまでは一軒家に2人で住んでたんだけどね、広い家に1人だと寂しいから、大学進学前にこっちに引っ越したんだ」
誰に話すでもなく独り言のように夏帆は呟く。
涼真は夏帆のあまりの境遇に反応しかねていた。
彼女にとって家族と呼べる人はもういない。
捜索願いを出す人すらいなかったのだ。
その事実に切なくなる。
だからこそーー
だからこそ夏帆にとって大ちゃんは大切だった。
誰よりも一番に思い出すくらい。
なんだか夏帆の寂しさがほんの僅かだが涼真に伝わった気がした。
塞がった気持ちのまま車を走らせると、比較的新しそうなこじんまりしたアパートの前に着いた。
「さっきは頭になかったんだけど、大家さんが一階に住んでるからスペアキー貸してもらえると思う」
「ちょっとここで待っててくれる?」
うん、と涼真は頷く。
夏帆がいなくなってすぐ、俺も行くべきだったか…と思ったがもう遅い。
窓の外に目を向けると、なんとも言えない牧歌的な風景が広がっていた。
先ほどーー
大ちゃんのフルネームを聞いた時、何か引っかかるものを感じた気がしたが、気のせいだったのだろうか。
涼真は、なんとはなしに携帯を開き、検索をかけたーー
15
勢いよくドアを開けた大家さんが、慌てた様子で声高に叫んだ。
「まぁまぁ!夏帆ちゃん!!!一体今までどこにいたの???大丈夫だったの??!」
ものすごい剣幕に驚き、夏帆はかろうじて頷いた。
「警察から連絡が来たからずっと心配してたのょ?!夏帆ちゃんの財布も携帯も全て警察の人が預かってくれてるって言ってたわょ。
そんな状態で、今までどこで何してたの??!」
「……ご心配おかけして、すみません」
警察に私の持ち物が……
それ以上考えようとした途端、頭痛がした。
夏帆が言葉を紡ぐ前に大家さんが畳み掛ける。
「何かあったんですか、って言っても財布等預かっているので、楠さんご本人が帰宅したら連絡して取りに来るように言ってください、の一点張りでね。
そりゃあもう心配したんだから〜。置き引きにでもあったの?今までどこに…」
繰り返される問いに対して何とか反応する。
「東京に住んでる親戚のところにお世話になっていたんです。ちょっとそちらで親戚間のゴタゴタがありまして……中々こちらに戻って来られませんでした」
大家さんに聞かれることを想定して、車中で作り上げた話を、できるだけ嘘に聞こえないよう注意をして言葉を紡ぐ。
「…しかも外出中に目を離した隙にカバンを盗られてしまいました。…鍵までなくなってしまったので、大家さんに申し訳なくて戻りづらくて…」
正直に話しても混乱させるだけだろうし、自分自身混乱していたので、早く1人になって考えたかった。
「そうなの?…大変だったわね〜〜でも、とにかく見つかって良かったわ」
「はい、ありがとうございます」
「…けど戻ってきたのに、また東京に行かなきゃいけないなんて大変ね…」
…やはり東京にいる警察から連絡があったということなのか…。
「……あの、その警察の方の連絡先、ご存知ですか?」
「もちろんですよ、念をおされちゃったからね!ちゃんとメモったわよ、すぐ電話してみてね」
「はい、いろいろ本当にすみません。あと重ね重ね申し訳ないのですが、スペアキーをお借りしてよろしいですか?今日は部屋に戻ろうと思っております」
「あぁ、そうよね。ちょっと待っててね」
大家さんはせっかちな様子で行ったり来たりして、メモと鍵を渡してくれた。
「…なんか夏帆ちゃん、顔色悪いわね…。今日はゆっくり休みなさいね?」
再度お礼を言い深々と頭を下げてからその場を去った。
あまり深く追求されなくて良かった、と夏帆は静かに安堵の息を吐いた。
「狭いところだけど、どうぞ入って」
夏帆が涼真に向かって話す。
ここに戻るのは一体いつぶりなんだろうか、そんなことすらまだ分からない自分に苛立つ。
見慣れない新しい靴や小物がチラホラあるが、自分の記憶の中の部屋とそれ程相違がなく安心した。
冷蔵庫の中身を心配していたが、驚くほど少なかった。何日か東京に行く予定があったんだろうな、と検討をつける。
「えっと……飲み物…紅茶やお茶しかないんだけど、どうしようか?近くに自販機あるから買ってこようか」
キッチンから涼真に話しかけると、彼が何かに見入ってるような顔が見えた。
「涼真くん?飲み物、どうする?」
再び話しかけると、涼真はハッとした顔になった。
「あ、ごめん。ちょっとぼぅっとしちゃった。さすが夏、綺麗にしてるね」
「え、そんなことないよ。あんまりいろいろ見ないでよ?恥ずかしいから」
涼真が気まずそうな顔になる。
「ごめん」
夏帆はそんな涼真を見て思わず微笑した。
「紅茶でも大丈夫?」
涼真がうん、と頷く。
飲み物を出して自分も涼真の斜め横に座る。
「さっきね、分かったことがあるの」
「え…?」
涼真はなぜか心配そうな顔をした。
「私の携帯も財布も全部、東京の警察のところに届けられてるんだって」
涼真が息を呑む。
「そう、だったんだ…」
涼真の反応に何か違和感を感じ、顔を見つめようとしたら「でも見つかって良かったね!」と慌てたように彼が話を続けた。
「うん、だから結局また東京に行かないとね」
へへっと恐怖を隠して笑う。
まだ警察に行くのが怖いと思っている自分がいた。しかしそんなことはもう言ってられない。
自分では表情に出していないつもりなのに涼真は真剣な顔で質問した。
「夏、警察に…行けそう?まだ怖いんじゃないのか…?」
なんでこの人には何もかも分かってしまうんだろう、と思う。
「俺、一緒に行くよ。少しでも気が楽になるなら」
何か述べる前にそう言われてしまった。
夏帆の胸がきゅうっと締め付けられる気がした。
おもむろに立って、寝室に行く。
予想していた場所にそれはあった。
このくらいで足りるだろうか、と少し逡巡してお金を封筒の中に入れ、涼真の前に座る。
「これ、少しだけど受け取って」と封筒を差し出す。
勘のいい涼真は「良いよ、いらない」とすぐさま返答する。
夏帆は毅然として言う。
「そんな訳にはいかない。どれだけ助けてもらったか知れないもの。本当はもっとたくさん返したいの。…でも涼真くんがそれだと受け取ってもらえないの分かってるからこの額なんだからね?」
涼真は戸惑いを見せたが、夏帆の引かない態度を見て観念したように言った。
「…却って悪いな。けど、これもらっちゃって大丈夫なのか?」
「うん、安心して。ちゃんと通帳とかはあったし。大丈夫」と笑う。
「じゃあ、もらうけど、条件がある」
夏帆は不思議そうな顔をして涼真を見つめる。
「夏が心から安心できるまで、俺に付き合わせてくれ」
涼真の怖いくらい真剣な瞳に驚き、夏帆は言葉をなくした。
大ちゃんのことを思った。
ここにはいない彼のことを。
ひどく会いたくて、本当は気が気じゃなかった。思い出せてからずっと、会いたかった。
涼真くんと行動すること、彼は嫌がるに違いない。
大ちゃんのことを忘れていたとは言え、涼真くんに随分依存していた。
涼真くんの側にいたいとひと時でも思っていたこと、それがとてつもなく恥ずかしく、悪いことのように思えた。
涼真くんは純粋に私を心配してくれている。そのことが自分の心を穏やかにさせると同時に落ち着かない気持ちにさせた。
一体何て言ったら良いのだろう。
必至に頭の中で言葉を繋ぐ。
どうしたら、涼真くんに悪くない言い方ができるのだろうか。
「大ちゃんのことは分かってる。彼に誤解されたくないことも」
涼真が言う。
あ、このパターンはダメだ。夏帆は焦る。
「でも夏が記憶を失ってからずっと心配だった。だから俺も安心したい。夏が心から笑えるまで、側にいる。夏が幸せになれると分かれば、俺はちゃんと消えるから」
どうしてこの人は、私が断りにくい言い方を知ってるんだろう。
自分の中で言いようのない感情が波のように押し寄せてきて、何と言って良いか分からない。
「夏が了解してくれないと、俺はこれを受けとらない」
「……」
「そんな困った顔しないでよ」
「…涼真くんって普段優しいくせに、ここぞと言う時ほんと頑固よね」
「…そうかもな」
「心配しすぎなのよ」
「誰がさせてんだよ」
「……私は大丈夫だって、すぐ分かるよ」
「あぁ、その時まで、な?」
夏帆の苦笑いが了承の合図だと、気づいた涼真は笑った。
16
夏帆は今ーー
東京にいる。
自宅を調べていたら、大地の現住所らしきものが出てきた。
そうしたらいてもたってもいられなくて、東京に舞い戻ってしまった。
涼真には携帯や財布を返してもらうため、と言ってはいたものの、大地のことは大きかった。
涼真は今日バイトでいない。あれだけ彼に「行動するときは一緒に」と念を押されたものの、大地に一刻も早く会いたい気持ちで落ち着かず、単独行動をしてしまっている。
大ちゃんに会えたら、その後一緒に警察まで行ってくれるかしらと考えたら、頰が緩んだ。
今日が土曜日なので、大ちゃんはお家にいるんじゃないか、という期待が大きかった。
相変わらず蒸し暑い日で、空はどこまでも蒼かった。
突如ーー
静寂を突き破ってサイレンの音が聞こえてきた。
と同時に夏帆の目には
ある映像が走馬灯のように映し出されたーー