客室
「クロ君...ね!よろしく!」
差し伸べられた手を握り返しながら、心の中では、モヤモヤした違和感とも呼べない違和感に襲われていた。例えるならば、正解の絵のない間違い探しの様。正解がないからわからないが、間違っているということだけはわかる。しかし、正解が分からない以上、それが本当にあっているのか、間違っているのかを判断できない。
「クロ...。それは名前なんですか?それとも苗字ですか?どうでもいいですけど、ちゃんと名乗らないとは、礼儀知らずな方ですね。」
そう言われても仕方がない。だけど、自分でも理解ができていないから言い返せないんだ。
思うことを言葉にもできず、スペードの言う言葉が突き刺さる。
「まぁ、事情は人それぞれだろ。他人を深く詮索する方が、失礼じゃないかい?それに、クロ君は俺たちの大事な、大事なお客様だ。同じ屋根の下にこれから住むんだ。仲良くした方がいいだろ?トラちゃんは特にな。」
シグさんの大人な対応に、スペードは口を閉じた。
一気に冷えあがるこの場の空気。それに耐えかねたのか、ファミルトンが口を開く。
「ん~と...じゃあ、つのる話もなさそうだし...クロ君に部屋の案内してきます。よし、クロ君、行くよ!」
ファミルトンさんに強引に腕を引かれ、オレはその場を後にした。
だいたい、三十分ぐらいだろうか。ファミルトンさんとこの塔のような、長屋のような家をまわった。どちらとも言い切れないのは、この可笑しな建物の構造にある。確かに、外から入ってきた時には、大きな下り階段があった。結構な段数で、ビルの5か6階分の高さはゆうにあったと思う。しかし、外の空気を吸おうと言われて外に出た時には、扉一つで入ってきた扉に出ていた。上にあるはずの場所に、上へ上ることなくたどり着ける。
他にも、変わったものは山のようにあった。例えば、各部屋へのアクセス。部屋は、そこにあるようで、そこにない。うまく説明できないが、一つの部屋に通じる扉は多いが、部屋から出る扉は一つしかないのだ。何度も理解しようとしたが、うまく理解できない。原理を聞いてみても、「そういうものだから」と言われた。馬鹿にされているのかもしれないが、まぁ、説明されても理解できないだろうということは理解した。
他にも、やたらと多い部屋数や、それに対して一個しかないトイレ。壁一面に扉しかないホールでは、文字でもないのにゲシュタルト崩壊を起こすかと思った。
応接間や実験室、薬剤室に娯楽室など部屋は多いなりに有効活用されていた。その中に、自分の部屋と言って見せられた部屋もあったが、正直説明が必要だとも思えないくらい普通の部屋だった。ベッドがあって、机と椅子が一つ。他には何もない。家具なしのアパートを思い浮かべてくれれば、そんな感じだ。
色々見て回ってわかったのは、とりあえず迷子になるのは確実だということ。何度も、どの扉がどの部屋に通じているのかなどを聞いたが、一向に理解できる気がしない。慣れればわかるとは言われたが、慣れるまでにミノタウロスの迷宮からでられないのではないか、とも考えていた。
「お風呂は基本いつでも使えるわ。朝食と昼食は別々だけど、晩御飯は一緒に取ろうってなってるの。時間はだいたい7時から9時の間かな。あとは基本的に自由だけど...
突然、ここにきてファミルトンさんが声を細めた。
「自由時間なんて無いに等しいと思った方がいいわよ。たぶん、起きるのが嫌になると思うかも。」
「あ...はい...」
たいして大事そうなことでもないじゃないか。俺はそう思っていた。それなりの覚悟をしてここに来たのは疑いようのないこと。踏み入れるはずのない世界に、足どころか体ごとどっぷりつかりに来ているのだから、そのぐらいのことはわかっている。分かっていると思っていた。しかし、現実は甘くない。それもわかっている。想像を絶することがこれから起ころうとは思いもしなかった、なんて言葉は安い言葉だと腹をくくって来たんだ。だが、現実は甘くないなんてものでは無い。あんな安上がりな言葉を使っても5000字ぐらい足りない程の事がこの時の俺を待っていた。
「じゃあ、今日はこのぐらいにして、晩御飯までは...んーと...とりあえず、部屋移動の復習でもしといて。えーと、これがとりあえずのメモ。だいたいはこの通り...のはずだから。」
ファミルトンさんは一枚の紙きれを俺に渡し、そのまま手に持った...ペン?...で身長ぐらいの大きな四角を空に描いた。すると、その四角形にぴったりと収まるような扉が現れた。
「それじゃあ、私もやることがあるから。またあとでね!」
扉は無造作に開き、ファミルトンを飲み込むと、静かに閉まり、そのまま姿を消した。モノが消えるという現実を理解するのに時間はかかった。少し手を伸ばして、恐る恐る扉のあった場所を触ってみたが、見ての通りの空っぽ。なにもない。考えても仕方がないことはわかっても、体と頭がうまくつながらないということを初めて体験した気がする。というより、初めて魔法を理解しようとしたのがこの時だったのかもしれない。
それから二、三分して気づいたが、あのペンを貸してもらえばよかったじゃないかと俺は思っていた。それもそのはず、メモを見る前からなんとなくは予見していたが、読めない。感覚でいうと、初めてアルファベットを見た感じ。文字なのか絵なのか。発音なんてわかりもしない。いずれ見慣れれば、感覚でわかるだろうが、それにはまだ時間が必要だろう。
それと、この文字を見て、ふと思ったことがある。なんで、俺には相手の言葉が分かるのだろうか。読めない、しゃべれないのは確か。でも、会話は成り立った。俺は、日本語をしゃべった。向こうの言葉も日本語に聞こえた。でも、言葉の本質はどうやら違うみたい。じゃあ、スペードの飛ばした赤い球。それが出る前に聞こえた言葉は?それも、文ではないが、確かに目的を持つ言葉のつながりに感じた。あの言葉は、なぜ日本語のように聞こえなかったのだろうか。何か特別な意味でもあるのだろうか。いずれ、俺にもわかるのか。
少し頭を使うと、ドッと体に疲労感が走った。
そういえば、俺はそんなに頭良くなかった。考えても仕方ない。
疲労感にさいなまれ、その場に腰を下ろす。仕方がないので、読めもしないメモ用紙を眺め、大きく深呼吸をした。
その瞬間、とても大事なことに気付いた。それは、どんなに頭がよくない人でも気づくだろうこと。よく考えると、今まで考えていた何よりも大事なことだ。メモが読めないなんてどうでもいい。いや、よくはないんだ。読めれば解決できるが、そんなことに割く時間はない。
要するに...
どうやって、自室に帰ればいいんだ?