新世界
風。それが一番始めに感じたものだった。風といっても、突風。生きている龍の様に吹き荒れる風が、肌を切り裂いていく。
「起きろ!お前には寝てる暇はねーぞ!」
聞きなれた声で目を開ける。目に入ったのは、しなびた緑。ところどころハゲて見える岩肌。
上体を起こして、周りの環境に目をやる。
驚愕。唖然。そんな言葉で片付けられたら、どれほど良かっただろうか。感情が傷つくのを恐れて、殻にこもる。初めてだった。何も感じないのは。
断崖絶壁。そびえ立つ岩の上。下が見えない。白く淡い雲。眼下に広がる世界は、白一色だった。
「まぁ、驚かない様にしとけ。これでも序の口だからな。二週間が経ったら、お前もこの岩なんてチワワに見えてくるだろうよ。」
イマイチ何を言われているのかわからないが、何よりも、今この状況を教えて欲しい。
「そ、それより…ここ…どこだよ!」
「ん?ここか。この岩を降りたら、教えてやるよ。ってか、いずれわかるから。」
もったいぶっているのか、全然教えてくれる感じがしない。
うちの家の近くじゃないことは当たり前だ。こんな摩天楼みたいな岩、見たことがない。日本でもなさそうだ。それより、どうやってここに来たかを疑うべきなのだろう。そこまで考えが回っていない程だったのだ。
「降りる!?降りるてなんだよ!!こ…こ…こんな…こんな高いところから、どうやって降りろって言うんだよ!!」
「ハァ?んなもん、自分で考えろ!」
突き放す様な言葉に、絶望に陥る。
「一日。今日1日が制限時間だ。天井の日が落ち、月が上るまで。それ以上はゆっくりしてられねぇぞ。」
グリモは、そのまま開いた自身を閉じた。
自体が理解できず、もう一度眼下の世界を覗き込む。
あいも変わらない白一色。そり立つ岩肌に沿って登りくる強風。
寒気ではなく、純粋な身震い。体は小刻みに震え、鳥肌がどころか、体の毛の一本一本を全て感じられるほどになっていた。
崖まであと一歩のところから先に進めない。進めないでは語弊がある。進もうとする力より、後退する力の方が強くなっている。足は前に出たくても、心が体を下げる。
岩の上には何もない。ロープになりそうなツタ。パラシュート。飛行機。ありとあらゆる降りるための手段を想像するも、そんなものがあるわけもなく、ましてやあったところで使い方のかもわからない。想像したところで、出てくるわけもないのに、想像力だけが頭を駆け巡った。
想像は非常に楽だった。考えるだけで時間は過ぎ、考えているそぶりもできる。実際、この絶壁を手で降りようなんて思う奴は、根っからのアホか、命知らずのバカだけだ。そう考えて、なんの行動も起こそうとしない自分を正当化し続けることに、何時間も無駄にした。
始めは明るかった空も次第に暗くなり、高さのせいか、急激な寒さに体力も思考も奪われて行く。
恐怖の鳥肌は寒さにも反応を示し、体力の低下を危惧した体は、思考の幅を狭めて行く。もう何も考えられない。考えている余裕がない。何かを考えてていたら、その前に倒れてしまいそうだ。
ずっと考えていたことだが、グリモに助けを求めることはどうだろうか。発想としては正解なのだろうが、
「自分で考えろ」
の一言が邪魔をする。
太陽は消え去り、それを追う様に上る月。微かな暖かさも消え、極寒の夜が訪れる。
寒い…
寒いと言う文字だけが、頭の中を泳ぎまわる。この寒さの中で、何かを考える方が無理だ。そう感じる自分がいたのかいなかったのかもわからない。
火…
それは、急な出来事だった。どこで繋がったのかはわからない。寒いと思っていたからなのか。それとも、ただあの日を思いだしていたのか。
頭の中に、あの時見た火柱が浮かび上がる。
火… 炎… 火柱…
『火』の一文字が、まるで連想ゲームの様に広がって行く。
そして、たどり着いた。
「魔法」
縮こまった体を奮い立たせ、無造作に捨て置かれた本へと歩み寄る。
「どうした?ギブアップか?」
体を起こし、スルリと嫌味を吐く一冊の本。
「降りるぞ!ここから!」
なんで、自分からこんな強気な言葉が出たのかわからない。だが、自信はあった。
「ど、どうした。気持ち悪いぞ。」
別に、頭が冴えているわけではない。むしろ、頭の中はカチコチに氷付いてる。だからこそ、無神経な行動が取れた。
グリモを掴み取り、右手で背を力強く握る。
「お…お…おい!気でも狂ったか?」
「こんなご主人様を選んだお前の運の尽きよ!」
下手をしたら死ぬかもしれない。他の人が見ればバカだと思うだろう。
そうさ。俺はバカだ!
「行くぞ!グリモ!」
思い切って、断崖絶壁から飛び降りる。
「死ぬ気か!バカか!」
「俺、やっぱバカだわ!『燃えろ』で燃えるんだ。なら、『飛べ』で飛ぶだろ!」
「そんな安直な考えで、この崖から飛んだのか!」
「何秒後に地面につくかはわかんねーが、お前も壊れたくなかったら力を貸せ!」
これが正解である確率は、俺の頭の中では1%もない。でも、これ以外思いつかなかった。だったら、この答えは俺の中での100%だ。
「強く念じろよ!」
グリモが一言添える。
「終始、正解かどうかは言ってくれないんだな。」
空気抵抗がヒドイ。まぁ、こんなところから飛び降りたことはないからな。死んだら死んだか。
頭の中ではそう考えているのに、全然死ぬ気がしない。むしろ、本当に飛べる気がする。
頭の中を
「飛べ」
の一色で塗りつぶす。他の雑念を捨て、この一言に集中する。
飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ………
体はピクリともしない。
飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ………
まだ、何も起きない。
薄眼を開ける。体は雲を通り越し、目の中に緑と茶色が入り込んでくる。
飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ飛べ………
まだ体がついてこない。
緑の色が、より鮮明に映り込む。もう距離はない。
「意志の力だ。強い意志の力を持て。」
あと、300メートルぐらいだろうか。重力の加速で、あと10秒もないだろう。次で決まる。
拳に力を入れ、全神経を次の一言にかける。顔面に刺さる様に当たる風を、はねのけん一喝。
今だ!
「飛べェェェェ!!!!!!!!」
体が何かに引き上げられる。グワリと持ち上がり、空気抵抗がなくなる。
まさかと思い目を開けると、俺の体は地面になかった。
「飛んでる!」
「バカ!意識を乱すな!」
俺を支えていた力が消える。
「ヤベッ!」
ドン!
目の前が真っ暗になった。
俺は死んだのだろうか。
遠い意識の中、ただそれを感じていた。1分ぐらいかな。でも、それぐらいの長さ空中を落ちていたんだ。それで、頭を打って………体は血の海に放り出されたと思うのが普通だろう。
「バーカ!死んでねぇよ!」
エ!?
重いまぶたを開ける。
目の中に入り込む光。眩しさを感じて、また目を閉じた。
「寝てんじゃねぇ!」
「イテッ!何にすんだ…ッて…あれ?」
目の前には何度も見た本。下を向くと、見慣れた手、足、体。
生きている。俺は、生きている。
「乱雑な方法だったが、悪くなかったぜ!あんな発想、そうそう思い付くもんじゃねーよ。第一関門突破だな!」
それを聞いて、急に気が抜けた。生きていることが、ここまで嬉しいと感じたことはない。
「ごめん、ちょっと…ギブ…」
意識の底に沈みゆく体。
これ以上ない程疲れた1日だった。これからは、それが毎日続くのか… 正直、前途無謀だな…
寝る間も惜しんでやると言っていたグリモも、今の俺を止めようとはしなかった。
鍛錬に使える時間は、あと13日。この短い時間で、全てが決まる。