最後の晩餐(原作:工場長先生『とんかつ一人前』)
これは、カンコツ工房先生の、“換骨奪胎小説プロジェクト”の暖簾分け作品です。依頼を受けた作品を新たに作り直す……簡単に言うとリメイクしてみよう、という企画です。今回は工場長先生から依頼を受けました『とんかつ一人前』をリメイクしてみました。工場長先生の作品とあわせて、是非読んでみてくださいませ。
女は見ていた。自らの手を濡らす、真っ赤な鮮血を。それはまだ乾きもせず、ヌメヌメとした感触を女の手に残し、その手全体を、いや、その先にスッと伸びる、鋭いナイフ全体をも朱に染めていた。
震える体。そして女はその震えと共に顔を上げると、とあるモノへと目を向ける。
そう、そこにあるモノとは、
「う……」
腹を押さえ、うめき声を上げながら床に転がる男の姿。痛みを堪えるよう、押さえたその腹からは、女の手を濡らす同じ色の液体がドクドクと流れ出ており……。
許せない、許せない!
止められない怒りに我を失いながら、また一方で、殺したと思ったのにまだ生き続けている男におののきながら、何かに憑かれたよう、女はナイフを何度も何度も振り下ろす。
そう、飛び散る血にも構わず、よぎる罪の意識にも構わず、とにかく息の根を止めねばと、体中を、部屋中をその朱の色に染めながら……。
※※※
夜、帰宅ラッシュを少し過ぎた辺りの時間帯、だがそれでもまだまだ数多の人々で雑多としている新宿駅の構内を、一人の男が足早に歩いていた。歳の頃は二十代後半くらい、風体は、会社帰りのサラリーマンといった感じの、中肉中背の男である。
その男は眠ることの無い大都会の、この広大な構内を、迷うことなく、雑踏も慣れた風に通り抜けながら、とある場所へと向かっていた。
その場所とは、新宿駅西口。
そう、そこから出て程近くにある、新宿高速バスターミナルに、男は用事があったのだ。
日はもう既に落ち、外は闇に包まれている。それでもまだ漂っている、日中の、夏の熱の名残に、男、久世弘はにじむ汗をぬぐうと、
ここにくるのは六年ぶりか……。
そう、この東京にきて十年、社会人になって六年になる久世。だが、住んでいる場所の関係から、また職場のある場所の関係から、実は新宿にはこの六年足を踏み入れたことは無かったのだった。なのに彼がこうして迷うことなくこの場を歩けるのは、それ以前、彼が大学生だった頃、彼の通っていた学校がこの地にあったからであった。
思わず湧き上がってくる何ともいえぬ感慨、それを胸に久世は込み合う改札を抜けると、ようやく駅の出口へとやってくる。
そんな久世の肌を撫ぜるのは、相変わらず湿った夏の外気。ムンムンとしたその空気に、久世は一旦歩む足を止めると、今一度額の汗をぬぐい、そしてすぐにまた歩き始め……。
新宿高速バスターミナル。
そう、今日はここから、この東京を出立する友人がいるのであった。その彼を見送る為、久世はこうしてここにやってきたのであった。
その者の名は、松本雄一。大学時代から続く長い付き合いの友人であった。
その彼、つい最近まで都内の小劇団に所属しており、大学時代からの夢、役者になるという夢をずっと追い続けていた。
そして、無名ながらも一応、役者として活動していたのであったが……。だが無名の役者などというものは、勿論それだけでは食ってゆけないもの。アルバイトをしながら、彼はどうにか生計を立てていたのだが……。いつまで経っても芽の出ない自分。不確か過ぎる未来。過ぎゆく時と共に、夢は絶望へと変わっていったのか、現実の、あまりに貧しい生活に疲れ果てたのか、とうとう見切りをつけて、実家の旅館を継ぐ決意をしたのだった。
その彼の送別会は、二週間ほど前に行われた。それは、大学時代仲の良かった仲間達が一堂に会する、久し振りの場であった。勿論久世も参加したかったのだが、仕事の関係でそうできず、ならばせめて見送りだけでもと、今日ここにやってきたのだった。
事前に電話で聞いていたバス乗り場、そこを目指して歩きながら、久世は近づきつつあるその場に、友人の顔を探してゆく。すると、それほど時を置くこともなく、久世はすぐに知る顔をそこに見つけることができ……、
「松本!」
まだ自分に気づいてないらしい彼。それに久世は思わず彼の名を大きく叫ぶ。するとその声に反応するよう、一人の若い男性がふいとこちらの方へと振り向いた。
あまり背の高くない、どこか中性的な雰囲気をもった人物。その人物は、久世を視線に留めると途端に表情を緩め、思わぬ友人の見送りに、目を細めて温かく出迎えた。そして、
「ほんとに来てくれたんだな、嬉しいよ、俺は」
「このまま顔も合わせずお別れなんて、寂しいじゃないか。この前会えなかったからな、せめて見送りだけでも」
それに、松本は淡い微笑を見せ、どこか憂いの表情でうつむいた。そして、不意に遠くを見るような眼差しをすると、
「本当は、こういう形で家に戻りたくはなかったんだけどな」
ポツリとこぼれた言葉。それは、彼の思いの丈全てが込められたかのような言葉で、久世の胸はチクリと痛む。そして更に、表には出ない、彼の心の叫びのようなものもそこにあるような気がして、久世は思わずかつてあった日々を頭の中に巡らせる。
そう、大学時代の、熱くこの先の未来を語っていた彼を。
役者になる、きっと叶える自分の夢を語った彼を。
そして、それから彼は確かに夢を追いかけた。彼なりに、何とかその夢をつかもうと、必死の努力で演劇に取り組んだ。だが結局、皆が思い描く役者、そして彼が目指す役者というものにはなれず……。そう、例えば、テレビドラマや映画の中なんかで活躍するような、有名な役者には……。その悔しさが久世にもひしひしと伝わり、思わずといったよう、慰めるべくポンと松本の肩に手を置く。
すると、その時……。
若い学生風の、ラフな格好をした男子達の集団が、笑いながら久世の前を通っていった。
サークルか何かの帰りだろうか、もしかしたら、久世達の通っていた大学の後輩かもしれない。
そう、かつてあった、それは久世達の姿。
それに久世は遠い目をしながら、
「あの頃は、何でもできる、何にでもなれるような気がしたよな。努力すれば、夢はかなうと思っていた」
「ああ。だが……もう、夢を見ていられるような歳じゃあ、なくなったってことかな。寂しいが、それが現実だよな」
再び二人の前を、かつての彼らが通ってゆく。いつも通っていた、駅から大学への、大学から駅への馴染みの道を。すると、
「もう一度あの頃に戻れたらな。あの頃に戻って、もう一度やり直すことが出来たら、何か違った未来があったんじゃないかって、思わないか?」
「ああ」
ぽつりと呟いた松本の言葉に、久世は同意するよう頷いた。そう、彼だけでなく、久世にも、輝いていた時がそこにあったから。世の中を知らず、ただひたすら自信に満ち溢れていた時が……。また一方で、これがかけがえのない時とも気付かず、無為に過ごしていたようにも思えたから、あの時をもっと有意義に過ごしていたら、何か違う自分がいたんじゃないかとつい思ってしまって……。
そして、駅へと向かってその姿を消してゆく彼らを追って、ふと駅の方へと久世は目を移すと、そこには……。
見覚えのある顔が、何かをキョロキョロ探すような表情で、足早にこちらへと向かってきていた。スラリとして背の高い、その者とは……、
「あ、久世君!松本君!」
久世達の顔をとらえ、途端に表情を明るいものへと変え、大きく手を振って更に近づいてくる。
その者……彼女の名は、安藤葵。
不意の、その彼女の登場に久世の記憶は過去に引き戻される。
彼女と過ごした、大学四年間を。
友達として、あくまで仲の良い友達として過ごした大学四年間を。
だが友達として過ごしながらも、彼は彼女のことがずっと好きだった。
例えば……そう、少し垂れた愛嬌のある目元が、スッと通った鼻筋が、さっぱりとした姉御肌の性格が。
その思いを胸に留めておけず、思い切って告白したこともあった。だが、彼女には他に好きな男がいて……。
「よかった、間に合って」
「ほんとに、来てくれるなんて……」
葵は、この前行われた送別会に出席していた。それを知っていた久世だったから、まさか彼女がここに来るとは思っておらず、ニコニコと笑顔で言葉を交わしてゆく二人を前に、ただひたすら驚くばかりで……。
すると、そんな久世の様子を察してか、松本が、
「昨日電話で話してね。久世も見送りにくるって言ったら、おまえに会うのも久しぶりになるし、仕事の後間に合うようだったら行くって、言っていたんだ」
確かに松本の言う通り、彼女と会うのは久しぶりになる久世だった。
そう、前に会ったのは確か三年前、彼女の結婚式で……。
相手は、安藤晋という、同じ大学の久世の友人だった。
そう、彼女が久世の告白を断わった理由、それが彼だったのだ。背が高く、端正な顔立ちをして話も面白い、まぁ、女なら思わず惚れてしまうだろう男、安藤。当時、彼女は久世ら共通の友人である安藤に恋をしていた。いつも彼を見つめているのを、久世は側でやはり痛い胸を抱えながら、静かに見守っていた。やがて二人は、葵の勇気の告白を切っ掛けにして付き合うようになり……。そして今、こうして旧姓島津葵から安藤葵になった彼女がいるのであった。ひたすら、葵に幸せになってもらうことを願っていた久世、勿論それを喜ばない訳はなかった。だが、その当時、久世はどこか複雑な思いを抱いていて……。
葵を愛するが故、というのも確かにある。
だがそれより、安藤には……、
「出発の時間は?まだ大丈夫?」
過去に浸る久世の耳に、不意に葵の声が入ってくる。それに久世はハッと我に返ると、目の前には彼女の声に答えるよう腕時計に目をやっている松本の姿があり、深くコクリと頷いていた。
「ああ、もう時間だな。そろそろ乗ってないとまずいかも」
そう言って、松本は傍らにあるボストンバックに手を伸ばす。
「向こうへ行っても元気でね」
「ああ、心機一転して頑張るよ」
「たまには連絡くれよな」
「ああ」
とうとうやってきた別れの時に、久世達はその時を惜しむように松本に声をかける。
するとそれに、松本は「じゃぁ」と言うと、ボストンバックを手に車内へとその姿を消していった。
それを、じっと見送る久世達。
そして再びその姿を目にすることを期待するよう、二人はその場で待っていると、恐らく席についたのだろう、期待通り、窓辺の一つの席に松本の姿が現れる。
窓に手を付け、にっこり笑って久世らに手を振る松本。それに久世らも微笑み返し、手を振っていると、やがてプシューという空気の抜ける音がし、バスの扉が閉まった。
とうとう出発の時だった。
少しずつ動き出すバスに、松本の姿も段々と遠くなってゆく。久世らはそれをずっと見送りながら、彼の姿が完全に消えてなくなるまで、手を振り続けていた。
そして、バスが走り去ってしまうと、小さくなるその後ろ姿を見つめながら、虚脱したように両の手を下ろし、二人はそのままぼうっと立ち尽くしていた。そう、とうとう彼は行ってしまったのだ。それを二人はしみじみ実感すると、ほぼ同時にお互い顔を見合わせ、淡い微笑を交わす。
「いっちまったな」
「うん……寂しくなるね」
「ああ、元気でやってくれるといいんだが」
心にぽっかりと空いたような穴に、二人はその虚脱を埋めるよう、言葉で誤魔化ししばしそこにたたずむ。
そしてようやく、そろそろ立ち去り時かと、久世が「じゃあ」というと、
「久世君、これから予定、ある?」
と、不意に葵がそう問うてきた。
それに久世は戸惑いながら、
「いや、別にないが」
すると、続けて葵が、
「夕御飯は、食べた?」
「いや……まだだけど」
久世の言葉に、にっこりと口元に笑みを浮かべる葵。そして、
「じゃあ、どこかで食べてかない?」
嬉しい、申し出だった。だが、彼女は一応主婦。共働きで仕事をしているし、子供もいないから、毎日のおさんどんにがんじがらめに縛られている訳ではないだろうが……。それでも久世は何となく申し訳ないような気持ちになって、
「だけど、安藤が……夕飯の準備しないといけないんじゃないか」
「大丈夫、晋には遅くなるって言ってあるから。適当に、何か作って食べてるよ」
あっけらかんとした表情で、別に問題はないようなことを葵は言ってくる。それに久世は「そうか……」と呟きつつも、相変わらずためらいは拭えず、どうすべきかと頭を悩ませる。だが、これはせっかくのお誘いなのだ、ならば無下に断わる訳にはいかないだろうと、久世は了解を示して一つ頷くと、
「じゃぁ、どこに……」
食事をする場所をどうしようかと、困ったようにそう呟く。
そう、ここによく通ったのは、貧乏学生だった頃だ。今、葵はそれなりの会社で、それなりの収入を得て働いている。確かに葵とは結婚式以来だったが、時々一緒に飲んでいる安藤から、そんな話を聞いていた。きっと、他のOL同様、おしゃれな店とかに行き慣れていたりするのだろう。格好だって、あの頃のラフなものとは違う、丸の内のOLの見本のような、キャリア系のスーツを葵はバシッと決めていた。だから、久世は困ってしまったのだ。そんな、今の葵を満足させるような店を、この街で、久世は全くと言っていい程知らなかったから。
思わず考え込んで、口を噤んでしまう久世。すると、不意に……、
「とんとん亭、とんとん亭はどうかな?」
そんな彼に助け舟を出すよう、葵がそうリクエストしてくる。
とんとん亭。
そう、それは、久世達が学生時代よく通った、大学近くにある定食屋であった。値段が安く、量が多いことだけが自慢の小さな定食屋。場所柄や値段から、学生の為にあるような、いや実際に学生のたまり場ともなっていた、馴染みの定食屋。
それに久世は少しホッとしたような気持ちになると、変わらぬ葵に嬉しい気持ちにもなりながら、
「じゃあ、そこにしようか」
久世の言葉に、顔をほころばせる葵。その表情に、久世もついつられて口元を緩めると、早速店へと向かって、二人一緒に歩き始めた。
それは、かつて通っていた、懐かしい道。久し振りに二人並んで歩む大学への道。そのあまりの久し振りに、久世は思わず緊張なんぞ感じながら、
「結婚式以来、だな……」
「ほんとだねぇ」
しみじみと二人はそんな言葉を噛み締める。
「なんか、こうして二人でこの道を歩いていると、昔に戻ったような思いになるね」
「ああ……」
実際は六年の月日が流れている。表面上は何も変わらぬように見えても、二人の間には、長い長い空白の時が横たわっている。それでも、今だけはその思いは忘れようとでもいうように、二人は心を六年前に巻き戻し……。
「とんとん亭なんて、本当に久しぶり、まだあるのかなぁ」
「どうだかなぁ、無かったら無かったで、また少し寂しいな」
コクリと頷く葵。そしてフフフと笑うと、
「でも、とんとん亭に久世君っていうと、私、あれを思い出しちゃう」
不意にかけられたその言葉。それに、久世はどう返答したらいいものかと、困ったような表情をして口ごもる。勿論、葵の言っていることが分からないからではない、十分過ぎるほど分かりすぎて、少し気恥ずかしかったからである。
そして、その気恥ずかしさのまま、久世は相変わらず口ごもっていると、不意に葵が、どこか懐かしげな遠い眼差しをし……、
「あの店の前で、久世君、晋のこと、思いっきり殴ったよねぇ……」
安藤晋、確かに、彼は女好きのするいい男だった。だが、それが仇となってか、彼は女癖が悪いのでも有名だったのだ。葵が安藤と付き合い始めた時、久世はそれが不安だった。そして、そんな思いが的中したかのように、付き合い始めてそれほど経たないうち、彼に別の女の噂が出た。一途に奴を思う葵、その噂に心を痛める葵。彼女から悩みを打ち明けられる度に、久世の心には怒りの念が募っていった。そしてある日、悩む葵にいたたまれなくなり、久世はとうとうとんとん亭の前で安藤を問い詰めたのだ。そして返ってきた言葉は、
「ああ、その通りだよ」
あまりにもあっさりとした肯定。真実となってしまった噂。それに、もう堪忍袋の緒が切れたといったよう、久世は安藤を殴り、そしてこう言ったのだ。
「おまえ、葵がどれだけおまえのこと好きか、分かってんのか!」
安藤は知っていた。久世が葵のことを好きなことを。告白し、振られ、それでもまだ好きなことを。その後も、彼女の相談に乗り、友人として支え、見つめていたことを。
そんな久世からの渾身の一発、そしてその後の説得もあって目が覚めたのか、それから彼から女の噂を聞くことは無くなった。いや、人間の根本的な性格はそう簡単に直る訳がない(少なくとも久世はそう思っていた)、なので、久世の耳にはなるべくそういう噂を入れないよう、注意を払い、周りの者にも気を使っていただけかもしれないが。だが、それでもそれから、葵と安藤はこうして結婚するところまでゆき、それなりに幸せに、安定して暮しているようであるから……。
「ほんと、あんな思いさせられても、好きで好きでしょうがなかったんだから、困っちゃうよね」
「それは……今もそうなんじゃないか?」
すると、それに葵は淡く笑い、
「そうだねぇ……」
と虚ろに言って、少し言葉を止めると、
「でも……もし晋じゃなく、久世君を選んでいたら、私、どうなってたのかな。もし、あの頃に戻って、久世君を選んでいたら」
ひたすら一途に、安藤を思っていた彼女だった。そう、あの時の彼女なら、そんな言葉が出るなんてことは信じられないほど。久世の思いも、彼女のその思いの前には霧のように霞んでしまうほど。なので、それに久世は眉をひそめると、
「らしくない言葉だな。何かあったのか、安藤と」
その言葉に無言になる彼女。
「まさか……またあれが……奴の女癖の悪さがでたとか」
彼女の様子に、思わずといったよう久世の口からそんな言葉がこぼれる。すると、それに葵は慌てて首を横に振り、
「大丈夫、大丈夫だよ、ないよ、何も。ただ、ちょっと思っただけ。違う選択をしてたら、未来は違ったのかなって。ほら、懐かしさにね、つい」
何となく、上手くはぐらかされているような気もしないではなかったが、彼女がそういうのならと、これ以上問い詰めることは久世には出来なかった。だが、やはり何かあるのではと、どこか勘ぐったように、久世は葵を見つめていると、不意に、
「欲望の果てには、一体何があるんだろうねぇ……」
またも、久世を惑わせるような言葉を、取り留めなく葵がいってくる。それに久世は、一体何の意味があるのだろうと、色々と考えを巡らせながら、
「……なんだろう……破滅、かな」
すると、葵は「破滅……」とポツリ呟くと、フフフと笑いながら、
「いい言葉ね」
そんな言葉が空しく虚空に飛んでいった。
大学のすぐ近く、郵便局前でこぢんまりと営業していたとんとん亭は、まだそこに存在していた。そう、あの時の姿そのままで……いや、あの時のままのように見えるが、六年もの歳月からくるくたびれは隠せず、更に古ぼけたたたずまいで、久世達を出迎えてきた。
同じように見えて、否応なしに見せ付ける時の流れ、それに少し寂しい思いをしながら、久世と葵はどこか緊張の面持ちで、店の中へ入ってゆくと、
「いらっしゃいませー!」
嬉しくも変わらぬあの時の女将が、元気な声を上げて二人に笑顔を向けてくる。
店内は、時間が少しずれているからだろうか、それほど人の数は多くなく、幾人かの寮の学生らしきスエット姿の若い男性が、黙々と食事を口に運んでいた。
それは、落ち着いた、静かな雰囲気。
そんな店で、さすがに葵の格好はちょっと浮いてしまっていたが、それにも構わず二人は適当な席に座ると、テーブル脇に置かれている、メニューを手に取り中央に広げた。
馴染みのある品、新しく加わったのか、初めてみる品、様々な文字が二人の目に入ってくる。そして、久世はその文字を追う葵の顔を窺いながら、
「決まったか?」
「うん、私は……さばの味噌煮定食」
やはり、新しいメニューではない、馴染みの、懐かしいメニューを選んだことに、久世はフッと笑い、
「は、相変わらずババ臭いメニュー選ぶんだな」
「あら、おふくろの味と言ってよ。で、そういう久世君は?」
「俺は……カツどん」
それに葵もクスリと笑うと、
「やっぱりそれなんだね」
久世が、いつもここで好んで頼んでいたメニューを覚えていてか、意味ありげな笑みと共にそんなことを言ってくる。
それに、久世は心を見透かされたような気持ちになって、少し照れ臭くなりながら、メニューを元あった場所に戻すと、
「ご注文は決まりましたか?」
ちょうどタイミングよく女将が、やはり変わらないようで、六年の歳月を着実に刻んだ表情で、久世達にそう言葉をかけてきた。
それは不意といってもいい声で、久世は慌てて自分達の選んだメニュー、さばの味噌煮定食とカツどんを言ってゆくと、
「盛りはどうしますか?」
続けて女将はそう尋ねてきた。それに、そういえばそれがあったと、久世は思い出して頭を悩ませる。すると、すかさず葵が、
「勿論、特盛りだよね、久世君は」
にっこり笑って、これも覚えているわよ、とでも言わんばかりにそんな言葉を言ってくる。
だが久世は、その言葉に苦笑いしたい気持ちになっていた。
確かにあの頃は、特盛りでも足りないほど……そう、若いとはこういうものかとでもいうほど、飯をたらふく食っていた。もちろんこの店でも、頼むのはいつも特盛りだった。
だが、それは昔の話。時を経た今はもう、そんなに食べられる胃袋は持ち合わせてなかった。せいぜい並盛り、食べられたとしてもそれが限度だろう。
だが葵は、相変わらず特盛りを期待するかのような眼差しを久世に向けている。それに、久世はちょっと困ったような表情をするが、彼女の期待を裏切りたくない気持ちに、つい、
「特盛りを」
食べられもしないのに、あの頃を気取るよう、そう、俺はまだ変わってないんだぞ、それを彼女に示すかのよう、無理してそれを頼んでしまった。
すると案の定、それにやっぱりといったように、にっこりと笑う葵。
あの頃より少し古ぼけてはいるが、いつも通っていた定食屋で、頼むのはあの頃と同じメニューで……。そして目の前にある葵の笑顔を見て、かつてあった時を壊さずにすんだことに、久世はホッと胸を撫で下ろす。
店内には、相変わらず穏やかな静けさが漂っている。そんな空間に流れるは、昔から備え付けられている、おんぼろテレビからの夜のニュース。久世は、自分の盛りを伝えてゆく葵の声を聞きながら、思わずといったようそのニュースに耳を傾け……、
――では、次のニュースです。今朝、荒川の河川敷で、男性のものと思われる足が発見されました。警察はこれをバラバラ殺人事件と断定して……。
変わらないように見えて、変わってゆく時。
着実に、刻々と流れ、人を、心を、思いもかけない場所へと運んでゆく。
そう、この二人で囲む空間でさえ、やがては過去のものへと成り果ててゆき……。
まったく、これが彼女との最後の晩餐になることなど、ほんの欠片も思いもせず……。
了
いかがでしたでしょうか?
リメイク作品第六弾になります。えー、そろそろ長編に戻ろうかと思うので、これが最終作になります。
で、ですが……今回、非常に非常に苦戦しました……。
完成までに一ヶ月以上……(^^;ほんと、依頼主さんに申し訳ないばかりです!
ですが、時間をかけたからといって、いいモノがかけたかどうかは……(疑問(> <))
大体、文学漂う素敵な作品を、○曜サスペンス劇場(縮小版)のようにしてしまって……ああ!
ではでは、これまで依頼してくださった、そして読んでくださった皆様、本当にありがとうございました。
今まで書いたことのない、色々なジャンルの作品を書かせていただけて、とても楽しかったです!
またどこかで会う機会がありましたら、どうぞよろしくお願いしますm(_ _)m