3 少女が歩いた後には道が出来ていた。
十二月のある晩、秋葉原に男たちの黒い行列がいくつもできていた。
電気街と呼ばれる大通りには様々な曲調の音楽が流れ、ラジ館前の通りでは威勢のよい声を上げるショップ店員が男たちの注目を集める。
異様な熱気に包まれた街に、一人の少年が足を踏み入れた。電気街口の改札を抜け、券売機側の出口から男たちでごった返す通りに出る。
ゲームセンターの真っ赤なビルと剥き出しのチューブを巻きつけたみたいな家電量販店のビルが静かに佇み、地上で騒ぐ者たちを眺めているようだった。
知ってる街の知らない顔に、少年は思わず深呼吸をする。吐き出した息は冬の寒さで白くなり、街の喧騒に消えていく。
少年は華奢な体つきで、全体的に黒っぽい服装で首にチョーカーを巻いたお決まりの格好だ。目を隠す長い前髪が特徴で、口元や頬の輪郭から十代半ばだと分かった。どこかほころんだ表情をきゅっと引き締め、リュックサックを背負い直した時、柱の裏から人影が現れる。
「来たか」
少年に話しかけたのは巨体の男で、顔立ちは二十代半ばくらいだ。なぜか学ランを着て、赤いマフラーと赤いミトンの装いをしている。
服装を見るなり、少年は深い溜め息を吐く。
「……コタロー、お前なんで学ランで来たんだよ」
コタローと呼ばれた男は姿勢を正した。
「ビンゴ、貴様は承知の上であろう? 学ランを着ないと、オレは高校生に思われない」
コタローの背丈は百八十以上あった。広い肩幅、厚い胸板、男前な顔立ち、どれを取っても一般的な高校生とは言えない。
ビンゴと呼ばれた少年は肩をすくめて、やれやれと首を振るのだった。
「あのなぁ、いま何時だと思ってんだ。こんな時間、この場所に高校生がいるか?」
近くにあった時計台を指差す。アナログ時計の針は十一時半を示していた。
「ふむ」
神妙な顔をしてコタローが思案する。
「ふむじゃねえよ。いいから脱げ」
間髪いれずに突っ込んだ。
「早い! 突っ込みが早すぎる。って、脱げですって?」
両手で胸を隠すような仕草をする。頑丈そうなガタイの体をくねらせるたび、白い吐息が漏れた。
「……」
反応するのを放棄して、ビンゴは一人で電気街通りの方へ歩き始める。
「ビンゴォ、今日はキレるの早くない?」
コタローはエナメルのショルダーバッグを提げて、ビンゴの背中を追う。背を丸めて申し訳なさそうにしたが、三歩で追いついた。
隣に並ぶとビンゴが立ち止まり、素っ気なく手を差し出す。コタローがためらっていると、招くように上向きの手のひらをちょいちょいとした。
「ん」
コタローは丸めた背を元に戻し、差し出された手にショルダーバッグを掛ける。
「すまん」
手早く学ランを脱ぐ。ショルダーバッグを受け取り、学ランをくるくると無造作に畳んでそれに突っ込んだ。
そうして二人は並んで電気街通りに出た。ちょうど電車が高架橋の上を通り、けたたましい音を鳴らしてレールを叩く。二人の感嘆する声はかき消された。目の前には祭のような光景が広がっていた。
電車が通り過ぎると、街の喧騒が二人の耳にふたたび届く。
「ビンゴ、オレは初めて見た。秋葉原の夜がこんなに騒がしいのを」
「ああ、だな」
二人は並んで歩みだした。いつの間にかビンゴが先頭を歩き、後ろにコタローが付いていく形になる。
歩道を覆い尽くすほどの人ごみだ。流動性はなく、同じ場所にたむろする。誰もが男だ。二十代から四十代で、みな同じような黒い服を標準装備している。ちらほら見える女性の多くはメイド服かコスプレ衣装を身にまとっており、十二月の寒空の下で死んだ目をして客引きをしていた。
もうすぐ零時を回るというのに、まだ明るい店舗がいくつもある。どれもアニメ・漫画・ゲームと言ったオタクコンテンツを販売する店だ。ショップの店員は、「新作記念」や「初回限定特典」と言って、男たちを招き入れようと必死だ。一部には体験版を配布する店員もいた。
二人が横断歩道を渡った先にも、ブレイクショット前のナインボールみたいに人がひしめき合う。
「これが年末ギャルゲの日かぁ……」
ビンゴの口をついて出たのは、ただひたすら圧倒された者の驚嘆であった。
年末ギャルゲの日。秋葉原が深夜に賑わう原因だ。そもそもギャルゲーの発売日は月末に集中する。年末と重なって大事となる。年末を発売日にするメーカーが多いというのもあるが、発売日をどんどん延期したメーカーが、何とか年内発売を目指して、駆け込むように発売するためであるとも言える。
もちろん、ギャルゲー自体はネットで買える。では、なぜオタクは並ぶのか? 発売の前日に並び、発売日当日にギャルゲーを手に入れる。完売する前に買えたこと、初回限定版のグッズが手に入ったこと、ショップに並んで買ったこと。さまざまな達成感に心がホクホクする。至高の喜びだからだ。
ビッグバンくらいの喜びを噛み締めたいビンゴは、道路側にできた狭いスペースをせっせと行く。
「あ、宣伝の看板が出てる」
コタローが指差した看板には目の大きな二次元の美少女が微笑んでいた。
「はぁう~、超絶美少女~! 早く家に帰ってカワイイカワイイしたい!」
「ビンゴ氏ビンゴ氏、心の声が漏れ候!」
信号待ちの間、二人は押さえきれない興奮を露わにした。
「いやそれにしてもビンゴ。男の娘が男の娘好きとはこれ如何に」
男の娘とは見るからに女の子なのに性別が男である存在を言う。ビンゴが小学生の頃にはなかった言葉だ。
「俺は男の娘じゃないっての!」
抗議の声がアニメ声で、周囲の男たちの視線を集める。
ビンゴは逃げるように横断歩道を渡り、パーツショップが軒を連ねる通りに入るが、男たちの群れで道が塞がれていた。ビンゴの後ろでコタローが目を凝らして人混みを観察する。視線の先はどれも最後尾と書かれた札やプラカードだ。
「あった。向こう。カレー屋の前のとこ」
コタローがビンゴの頭の上から指を差した。
ビンゴは溜息を吐く。ビンゴの背丈は平均より低い。コタローのように周囲から抜きん出た背丈と頑丈そうな体があれば、堂々と道を割って進めただろう。
コタローはビンゴの溜息と視線に、何かリアクションを取ろうとしてあたふたした。
「しゃーない。コタロー、俺の後ろに付いて、……おっと」
誰かが肩にぶつかって、話すのを止める。これだけ人がいれば肩くらいはぶつかってもおかしくない。一応、ビンゴは振り向いて相手を見た。謝ろうと思って口を開くが、先に相手が謝罪する。
「失礼いたしました」
顔は見えないが、女が足を止めて頭を下げる。メイド服やコスプレ衣装みたいな男の人のための装いではなく、よそ行きの小綺麗な洋服だった。特に印象に残るのは、髪の一房を後ろでまとめる大きめの青いリボンだ。
女が顔を上げると、ふわ、と乙女の香りがした。美しい少女だ。顔立ちは十五か十六ほどで、肌が白くて、右目の下に泣きぼくろがあった。
ビンゴは言葉を忘れて見惚れてしまう。胸の奥がスッと冷たくなり、喉が異常に乾いて、首から上が冬だというのに暑くなった。ビンゴにとって衝撃的な出会いだった。
少女は軽く微笑んでから二人の先へ行く。先は男たちの壁だったが、やわらかい物腰で声を掛け、男が一人、また一人と道を譲っていった。少女が歩いた後には道が出来ていた。
せっかく出来た道に進もうとしないビンゴに、コタローがたまらず声をかける。
「たしかにすごいものを見たけどさ! 今だよ、今。オレたちのゴールは向こう!」
ビンゴは肩をゆらされて、うろんな眼のまま自分の頬をつねった。コタローはビンゴを引きずりながら目的地へ向かう。
二人が到着したのは行列の最後尾だ。並んでいる男たちが口々に「救急」と漏らす場所は、エプロンを着た男が列を管理する。
呆けていたビンゴが急に我に返って周囲を確認する。
「救急はどうした!?」
あわててコタローに尋ねた。
「救急はまだ。もうすぐ明日だけど」
腕時計で時間を確かめながら言った。
胸をなでおろしたビンゴは、スマートフォンで改めて時間を確認する。画面には、目の大きな美少女が洋館の前で遠くを眺めるイラストと『おやすみからおはようまでの99』というロゴが表示されていた。
「ややっ、救急の体験版クリア者に配布されたウォールペーパーでは?」
コタローが巨体をにゅっとスマホに近づける。
「無論。ぴゅ~ぴるソフトの新作よ」
「我々何の行列に並んでいるのであろうなぁ?」
フッ、とビンゴが笑い返す。
二人とも、湧き上がる興奮に理性が吹き飛びつつあった。ビンゴが理性を吹き飛ばすほど興奮することは稀である。意識が遠のいたり戻ったり忙しない。
あの少女が見目麗しい姿だったから、という理由だけで動揺する軟弱な精神をしていないと自負している。
ビンゴは二次元で満たされるのであれば、三次元は必要ないと考えていた。今までもそうしてきたし、これからもそうするつもりだったのだ。
ビンゴは姿勢を正したり悪くしたり落ち着かない。コタローが困った様子だ。
隣でやきもきする巨体を気にかけず、ぼんやりと行列を観察する。他の列では店内へ誘導が始まった。二人の並ぶ列は、動く気配がまるでない。列の様子を窺う視線はある一点に釘付けになった。
二人の行列の前の方に青いリボンの少女がいる。
暗がりでわかりづらいが、間違いなく先ほどの少女が行列に加わっている。スマートフォンの画面の明かりで、白い顔がぼんやりと浮かんだり消えたりした。おそらく動画を見ているのだろう。
ちらちらと見える横顔に、ビンゴは今日したどの溜息とも違う種類の溜息を吐いた。
(このまま行列が動かなければいいのに……)
こんなこと、列に並んでいたら考えるなんてありえない。まして、一ヶ月前から楽しみにしていたゲームを前にそんな考えを抱くのは、ビンゴにとって異常な事態だった。
「ビンゴ、十二時になった!」
酩酊感もつかぬ間、コタローの声で覚醒していく。
前の方から行列が動き出した。他の列も同様に動き出し、ざわざわした騒がしさがピークを迎える。一斉に列の移動が始まり、大蛇が街の路地という路地を這いつくばっているようだった。
二人は大蛇に飲み込まれていく。コタローの赤いマフラーも、少女の青いリボンも巻き込んで、一つの黒いうねりになっていった。
 




