2 現に貞操《ていそう》の危機である。
朝、小学校の教室へ入ると誰もビンゴに挨拶を返さなかった。それどころか急に静まり返っている。仲の良かった男子に話しかけようとしたら、一目散に逃げられてしまった。皆よそよそしく、どこかビンゴの扱いにお困りの様子だった。
「ど、どうしたのみんな?」
教室じゅうに問いかけた。誰も返事がない。唐突に訪れる仲間はずれにビンゴは動揺を隠せなかった。意識の外から敵意が飛んでくる。
「チアキくんは男が好きなんでしょ?」
声の聞こえた方を振り向く。窓際には女子たちが五、六人ほどいて、くすくすと嘲笑した。視線が向くと笑うのをやめ、外れると笑い始める。誰が言ったのかまでは分からなかった。
「誰だよ今の! 誰が言ったんだよ!」
女子の一人はくるりと振り向いて目を合わせないようにして、他の女子の一人は両手で耳をふさいで、残り数名はくすくすと肩を震わせた。彼女たちの近くで笑みをこぼさない女子が一人いる。メガネでよく読書をしてて、ドッジボールですぐに当てられる女子だ。
「あのさ教えてくれない? 誰が言ってた? ……なあ? なあってば!」
肩を揺さぶって答えを聞き出そうとするが、嫌そうに顔を背ける。
「うわ、かわいそー」
また誰かの声だ。意識の外からやってくる敵意だけではない。教室じゅうがビンゴに見えない刃を向けている。
ここにいては滅多刺しにされると本能で悟った。今までに何度か視聴した光景を、今度は内側から見ているのだ。さながらテレビの中にいるようで、もしテレビと一緒なのだとしたら、ほとぼりが冷めるまで出演は控えるべきだろう。ビンゴは自分にも耐える時が回ってきたのだと思うと、涙も出てこなかった。
その時、背中に手を置かれる。誰かと思って振り向けば、サッカーが得意なことで女子から人気の男子だった。
「俺さ、チアキになら別にいいって思ってるから……!」
「えっ」
それを皮切りに男子たちが数名ほど寄ってくる。口々に「前から気になってたんだ」など「僕は偏見とか持ってないし」などと話しかけた。奇しくも女子に人気の男子ばかりだ。
先ほどかわいそうと言われた女子は渦中に巻き込まれる形になったが、つやつやした顔でサムズアップをした後、勢い良く鼻血を吹いた。
「えっえっ」
驚きや焦りを隠せないでいると、ハンカチを片手に持ったサニが教室に入ってくるのが見えた。
「サニ! 助けて! ひゃ!? 今だれかお尻さわったよねっ?」
撫でるような仕草に気持ち悪さを感じて尻を引っ込める。人混みの向こう側でサニと目が合うと、サニは自分の首筋を人差し指でトントンと叩いた。
(首……、昨日の『男になれない呪い』は本当? いいや嘘だ、そんなのあり得ない! でも……)
現に貞操の危機である。
サニは我関せずといった具合に女子グループと合流した。
「サニ! お願いだから呪いを解いてよ! サニ! サニってば!」
叫びも虚しく消えていく。このまま男子にもみくちゃにされるのも時間の問題だ。ビンゴはランドセルを背負い直して、弾けるように教室を飛び出す。
(あの時、サニは泣いてたんだ。顔に出したか分からないけど。呪った理由はそれで、つまりあいつは……。いや、終わったことを考えるのは男らしくない。……ここは撤退。戦略的撤退だ)
朝の時間が終わりに近づき、担任の先生と鉢合わせする。三十代後半の男性教諭は教室の異様な空気を感じ取って頬を掻き、改めて教卓に着いた。今日も退屈なルーチンに従ってチャイムが鳴ると同時に「席につけー」とお決まりの文句を言った。席につかない一部の児童にはもう一度「席につけ」と言う。これも決まりきっていた。
「チアキ、席につけー」
先生は児童を分け隔てなく扱うとビンゴは知っていた。
「先生。今日は体調が悪くて……。帰ってもいいですか?」
あからさまに腹をさする。少し演技しすぎたかもしれない。
「そうか。では保健室に行って、親を呼んでもらいなさい。それと、あー……、恥ずかしいかもしれないが、自分の血は自分で拭くように」
血とは何かと思って自分の体を見ると、ズボンが赤くなっていた。どうやら先ほどの鼻血が付いたらしい。
(良かった。先生は俺のことを分かってくれている。恥ずかしいかもってのが気になるけど、今は帰らせてもらおう)
その日を境にビンゴは学校へ行くのをやめた。正確には、学校へ行くのを拒否し続けた結果、親の判断で仙台の祖母の家で暮らすことになったからだ。転校先でもビンゴは友達ができなかった。後に保健の授業で、先生の変わった言い回しの意味を知る。
(すべてはこの顔がいけないんだ。顔さえ合わせなければ俺は男に思われるはず)
そうしてインターネットの世界に自分の居所を探すようになった。
新学期が始まるまでの間、インターネット三昧だったビンゴは、創作オリジナルサイトの『レコーズメイガス』を見つける。『レコーズメイガス』は魔女を記録した魔導書で、一般的な魔導書とは違い、本の形をした「牢獄」なのだ。二十七の魔女を収容する。魔女が魔女たる所以は、一体一体が強力な魔導書を持つからで……、という感じで、当時のビンゴ少年の心を鷲掴みにした。見事に中二病患者となり、サイトに備え付けの掲示板を通じてその身を闇に染めていった。
高校生に上がると同時に東京へ戻ったビンゴは、中二病と折り合いをつけてよくいるオタクに落ち着いた。目が隠れるくらいに前髪を伸ばし、華奢な体を隠せる地味な長袖長ズボンは外行きのユニフォームだ。彼女いない歴イコール年齢の冴えない童貞である。
「まあ、これで一介の高校生男子っぽく見えるよねっ?」
入学式の当日、姿見の前で自信なさそうに呟く声は、未だに声変わりが来ていなかった。
ついでに言えば、「ラノベみたいな青春ラブコメを送りたい」と夢を見るビンゴだったが、入学した矢先にサニらしき人物と遭遇する。以来、唐突に仲間外れにされるかも、と怯えて誰ともまともな交流を取らなかった。話しかけられたら、「昨日は餃子が降りそうですね」などと適当な返しをする。結果、当然のようにぼっち。あだ名はソロモンだった。
さて、半年おとなしく過ごして分かったのは、サニはやっぱり小学生時代の幼馴染だったことと、前髪で顔さえ隠していれば誰もビンゴを気にかけないという二点だ。適当な振る舞いをしていても、しつこく友達になろうと寄ってくるコタローという男子がいた。どうやら旧友を名乗り出ているが、ビンゴは正直覚えていなかった。
そうして一学期は遠い過去になり、夏休みが本当に何事もなく過ぎ、二学期も終わろうとしている……。




