鳥が飛ぶという意識
新月に架かる鳥が意識を落として、廻る。
君は僕で、僕は君。だけど、君は君で、僕もやはり僕でしかない。
灰白色の空に見初められて、群青の花びらが散る。
答えは誰からも返ってこないから、僕は頭を抱えて見せた。
1
手首に嫌なアレルギーが出来ている。皮が堅く膨れ上がって、肉が直接捲られたように、ずくずくと絶えず組織液を出している。このアレルギーが我慢ならない程に痒くて痒くてたまらない。
昔、人間には痒いと感じる器官はなく─―─正確には発見されていないだけで──―、痒みというのは微弱な痛みだと言われていた。痛みに満たないもの、つまり、生命危機にはならず、痛みという形の警告を発するまでもない程度の刺激という事だろう。
俺は、自分の手首の肌理を思い切り引っ掻き、気が済むまで掻き毟ってしまう。奥から疼くような熱をもって、じくじくと体液を滴らすこの痒みは、警告するほどでもない、ごく微弱な痛みだとでも言うのだろうか。こんなのはおかしい。
ガリガリと、初めこそは固く皮を毟っているような指先の感触が次第に粘土を抉っているような感覚へと変化する。その頃にはだんだんと組織液だけでなく赤い血液も混ざり滲んでくる。しかし感じるのは痛みではなくどこまでも痒みな訳だから、いくら掻き毟ったところで、このアレルギーが治る気配はない。
ああ、痒いというのは本当に不快だ。
今夜も俺は、傷口をガリガリと掻き毟りながら、ベッドの中で眠れない夜を苛々と過ごしていた。
ベッドサイド、俺の隣では一郎が眠っている。あまりにも幸せそうな顔は、少なくとも精神的によろしくないように思えた。乱れたシーツ、後片付けとシャワーくらいはしたが、しかしそれはただの八つ当たりでしかないのか。いや、偽善的処置、有期理論、とにかく今の俺には全てが気に食わなかった。ブラインドから溢れる月の憂色を含んだ刹逢のみで、俺はこの心を抑える事しか今はもう許されていないのかもしれない。
不気味に一郎が月明かりに晒された。青白く死体のように浮かび上がり、そのふくらみを誇示する。彼の寝息が耳元で穏やかに響くものだから、このままこいつの鼻と口を塞いで本当に死体にしてやりたい、と無性にそう思った。
愛しているから殺すだとか、そういった話を聞いた事がある。しかし正気の人間ならばきっと衝動でしか殺せないだろう。
桜の花は、昔から人の血を吸うと、誰かが言っていた。
月の光は、昔から人を狂わせると、誰かが言っていた。
世の中、狂人のスイッチで満ち溢れかえっている。
月明かりが色をつけ煌々と輝いている俺の部屋で、時計の音さえも聞き取れなくなる。寒くなってきたせいで、冷房の音もなく、ただただこれは無音の世界。奥行きなど分からないのに酷く孤独を覚えた。
意味が無い。全てに意味を見出せない。無意味だという事がこれほどに恐ろしいなど、知らなかった。痒みも傷も体液も、殺意も自傷も。まるで意味など無いのだ。すべて、俺自身なのに。
ふいに、一郎が寝返りを打って、こちらを向いた気配と衣擦れの音がした。ああ、まだ死体じゃなかったんだなとそんな事を思い出して彼を見下ろした。しっかりと俺に向けられた黒い眼は、猫のように細められいて、じいっと、まるで死んだように、音もなく色もなくそこにあった。
詰まるところを言うと、あの目は、動かない。瞬かない。果たしてこれは、錯覚なのだろうか。
「…一郎、起こしたか?」
「………」
答える事もせずに、ただ、じいっと見つめてくるだけの目玉を多少気味が悪いと感じつつ、俺はまたアレルギーの手首に爪を宛がう。血で布団を汚していた。
生きているでもなく人形でもなく、死んでいるものとして俺を見上げたまま。そんな一郎を、やはり俺は見つめたまま。そうすると彼に向けた視点が徐々に合わなくなってきたから、せめて先ほど考えていた、死にたいだの殺したいだのという思考を知られないように俺のほうから視線を外して布団に潜り込む。眼球が乾いてきたから、もう瞑ってしまいたかった。
「………なあ、昌。お前はある処刑場の話、知ってるか?」
急に口を開いて俺の名前を呼んだ、その死体を振り返る。それはまるで誰かに聞き咎められる事を恐れるような、酷くひっそりとした声だった。
「……処刑場?」
「ああ。いつだか聞いた話だけど…、ある処刑場では水の入ったバケツと空っぽのバケツを囚人に持たせるんだって。」
「………へえ、それで?」
「それでな、処罰は簡単なんだ。空っぽのバケツに、もう一方のバケツの水を入れるだけ」
「ふうん」
「ずっと、ずっと、全く意味も目的も持たない作業を繰り返した囚人は、やがて廃人になるらしい。それが、処罰」
「…………」
「昌、解るか? 全く意味のない人生こそが、最大の罰なんだよ」
そう言い放った一郎が、アレルギーのある俺の左腕をがっちりと掴んできた。
その手の平からはじんわりと温かいものが伝わってきて、勝手に死んでくれていた死体だっていうのに温かいのは可笑しいなと、ふと思う。俺はゆっくりと、繋がった手へと視線を落とした。穢れたアレルギーなど他人の目に晒したくない。増してや触れさせるなど決してない。しかしあろう事か、一郎は傷の上に綺麗なキスを落とした。俺はそれを見た途端頭に血が昇り、気が付くと彼の頬を思い切り殴っていた。
意味のない人生こそ、最大の罰。
意味のないこの疼きと焦燥感と漠然とした不安と殺意と自傷。
意味というものを言うならば、治らないアレルギーに侵されて爛れたままの汚い俺へ向ける、こいつの優しさは何故なのか。
やはり世界の終わりを予感させるような、ゆっくりと瞬きをして動かない彼の目玉。覗き込むと、そこには苛々しているでも怒っているでもなく、ただただ気味の悪い程に真っ白で、酷く死体のような顔をした自分がいた。
嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ、嫌だ。こんなのは嫌だ。痒い、痒い、治らない。もう、治らない。掴まないでくれ。強く、強く、突き放してくれ。見せつけないでくれ。
堪え切れずに顔を背けると、今度は俺に縋り付くように、一郎が抱き締めてくる。おぼろげで、全て見えない。鳥は落ちてくるしかない、空にいるのだから。俺は殺すしかない、だって、この痒みに意味など無いのだから。
ただ、背中の男の胸からは、どくんどくんと鼓動が伝わってきて、ようやく理解した。死体は自分のほうだったのだと。一郎の声が先程とは別の空間から聞こえてくる感覚が不思議だった。
「…昌、隠さなくていいよ。笑わなくていい。わがままを言えばいい。耐え切れないのなら引っ掻いていいよ。治らない傷なんて無いんだから」
違うよ一郎。
心配なのは、体じゃなくて心。心だけは治らない気がする。お前が言ったんだ、無意味は罪だと。怖いんだよ。やはりこいつなど死んでしまえばいいと、こっそりブラインドから零れる月を見る事もせずに、そう思った。
ベッドサイド。もう吸えない煙草。意味のない痒み。濡れ羽色瞳に映った俺の死に顔。そして諭すように罪を解らせる由宇の体温。
どれが嘘でどれが本当なのかを考えて、どれも嘘で本当なのだと。
ただ、由宇か俺を、殺したかった。
新月に架かる鳥が意識を落として、廻る。
君は僕で、僕は君。だけど、君は君で、僕もやはり僕でしかない。
灰白色の空に見初められて、群青の花びらが散った。
出会えたその死に顔へ問う。愛という形でなく君を好きになってもいいの?
いいの
いいよ
答えは誰からも返ってこないから、僕は頭を抱えて見せた。
(彼は本当に死んでいたのか、最早どちらの人間も生きてはいないのか。)