ジリリリリリリ・・・。
午前7時30分。当たり前でいつもどおりにアナログの目覚まし時計の音が、部屋に鳴り響く。
あと5分だけと思いつつ、さらに5分、10分と時間が過ぎていく。
そうこうしていると、いつまでも起きてこないことに業を煮やした母親にやや乱暴に起こされる。
昨日「起こしてほしい」といったのは自分であるにもかかわらず、母親に若干の怒りを感じながらも、ぐずぐずと身支度を整える。
時間を見ると既に遅刻しないで済むギリギリの時間。
朝食もとらずに学校に向かう。
最寄り駅から二駅先にある高校。息苦しくなるほどぎゅう詰めの満員電車に揺られて、5分。そこからさらに徒歩で10分。
つまらない授業を淡々とこなし、適当に友人たちと会話を楽しむ。
そして帰宅した後は、これまたいつもどおりに、唯一の趣味である読書に没頭しているであろう自分がいる。
今日もそうなることを信じて疑わなかった。
しかし、それは最も苦手な数学の授業を受けている途中に突然起こった。少女がぼんやりと窓から空を眺めていると、空に急に黒い球体が現れたのだ。
はじめに気がついたのは少女だったが、他の生徒たちも気がつき、教室全体が騒がしくなる。
そしてそのざわめきは少女のクラスだけでなく学校全体が同じような状況であった。
窓を開けてより近いところで見ようとする男子生徒。
携帯を取り出し、写真でとる女子生徒。
どこのクラスでも同じようだ。
授業を行っていた教師ですら、何が起こっているのか理解できないといった感じで、生徒と一緒に騒いでいる。
しばらくして、その球体に変化が起こった。
突然、その球体がグラウンドに落下したと思うと、水滴が布にしみていくように、徐々に黒いしみが広がっていく。
そして、その球体が落下したのを皮切りに次々と同じような黒い球体が現れ、ぼとり、ぼとりと落下する。そして同じように黒いしみを作っていく。
しかもその黒いしみは、徐々に広がりを見せ、校舎側にも近づいてきていた。
「これ、なんかやばいんじゃね?」
一人の男子生徒がそうつぶやく。
それが始まりの合図になり、教室内にいた生徒たちはパニックを起こしたように、我先にと外へ急ぐ。 少女もやや出遅れ気味ではあったが、クラスメート同様に急いで、廊下に向かった。
少女が廊下に出たときには、他のクラスの生徒たちもパニック状態で、何がなんだかよくわからない声を上げながら、恐慌状態に陥っていた。
いつの間にか、天井にも黒いしみが広がり、そのしみからさらに、ちょうどサッカーボールと同じくらいの水滴状の黒いものが、今にも滴り落ちようとしている。
それは少女の頭上だけでなく、他の場所でも起こっているようだった。
少女は、人が押し寄せている階段に向かって走り始めようとしたとき、逆方向に手を引っ張られた。
「有珠!あっちの階段はダメよ!人が多すぎるわ。非常階段で外にでるわよ!」
親友であろう声の主に手を引っ張られ、そちらを振り向くと、ちょうど声の主の頭に、黒いものが直撃した。
ぐちゃ!という音が鳴ったと思うと、その黒いものは、親友の身体を一瞬のうちに溶かしてしまった。 そして、有珠の手首をつかんだままの親友の腕だけ残る。
有珠は声にならない悲鳴を上げ、その腕を振りほどくと、混乱したままの頭でとにかく非常階段に向かって全力疾走始めた。
「いったい何なのよ!?」
非常階段に着いたとしても、それでこの事態が終わるとは限らない。しかし,それでも外に出ることができれば,何かが変わるのではないかと混乱した頭は判断していた。
廊下には、黒いものにのみこまれた生徒の身体の一部であろうものがところどころに転がっている。
そして、逃げ出すこともあきらめ、その場に座り込み泣き出すもの、窓から飛び降りて逃げだそうとするもの、よくわからない怒声を上げているもの、様々な生徒の姿がある。
有珠と同じくとりあえず非常階段の方に向かう生徒も多いようだ。しかし、その途中でさえも、次々と生徒たちは黒いものに飲み込まれていった。
有珠が非常階段の入り口辺りに到着した頃には、既に人だかりができていた。
「おい!あかないぞ!」
と大声で聞こえてきたと思えば、ガンガンとドアを蹴りつけたり、一斉に体当たりを試みたりしている。
そしてそれを囲むように人だかりもできていた。有珠もその人だかりの一人として、最後尾からやや離れたところで「早く開いて!」と祈るように両手を胸の辺りで組んで、見守っていた。
だが、人だかりの丁度真上にある天井が急に黒く膨れ上がり、そして、重力に引き寄せられるように黒いそれが落下する。
それが落下する直前に気がつき、なんとか避けようとするものもいたが、その場にいた生徒たちは、悲鳴を残し、一瞬の間に飲み込まれてしまった。
そして少し離れて見守っていた有珠だけが残された。
しばらく呆然としていた有珠であったが、力が抜けたようにぺたんとその場に座り込む。
「これで私の人生終わっちゃうんだ・・・。」と、そういう考えが放心状態にあった頭をよぎる。
「・・・・・・・・・・・・嫌よ。・・・・・・・・・嫌よ。・・・・・・嫌よ、嫌よ!!」
錯乱状態にある頭を振りながら、駄々っ子のように泣き喚く。
そんなところに、カツン、カツン、カツンとヒールの音が廊下に鳴り響く。
そしてその足音は少しずつ有珠の方に向かってきているように思えるようだった。
その音を聞き「よかった!まだ人がいた!」と、一人でないことに少しだけ安堵をした有珠はその足音の主を探す。
しかしその有珠の期待は次の瞬間には裏切られることになる。
カツン、カツン、カツン。
音が近づいてくるにつれ、「いっそがっなきゃ♪いっそがなきゃ♪ふふふふ、ふふん~♪いっそぎましょ♪いっそぎましょ♪ふふふふ、ほほ~♪」という悠長な歌が聞こえてくる。
発している言葉とは,真逆でまったくもって急いでいない。
それどころかこの異常事態を楽しんでいるようにも思える。
明らかに自分たちと思考が異なるものが近づいてきているのである。
その状況は有珠を更なる恐怖に陥らせるには十分であった。
「おお!みーつけたぁ!あの後ろ姿、今度こそ正解だよね!良かったぁ、まだやられてなくて!」
そう声が聞こえてきたかと思うと、カッカッカッカッカッカッと急に足音が早くなる。どうやら駆け寄ってきているらしい。
そして最後にカツと、一際大きく足音が聞こえたかと思うとしばらく間があき,カツンと高い音の着地音が,有珠の真後ろでした。
耳を塞いでいた有珠は、ビクンと身体を震わせ、恐る恐る後ろを振りむく。
そこにはSF映画に出てくる未来人が着ているようなぴっちりとしたスーツを着たド派手な美少女の顔があった。
紅い目に、銀髪をツーサイドアップ。さらに、その髪をカールさせている。
それだけでも十分に派手なのだが、それだけでは飽き足らず、虹色に輝く日傘をさし、首からは大きな金色の懐中時計をぶら下げている。とてつもなく奇抜な格好だ。
その奇抜な少女が、座りこんでいる有珠と視線が合うように、自分もしゃがんでじーっと有珠を見つめる。
「ひっ!」
有珠は小さく悲鳴を挙げたが,そのド派手な少女は気にした様子も見せず,不思議そうな様子で、軽く首を左右に揺らしながら「んーーー?」とうなっている。
「あ、眼鏡か!もう!まぎらわしいわね・・・。文学少女=眼鏡なんて、古臭い設定なんだから!もう!」
そういうと、少女は手を伸ばし、恐怖で硬直したままの有珠の眼鏡を外す。
「うん、ビンゴ!ストレートの長い黒髪に、右耳に三つ並んだほくろ!何よりそのタレ目!間違えようがないわ!」
そしてポシェット(正確にはポシェットのようなもの)から色とりどりの飴玉のようなものを取り出し、それを空中にばら撒いたかと思うと、すごく演技がかった感じで、一回転し、恭しく有珠に手を差し伸べる。
それと同時に、ばら撒いた何かがパン、パンと音を上げ、色とりどりの紙吹雪と紙テープ状のものがヒラヒラと宙を舞う。
「パンパカパーン!!おめでとう!あなたをわが国政府、見習い職員に採用しま~す!さあ、一緒にすばらしい世界を作りましょう!」
当然のことだが何が起こっているのかわからない有珠。
だからこそこの得たいの知れない少女の手をつかむわけがない。
少女の方は、ずっと手を差し伸べたままの格好でいる。
どうやら少女からしてみると手をつかまれることを当たり前のことらしい。
…沈黙が続くこと、十数秒。
いつまで経っても動きを見せない有珠に業を煮やしたのか、
「こらこら、ここは手をつかむところでしょ?・・・まあ、いいか!ちょっとトラブルがあって、予定かわっちゃったから、困惑しても仕方ないわね?とりあえず、急がなきゃね!」
そういうとおもむろに手を伸ばし、人差し指を有珠の額に押し当てる。
「ひっ!」
有珠は身体をガタガタと震わせながら、再び短い悲鳴を上げる。
「は~い、怖がらなくていいからねぇ。すぐに終わりますよ~♪」
医者が小さい子に言い聞かせるような口調で、有珠の額に指をさらに押し付ける。
「あっ・・・」
有珠がそう声を上げるのと、ほぼ同時に、ズボリと美少女の指が額にめり込んだ。そして有珠の視界は暗くなった。