沈着さん
洞窟を抜けた先は河原でした。少女はこれは僥倖とばかりに、こっちよと言い、上流の方を指差しました。怪物が理由を聞くと、この河原の上流に素敵な場所があるのだと返答がありました。
方向音痴の彼女が確信を持ってそう言うのだから、素敵な場所はすぐそこにあるのでしょう。
それにしても、少女は本当にこの森に住むつもりなのでしょうか。少女は死ぬのが怖くないのでしょうか。怪物は考えます。
図らずも仲が良くなってしまった彼女の身を案じているのです。そんな心配を余所に、少女は軽快な足取りで河原を進んで行きます。時に、石に足を取られながらも楽しそうに。
本当に楽しそうです。活き活きとしています。それはそうでしょう。彼女は窮屈な町の暮らしを捨て、この森を選んだのですから。危険だけれど自由で、自由だけれど危険なこの森を彼女は選んだのです。少女は危険を承知でこの森を選んだのです。そのことについて、誰に文句を言われる筋合いも、誰かに文句を言う筋合いもないのです。彼女は真に強い動物であるのです。
怪物は少女の後を追いながらそう考えました。心配は無用なのです。少女のことは少女に任せればよいのです。
そんなことよりも怪物は自分の身を案じなくてはなりません。怪物は何だか少女の暮らしていた町がどんな所なのか知りたくなりました。
「お前の居た町はどんな所なのだ?」
声をかけてみます。
「そうね、漁業が盛んだったわ。お魚が沢山捕れるの。漁師のほとんどが男の人で、女の人は少し離れた所にある畑で農作業をするのよ。あとは市場で物を売る人だったり、外国に物を売りに行く人だったり、行商をする人とかも居るわ。この辺の町や村を統治する人も私の町に拠点を置いていたわね」
「沢山の人間が働いているのだな」
「ええ。けど退屈よ。皆自分のことばっかりで、他人に感心なんてないんだから。あの町はその内なくなってしまうわね。私はそんな孤独な所で潮風に打たれながら売り子をやるなんて耐えられないわ。だからここで狩りをして生きていくの」
怪物は、そうかと寂しそうに言いました。しかし話を聴くに、町は怪物にとってはよい場所かも知れません。他人に感心がないということは、怪物が姿を現しても誰も気にしないかもしれないと言うことです。
町に行ってみるのもいいかもしれない。怪物はそう思いました。
川は続きます。向こう岸までの距離は次第に広がって行きます。大きな川です。流れも強く、自然の脅威を体現しているかのようです。
「あれを見て」
少女が少し先を指差します。そこにはカラスが一匹、慌てた様子で川から何かを引き上げていました。そして引き上げた何かに向かってカアカアと呼びかけていました。
少女はとことことカラスのもとまで駆けて行きます。怪物もそれを追いました。
カラスはこちらに気付いて、助けて下さいと言いました。声は上擦り、カラスが相当に慌てているのが判ります。
「どうしたんだい?」
少女が問いかけました。
「この子が、この子が息をしていないのです」
どうやらカラスが引き上げたのは子供のカラスだったようです。
「この子が巣から居なくなっていたので探していたら、ここで倒れていたのを見つけたのです。きっと川に流されたのだと思います。ああどうしましょう……」
母カラスはおいおいと泣いています。
「落ち着きたまえ。と言っても無理な話か。とにかく水を吐き出させるんだ」
母カラスは少女の言う通りに子供の背中をポンポンと叩きます。
しかし、子カラスからの反応はありませんでした。
母カラスは大粒の涙を零しながら息子の背中を叩き続けます。それはとても必死なものでした。
「もう死んでいる」
怪物は呟きました。少し無神経であるようにも思えましたが、言わなければ母カラスはいつまでも子カラスの背中を叩き続けていたでしょう。
「この子は私の子なのです。お腹を痛めて産んだ子なのです。諦めることは出来ません。どうか、どうかこの子を助けて下さい」
「それは出来ないよ。死んだ者を生き返らせることは出来ない。その子のことは諦めたまえ」
「そんな……」
母カラスは頭を横に振ります。
「追いつめてしまうようで済まないが、俺も諦めるべきだと思う。お前の子供はその子だけではないだろう。残された兄弟を育てなくてはならない。親として決断すべきだ」
それは怪物の言えたことではなかったかもしれません。怪物は何一つ決断をしたことなどなかったのですから。
「……」
母カラスは何も言わずに泣いています。
「この森に生きている身ならば諦めることも覚えねばなるまい」
「はい……すみません。取り乱してしまいました」
母カラスは自分を取り戻したようです。
「その子はどうするんだい?」
「この子は森に置いて行きます。ありがとうございました」
母カラスは二人にお礼を言って飛び去って行きました。母というのは強いものです。子を思えば、勇気を持って諦めることだって出来るのですから。
「あなたが助言するなんて珍しいわね。何かあったのかしら?」
「別に。言いたいことを言ったまでだ」
「言いたいことを言えるようになったのね。良いことだわ」
少女は今まで見たことのない笑顔をしています。
さあ行きましょうと少女は言い、歩き始めました。怪物は少女の横に並びます。意外と小さいんだなと思い、怪物はなんだか不思議な気持ちになりました。