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また鳥は砂浜に降り立つ

作者: 景雪

 この作品は、筆者の実体験に基づいています。北日本文学賞には、別の題名で投稿しています。

 鳥は、白い翼を春の日差しに照らし、立ち尽くす雄一郎に無言で迫った。


  * * *


 被災地への災害派遣が決定した四月上旬、地震被害の影響で定期人事異動が五月一日へずれ込み慌ただしい庁舎内で、雄一郎は派遣要領に目を通していた。派遣五日前だというのに警務課の事務係長から手渡された要領は彼の一つ前、第九次隊の物で、彼が所属する第十次隊の派遣要領は、刻々と変化する被災地の状況によって大きく変わる可能性を秘めていた。

 四月上旬に宮城県沖で発生した震度六強の余震によって、彼が派遣されるはずの避難所はライフラインが全て停止してしまい、派遣前日になって、水と食料七日分を各自用意するようにと慌ただしい通達が来た。雄一郎は登山用ザックに寝袋や食料、飲料水、着替え、携帯用コンロ等を詰め込みながら、強い使命感を背中に感じて顎を引き背筋を伸ばし、しかし決して消すことができない不安と焦燥を胸の奥底にまだわずかに残していた。

 いよいよ明日被災地へ出発だという非番の土曜日、雄一郎は銀座で百合子と落ち合い、昼食を一緒に食べた。彼は彼女に好きなものを食べていいと言ったけれども、百合子は雄ちゃんの行きつけのお店がいいと、彼の腕をとって老舗の大衆食堂に入った。

 銀座という街の中ではやや奥に引っ込んだその店は、昼間からお銚子をあおる粋なひいき客が多い隠れた名店で、お笑い芸人やらテレビで知られた面々をたまに見かけることもあった。雄一郎は百合子と銀座で会う際、時間に几帳面過ぎて一時間は早く着いてしまい、大概その店で軽めの一杯をあおるのが習慣になっていた。当番と非番を繰り返す不規則な勤務形態の彼が昼間から酒を飲んでいても、百合子は母のように光をためた目で優しくそれを見つめるだけで、彼の好きなようにさせていた。

 雄一郎は二十九歳、百合子は二十八歳。交際を始めて六年になる二人はいつ結婚してもおかしくないように周りには映ったが、二人の間でも、二人を取り巻く周りの人間との間でも、不思議と結婚に関する話が話題に上がることはなかった。

 そうは言っても雄一郎は、百合子が結婚を意識していることに薄々感づいてはいた。だが二人の間で結婚について具体的な話が持ち上がってしまうのが怖かった。責任を一個一個積み上げていって、身動きが取れなくなるのを想像したくなかった。警察官は勤務形態が不規則で、業務に危険も伴う。自分と結婚したら百合子を苦労させることになる。雄一郎は自分の考えを一人だけで固めて、いざその時が来たら百合子に全てを話すつもりでいた。

 災害派遣は志願した。六年間少しも変わらず非番の度に会う習慣が、百合子には申し訳ないが息苦しくなっていた。二人が三十歳という節目の歳に向かうのと歩を同じくして、“結婚”が帯びる重圧も徐々に近づいてくる気がしてならなかった。とにかく一旦距離を置きたかった。そういった意味では災害派遣は都合が良かった。


 「明日、出発なんでしょう?」

 百合子は、先に着いてカウンターに座る雄一郎の右隣に腰を落ち着け、生ビールをジョッキで注文しながら声をかけた。

 「うん」

 彼は短くそれだけ答えて、一本目のお銚子が空になるとそれを左右に振ってお替りを頼む素振りを見せた。たしなめるように百合子が彼を制する。

 「だめ。お酒は控えめにして。これから被災地に行くのに」

 出発まであと一日以上あるよ、と心の中で抵抗してみたが、彼女の忠告を素直に受けた。女の尻に敷かれる付き合い方の方が雄一郎には適していた。

 「なあ。寂しい? 八日間会えないけど」

 「ううん。お仕事だもん」

 百合子は気丈な女だった。雄一郎の前では特に弱音を吐こうとしない。嘘でもいいから「寂しくて死にそう」とでも言ってくれた方が、気が楽になるのにと昔は思っていたが、今そんなことを言われても返答に困るだろうことは容易に想像できた。

 空になったお銚子の代わりに出てきたお茶をゆっくりと口に入れながら、百合子がビールを流し込む度に動く彼女の喉を、雄一郎は眺めていた。あんまりじっと見つめているので、視線に耐えきれなくなった彼女がジョッキを置き、泡のついたままのふくよかな唇を少しだけ開け、横目で彼に眼差しを投げた。彼はその視線にいつも以上に女らしさを感じて、このまま一週間以上会えなくなるのが無性に残念でならないような、惨めな気持ちになって、彼女の突き出しとして出されたブリ大根を横取りして突っついた。

 百合子は、彼女の右隣に座る女性客の手元を見つめていた。女性客の左手薬指にはプラチナの指輪がはめられており、それが店の照明を受けて角度を変えながら輝いていた。雄一郎はそれがカルティエのラブリングという結婚指輪だということを知っていた。数ヶ月前のやり取りを思い出す。


 その日、百合子は彼のアパートのソファに座りながら、女性向けファッション誌を読んでいた。見ていたテレビ番組がちょうどCMに切り替わったところで、何の気なしに雄一郎は指輪の特集ページをちょっと覗きながら、

 「へえ。俺、こういう太いやつの方がいいな。細いのは女っぽくって」

 深く考えずに声をかけたつもりだった。それなのに彼女は大きな目を余計に大きく見開き、狭い二人掛けソファに座ったまま雄一郎の方ににじり寄ってきた。

 「本当に? 素敵よね!」

 そうして頼んでもいないのにラブリングの解説を長々と始めた。彼は当惑しながらも、嬉々として話す百合子の表情が余りに可愛らしかったのでうなずきながら聞いていた。

 「ラブリングの、丸に横棒を引いたような模様は、ビスなんだって」

 「ビス?」

 「相手をつなぎ止めておくための、ビス。そのビスは、贈った相手にしか取れないんだって」

 「なんか、怖いね」

 「雄ちゃんは、つなぎ止めておく必要ない?」

 「え……?」

 その問いには答えられなかった。まん丸に見開かれた百合子の瞳が、途端に小さくなった気がした。


 ほとんどビールを飲み終わった百合子は、割り箸の袋で箸置きを作っていた。細い指で器用に折り上がったそれは鶴の形をしていた。

 「へえ。上手いね」

 「わたし、鶴、好きなんだよね」

 鶴の箸置きに遠慮するように、百合子は箸をそっと置いた。


 仙台への交通手段は機動隊の人員輸送車だった。背もたれが倒れないので、八時間の移動時間は背中と腰に鈍い痛みを蓄積させる。替えのタイヤが通路に横たえられ、狭い車内に必要以上の圧迫感を与えていた。金網越しに見る東北自動車道は暗く、節電のために道路照明が消されているのが分かった。ほとんど寝ることはできなかった。金網越しの朝日が、車内の至るところに光と影の格子模様を作っていた。

 月曜日の朝六時きっかりに被災地に到着すると、体育館に古畳を敷くところから作業が始まった。勤務先は仙台市宮城野区の体育館で、複合運動施設の一角だった。彼の担当業務は行方不明者の捜索でも遺体の運搬でも巡回や警備でもない。体育館に設けられた避難所の開設、運営だ。警視庁の警察官が行政職員として被災地に派遣されていることは意外と知られていない。「警視庁」という腕章は威圧感を与えるという配慮から、「東京都」という腕章が配られた。一緒に派遣された彼の同僚は、「俺たちは遺体を見なくていいから気が楽だな」と苦笑いを浮かべながら言った。


 畳を敷き、布団や枕、シーツ等の寝具セットを用意し、続々と訪れる被災者に配布する。畳は世帯ごとに区画分けをし、自衛隊によって搬入された段ボールでついたてを施す。合間に食料や衣服等の支援物資が次々に運ばれてくるので、その度ごとに倉庫に運び込み、種類別に分けて数を計上し整理していく。入庁七年目、二十代の雄一郎でもかなりの重労働だ。数人いる四十代の同僚にとっては相当過酷な業務内容に思えた。

 朝夕の食事は、区がまとめて発注する弁当と、常駐する自衛隊水事班が用意する味噌汁や豚汁で賄う。昼食は自衛隊の沸かしたお湯でカップラーメンやアルファ化米を提供する。弁当に入っているおかずは揚げ物が多く、年配者には不評だった。ガスが使えないので、被災者に各自で調理してもらうことはできない。あるお年寄りにレトルトのおかゆを温めてくれと頼まれたが、一人の要望を聞けば全員の要望に応えなければならないため断らざるを得なかった。

 「揚げ物は食えんよ。残しちゃ、もったいね。お茶漬けか、かゆでわしは十分だんべよ」

 お年寄りの寂しそうな言い方がいつまでも鼓膜の隅に残った。

 雄一郎のように災害派遣された者たちは、被災者向けの食料の余りがあればそれをもらい、なければ東京から持ち込んだカップラーメンやアルファ化米を腹に押し込んだ。野菜を十分に採れないので普段は出来ない口内炎がいくつか出来た。スーパーやコンビニエンスストアは限定的に営業を始めていたが、品数は多くはなく、特におにぎりやパンなど気軽に食べられる食品類は品数が薄かった。

 開設されたばかりの避難所の運営が軌道に乗るまでは、まだまだ時間が必要に思われた。


 二十四時間勤務の当番が終わると、翌日は非番となる。非番であっても緊急事態があれば出動しなければならないから、飲酒は厳禁で、出かける際は班長に訪問先と訪問理由を告げる義務があった。雄一郎は最初の非番の日、勤務に疲れて仮眠所の床に突っ伏す同僚を尻目に、石巻市に赴く旨班長に報告した。

 「午後三時までには戻ってこい」

 声を張り上げ返事をして、彼は石巻行高速バスの時間を調べた。仙台駅前三十三番乗り場から一時間に一本から二本出ていることを確かめると、早足で仙台駅に向かい、時間きっかりに到着したバスに乗り込んだ。


 津波から四週間が経つのに、石巻の惨状は報道以上の凄まじさだった。市の中心部はライフラインが全て麻痺し、飲食店は壊滅、駅前には炊き出しに並ぶ長蛇の列が出来ていた。水道が止まったままの公衆便所は床一面が汚物にまみれ、用を足すどころか足を踏み入れることさえはばかられた。

 石巻港に向かって歩くと、津波被害が一気に目の前に覆いかぶさってくる。鉄筋コンクリートの団地三階の窓に突っ込んだ大木。遺体が引き揚げられたことを意味する、旗の着いたつぶれた乗用車。全焼して黒焦げになり、窓が全てなくなった学校。斜面に造られた墓地の、津波が中ほどまで到達して墓地を崩壊させた跡。がれきの端に小奇麗に並べられた三段の雛人形とランドセル。こじ開けられたATM、中身が抜き取られたご祝儀袋、散乱する未使用の男性用避妊具、未だにひかない水と、何故か悠々とそこを泳ぐ鴨の群れ……

 津波の痕跡を重い足取りで辿る雄一郎の背後で声がした。

 「いた! 仏さん、若い女だ!」

 関東から派遣されていることを示す腕章を着けた機動隊員が、がれきの下に長い棒を突っ込みながら叫んでいた。機動隊員が棒を差し込む度に、大量の蠅が黒い塊となって飛び立つのが視界の端に入り、雄一郎は口元を押さえてすぐさま目を逸らした。自宅に私物を取りに戻ったのか、中年の民間人女性が、両手で顔を覆って膝から崩れ落ちた。


 ―今日は、石巻に行ったよ。

 その夜、宿舎の前にある大通りの歩道で、雄一郎は百合子に電話をかけた。

 ―そう。会った時にお話をきかせてよ。

 彼女はそうとしか答えられないとでも言いたそうに、短く返事をした。彼の張りのない声が感染してしまったのか、彼女の声も同様に力がなかった。沈黙がずっと続いた。

 ―また、電話するよ。

 携帯電話の耳元から聞こえてくる、百合子の弱い吐息のぶつかる音を聞くのに堪え切れなくなり、雄一郎はそれだけ伝えた。

 ―うん。明日も、声を聞かせてね。

 最後の一言だけは、彼女の声にいくらか力がこもっていた気がした。


 二回目、三回目の当番として勤務する度に、避難所は統制を保ってきた。雄一郎が勤める避難所の被災者は、ほぼ全員宮城野区の海寄りの地区から集まっていた。被災者たちは自治会ごとに四つのグループを作り、それぞれのグループで代表者を出し、その中から更に全被災者の代表者を選出し、区との連絡調整を円滑に行えるよう努力した。掃除や炊事、倉庫の管理等、被災者が自分たちで行える業務は彼らの自主性に任せるようになり、行政職員が担う役割は減っていった。たった三日か四日の間で急速に組織としての体裁を整えていく様に、雄一郎は力強ささえ感じた。

 「何か、お手伝いすることはありますか?」

 中学生くらいの被災者に声をかけられ、雄一郎は振り返って彼の顔を見た。丸刈りで、頬の赤らみに幼さが残る表情には、少年が精一杯作り上げた意志の存在が認められた。

 「大丈夫だよ。我々がやるから」

 「あの、失礼ですけど、警察の方ですか?」

 「やっぱり分かる? みんな短髪だし、がさつだからね」

 「いえ。僕も、将来警察官になりたいんです!」

 そう言い切る少年の瞳が、余りに輝いていてうらやましささえ感じた。

 「兄です」

 少年が差し出した写真には、巡査の格好をした凛々しい青年が写っていた。

 「お兄さんに憧れているんだな」

 「兄は、地震の際に殉職しました」

 雄一郎は少年の目をまっすぐ捉えた。幼さの残っている彼の顔は、急に大人になるにはやはりまだ早いと思えた。

 「お父さんと、お母さんの言うことをしっかり聞いて、勉強と運動を頑張るんだぞ」

 「はい!」

 少年の肩に手を置くと、意外と筋肉の盛り上がりを感じて、そこだけが一足早く大人になろうとしているように感じた。


 非番の日には、少しでも多くの津波被害を確認するために動いた。

 仙台港に積み上げられたぐしゃぐしゃの自動車が、新車で輸出されるはずだったプリウスだったと知って、自分もプリウスに乗っている彼は衝撃を受けた。

 キリンビール仙台工場では、工場の周りを囲む木々の間に、多くの乗用車が、時には縦に三台も重なって放置されており、大量のビールや発泡酒、缶チューハイの缶がそこら中に転がっていた。

 自らが勤務する避難所の被災者が住んでいた、宮城野区の海沿い地区にも赴いた。石巻に比べても決して劣ることのない惨状を呈していて、津波の被害を一つ一つ心に刻んでいくように歩いた。

 しかし、朝、背を優に超すくらいガレキが積み上げられていた場所が、夕方にはガレキが胸の高さくらいになっていたりすると、雄一郎は俯いていた頭を上げて、胸に力を込めて正面を見直すことができた。


 ―今日は、宮城野区の海沿いの地区を回ったよ。

 百合子には毎日電話をかけていた。初日に電話をかけた時、余りにも弱弱しかった受話器の向こうの彼女の声は、徐々にではあるが、勢いと弾みと活力を、取り戻していっているように思えた。

 ―そう。何か雄ちゃん、段々話し声が強くなっている気がする。

 同じ気持ちなんだ。彼は思った。思って、その気持ちを確かめるように何度も噛みしめた。

 ―ほとんど倒れ掛かった桜があってさ、根元の方は、もう引き裂かれたように無残な姿になっているんだけど、枝の先の蕾が、今にも開きそうなほど大きく膨らんでいるんだ。

 その桜を見つけた時の驚きと喜びをできるだけそのまま伝えようと、雄一郎は早口に、しかし一言一言を丁寧に置いていくように話した。

 ―きっと咲くよ。その桜は。

 早口で話す彼をなだめるように、百合子はゆっくりと、言葉を一つずつ受話器に押し付けるような喋り方で言った。

 ―咲いてほしいね。いや、きっと咲くよ。

 雄一郎は、あたかも自分自身に語りかけるように、百合子の言った言葉を反復した。


 最後の非番の日、雄一郎は若林区に向かった。徒歩で二時間はかかるこの場所まで行くのは、健脚の彼をもってしても困難を伴った。しかし彼はどうしても若林区のその場所に行きたかった。未だその場所に漂っている霊魂が、彼を引き寄せているのだとまで感じた。彼は当番が終わってすぐに水と食料を用意して出発した。津波に呑み込まれた二百体の遺体が打ち上げられ、全ての遺体を収容するのに一ヶ月を要した、若林区荒浜地区に。


 壊滅的な被害を受けて一面焼け野原のように家屋のなくなった大地に、小学校の四階建て校舎と隣り合う体育館が、外堀を埋められて最後に残された天守閣のように佇んでいた。

 校舎の一階には乗用車が十台は突入しており、一階だけ見ればそこがかつて小学校であったことは少しも理解できない。壁にかけられていたはずの時計は三時五十七分で止まり、その時刻が、津波が到達した時間であることを嫌になるほど突きつけており、雄一郎は時計を直視することを避けた。

 がれきの中には教頭のネームプレートが、泥に汚れてかつての力を失ったように落ちていた。

 校長室だったのだろう、威厳を持って壁にかけられていた歴代の校長先生の肖像は、むざむざと泥に埋もれて見る影もなかった。

 上階に登る階段の踊り場には、三月十一日の給食の献立がそのまま残されており、主食がチョコチップパン、おかずが鮭のハーブ焼き、レタスとベーコンのスープと書かれ、給食当番である児童の下の名前だけがはっきりと記入されていて、しばらくその前でじっとたたずんでしまった。

 三階の女子便所前に置かれた女性用の小さなポーチには、つけまつげと生理用品が入れられていた。持主であった若い女性が、必需品である生理用品を置きざりにしてまで必死にここを離れた様子が想像でき、喉の奥が急激に熱くなった。

 五年生の教室には、黒板の横に「挑戦状」なる毛筆の紙が堂々と掲げられていた。三月十四日月曜日に、五年生一同が六年生一同にドッヂボールで勝負をしかける旨が書かれている。地震も津波も来なければ、彼らは春のもうすぐそこまで来た校庭で、額を、首筋を、健康的な汗でいっぱいにしながら、歓声を上げて球技に没頭したはずであった。教室の外からの景色は、一面泥とがれきがただ目に映るだけに過ぎず、かつてそこに砂を敷き詰めた校庭があったことなど、一体誰が想像できようか。

 四階の教室では、毛布が人を囲んだ形のまま、教室の床の所々に膨らみを作っていた。中には、黒い暗幕を外からかけた物もあり、毛布だけでは寒さを凌ぎきれず、どこぞの教室の窓枠から外してきたことは容易に理解できた。大きな毛布の膨らみと、それに覆われるように小さい膨らみが残っており、それは親が子を毛布の上から抱きしめていた跡に違いなかった。どこから入手したのかは不明だが、パックに入れられたご飯と、皿に入れられてスプーンが刺さったままのコーンフレークが、一面にカビを生えさせて毛布の周りに置かれていた。


 一緒に電車に乗っている時、百合子がたたんだベビーカーを携えた母子を見つめていたのを思い出した。女性は百合子よりも少し年上で、一歳にならないであろう幼児を抱えていた。土曜日の夕方で乗客が多い時間帯だった。右手にベビーカー、左手に幼児を抱えて、女性は乗客が乗り降りする度に窮屈に姿勢を変え続けていた。

 「席、譲ってあげればいいのにね」

 つぶやく雄一郎に同調するように、百合子が小声でささやいた。

 「子供を産むなら、若いうちの方がいいみたいだよね。体力的に持たないって」

 「ふうん。百合子は二十八か。まだ若いよね」

 雄一郎がそう言うと、百合子は吊り革ごと身体をぐいっと彼の方に寄せて答えた。

 「若くないよ。雄ちゃん、女が歳をとるのは速いんだよ」

 言葉が吐かれる度に、百合子の吐息が頬にかかってこそばゆかった。


 忘れ去られたように洗面所に置かれた入れ歯を見つめていた時、雄一郎は背後から声をかけられた。

 「マサさんのだ」

 少しうろたえながら振り返ると、八十代後半と思われる男性が、手に少しばかりの荷物を持って立っていた。歳の割には腰がまっすぐ伸び、足腰の強靭さも想像できたが、顔に刻まれたしわは歳相応だった。彼の話す東北弁が、ここに忘れ物を取りに来たかつての避難者だったことを分からせた。

 「マサさん?」

 雄一郎は、逆さまに放置された入れ歯を横目で見ながら問いかけた。入れ歯がなければ、そのマサさんは随分苦労しているんじゃないのか、と想像しながら。

 「んだ。大正三年生まれの、ばあちゃ」

 大正三年と聞いて、大正七年生まれで九十三歳の祖母を思い出し、マサさんが九〇代後半であることは計算できた。

 「ここは、二百人から避難さ、してて、自衛隊のヘリコプタで、救助さしてもらっだ」

 荒浜地区は海岸からずっと平坦な土地が何キロも続く。津波に襲われたこの地区は、時間が経ってもずっと海水が引かず、陸上から救助することができなかったのだろう。だからこそ、荒浜海岸に打ち上げられた遺体にも、しばらくは近づくことさえできなかった。

 「マサさんは、ミヨさいう、ちいせ子、ずっと抱いでた」

 老人は廊下の突き当たり、屋上に向かう階段に目をやりながら続けた。そこから屋上に上がり、救助されたのだろう。口調は意外なほどに穏やかで、冷静だった。

 「お孫さんか、曾孫さんですか?」

 一瞬、雄一郎の目をはっきりと見た老人は、また階段に視線を戻すと、口を開いた。

 「んや。マサさんは、旦那さんを亡ぐした。戦争で。子どもも、いねがった。」

 雄一郎は背中を凍った布で拭われたように、全身を緊張感が貫いたのが分かった。目を強く見開いて、老人のしわがれた口元を凝視する雄一郎に、全く遠慮することもなく老人は続きを口にした。

 「わしは、後でい。最後でい。それだけさ言って、マサさんは毛布で固く、ミヨを抱いでた。ミヨは父ちゃんも母ちゃんも、津波さ流されで、今も見つがってね」

 雄一郎は口の中に大きくたまった唾液を、音がするほど勢い良く飲み込んだ。そして一気にまくしたてた。

 「マサさんは、マサさんはどうしたんです? 入れ歯を置いていって、困っているんじゃないですか?」

 老人は顔をうつむきがちに下に向けると、口をつぐんだ。しわの奥に窪んだ眼は閉じられており、上半身が小刻みに振動していた。雄一郎はおのれの顔から、一気に血の気が引いていくような感情の残酷さを覚えて、身震いが全身を支配するのをどうすることもできなかった。

 「鶴は、シベリアから、日本さ、渡ってくんだ」

 「え?」

 「夏になったらまたシベリアさ、戻んだ。俺はなあ、兵隊の時にシベリアの収容所で空さ見上げて、こんな地獄さ戻ってくる鶴が、馬鹿だと思っでた」

 老人は視線をゆっくりと上げ、どこを見つめているのか、しかし一点に視点を定めながら言った。細切れに口元から漏れた言葉は、言い切る潔さが、確かに語尾にこめられていた。

 「鶴は、どこでも生きていけんだよ。地獄に違えねえシベリアにも、必ず戻ってくんだよ」

 独り言のようにもう一度放たれた言葉は、より一層力がみなぎっているように思えた。


  * * *


 雄一郎は、小学校から徒歩数分の荒浜海岸の堤防に立った。たった数週間前、凶暴な大津波が襲った場所に間違いないはずなのに、波が沖と岸を往復し、微かに風を振動させる弱い音しかしない。むざむざと命を落とさなければならなかった人々の嘆きは聞こえてこなかった。右から左まで大きくいっぱいまで振り返っても、ずっと広がる白い砂浜だけが視界を埋める。

 ここが、二百人の命を飲み込んだ荒れ狂う浜だとは、事前情報で嫌というほど知らされていても、到底信じられない。いくつもの仏教宗派が供養に訪れたことを物語る、卒塔婆が残されている。彼はそれらの前で無心に手を合わせ、長い時間黙祷を捧げた。

 「百合子」

 目をかたくつぶった彼の口から無意識に、だが自分でもびっくりするくらいはっきりと彼女の名前が飛び出した。

 自立していく被災者が、警察官を志す少年が、枯れかかってもなお花を咲かさんとする桜が、幼子を自らの身体と体温で守った老婆が、小学校で出会った老人が、流れるように彼の脳裏に浮かんでは消えていった。

 「百合子」

 もう一度、雄一郎は彼女の名前を呼んだ。名前を形作る語感を、存在感を確かめるような、決して返答を求めない、意志のこもった喋り方をもってして。唇は強く震えて、彼が言葉を発した心意気を、明確に示していた。左手の薬指を右手で握った。血のめぐりが悪くなり指が白くなっても、握るのをやめなかった。

 俺は、自分が警察官であることを言い訳にしていないか。不規則な勤務形態と、危険な業務内容を逃げ道にしていないか。彼女の主体性と積極性に甘えていないか。俺には、百合子が必要だ。百合子も、俺が必要なんだ。

 顔も知らないマサさんが、入れ歯が入っていないしわしわの口を大きく開けて笑いかけてくる気がした。

 背骨に力を入れるようにまっすぐと立った。口を噛みしめてきつく結ぶように顎を引いた。一直線に腰の下におろした拳を握った。雄一郎は目の前に広がる海岸に目を向けた。

 そこには、はるか遠くまで続く、どこまでも白い砂浜があった。砂の白を見つめていると、砂浜の一部が隆起し、一羽の大きな白い鳥になった。羽根の一本一本が砂粒でできているのか、陽光をきらめかせて輝きがまぶしかった。鳴き声も上げずに鳥は、砂浜の白の中にじっと佇む。佇んでいるはずなのに、雄一郎の眼球に、鳥は余りにも静かに迫ってきた。雄一郎の視界は白で全て埋められ、その白が砂であるのか鳥であるのか、もはや判別さえできなかった。

 東日本大震災で亡くなった方たちの魂が鎮まることを、お祈り申し上げます。

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[良い点]  読みました。素材がいいと思いました。作者の実体験に基づいている、とありますが、いい経験をされているなと思います。面白かったです。
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