其の九の十六
「智香・・・さん・・・?」
「は、はい・・・」
その柔らかくて暖かい、そして懐かしいこの声音・・・。およそ律佳ではなかったが、これが本当の“律佳”だった。そう、生前の・・・智香が壊してしまった律佳である。
彼女は智香に抱かれながらも、天井やら廊下やら教室を見回して、不思議そうに尋ねた。
「・・・私・・・どうしてこんなところに・・・?」
「それは・・・色々あったんです・・・」
申し訳なさそうに、智香は律佳に言った。答えになってもいないのだが、今はそう言うしかなかった。
「そう・・・ですか・・・」
それでも律佳はにっこり微笑むと、智香の手から離れた。
しかし彼女は負傷の身。途端咳き込み、しゃがみこんでしまった。
「り、律佳さん!!」
智香はそこへ走り寄って、だが律佳はそれを手で制止した。
「で、でも・・・」
智香は困惑しながらも、律佳の様子をうかがった。どうやら吐血したらしい。口元に当てた手が赤く濡れている。
「だいじょうぶ・・・ですから・・・一人で・・・」
律佳はぐぐっと膝を持って、健気にも立った。足元はフラフラだったが、倒れはしないだろう。耕輔はそれらに気付き、律佳に振り返った。
「り、律佳・・・!!」
見るなり彼は、彼女に走り寄って、
「良かった・・・!!生きてたんだな!?」
と言いながら彼女に抱きついた。普通相手が律佳とは言え、彼は抱きつくなんて非常識なことはしない。よほど嬉しかったと言うことだ。
だが律佳はキョトンとした顔で、耕輔を見るばかりであった。それはそうだ、今の律佳の記憶に、“耕輔”はないのだから。
「あ、あの・・・あなたは・・・」
「おいおい!!律佳らしくねーな!もっとシャキッとしろよ!!」
「いや、あの・・・」
困惑する律佳を見て、智香は心を落ち着かせていた。逆に心臓がどくどくと動いているようでもあったが、律佳が死んだ事実を受け止めるよりは、幾倍もマシであったのだ。
その様子に、キョウも気付いたらしく、背を向けていた体を翻した。
瞬間、律佳とキョウの眼があった。
「き、きみは・・・!!」
キョウは感情むき出しに律佳を見た。あの悲しそうな眼――間違えようがなかったのだ。
「“鏡”さん・・・」
律佳も、耕輔に抱かれながらだが、キョウ――鏡の眼を見つめた。その昔愛した――いや、今の律佳は、現在進行形で鏡を愛している。全てを知らない律佳だから。
「律佳、なのか・・・?」
言いながら、律佳に近づいていく鏡。
「・・・?律佳?」
とても先ほどまでの鏡とは思えぬ声と態度に、耕輔は疑問を感じていた。
「すみません・・・あの・・・離して頂けますか・・・?」
そっと手を耕輔の胸に這わせ、律佳は小首を傾げて微笑んだ。耕輔は動揺し、
「あ、ああ・・・」
と、お願いされなくても、律佳の体を離してしまっていた。
「鏡・・・さん・・・」
うっとりとした眼で、彼女は鏡に、そろりそろりと近付いて行った。
「律佳・・・」
惹かれたように鏡も律佳へと歩み寄っていく。やがて抱き合い、律佳は大粒の涙を流していた。鏡も泣きたかったであろうが、彼はそんなに貧弱な男ではない。彼女を抱擁出来る大きな器をもっているのだ。
「ああ、鏡さん・・・何だか、とても懐かしい・・・」
「俺もだ、律佳・・・」
「けど・・・何だかとても苦しい・・・あなたを思い出そうとすると、胸がぎゅうと締まるんです・・・私は何か・・・とんでもないことを・・・したような・・・」
瞳が揺れ始め、歓喜の涙はやがて悲しみの涙となる。鏡も何も言えないらしい。それはそうだろう、最愛の恋人に嘘をつくわけにもいかないし、まして真実を伝えることさえ出来ない。
「思い出さなくていいんだ・・・。今を生きれば・・・」
そんな二人を眺めながら、智香が眼を潤ませていた。
やっと、やっと会えたんですね・・・良かった・・・。
だがさきほどの律佳の言葉がよみがえる。関係はないと思うのだが・・・。
確か、記憶を再生などと言っていた。
「まさか・・・でも・・・?」
ライドの構造上、記憶は絶対消えないよう、ブラックボックスと言うものがあり、それは何をどうしても消えないようになっている。もしそれが再生しているだけだったら。
もし、そろそろ記憶が消え、智香が壊した律佳が再生されたら。
まずい。学校のみんなだけではない。街一つ、いや、二つはなくなる。
「鏡さん!!離れて!!」
「え?」
その時には、律佳の両目は赤く、ギラリと光を放っていた。