其の九の八
今こそ冷静になる時だった。けれど意に反し、頭は真っ白になっていく。何も考えられない。
そのときは一瞬だけだったが、耕輔は、少しずつ近づいてくる怪物が、もう目の前、すぐそこに来た錯覚を見た。
「・・・・・・ッ!!」
息が止まり、全身が凍りつく。
「こうすけ!!なにやってんの!!逃げなよ!」
はぁはぁと息を乱しながら、体を思い切り揺さぶって、律佳がそう叫び倒していることにやっと気付いた。
「ダミーウィンドだよ!こうすけ!!ち・・・ちぃちゃ・・・ちぃちゃんのダミーウィンドなんだよぉ!!アレ!!」
戸惑いながらもしっかり名指しし、怪物に指を指す。
まだ頭の中は真っ白だった。だが、耕輔はそれにすぐ反応し、怪物から逃げ出した。
律佳と言う、その大切な名前だけ、頭の片隅に記されていたのだ。とにかくがむしゃらに走る。
「・・・律佳・・・?」
少しずつ頭が戻りつつ、突然耕輔は混乱し始めた。
「り、律佳!!無事か!?ち、智香さんはどうなった!?」
「こうすけ!なに言ってんの!!ちぃちゃんは、だから・・・。わ、私をころそうと・・・さぁ・・・!!」
途中律佳の声が震えていた。
「智香さんが・・・律佳を殺すだって・・・?何が?どうして智香さんがお前を?」
「し・・・知らないよぉ!!!・・・そんなこと、聞かないでよっ・・・!」
ぐすっと堪えて、律佳は目から“水”が出ないよう努めた。
ここでやっと耕輔が全て思い出した。かわりに混乱時の記憶は吹き飛んでしまったが。
「・・・!・・・そ、そうだった・・・!そうだ!智香がお前を殺そうと――・・・!!・・・っ・・・いや・・・」
言おうとして止める。一旦口の中で暗証し、今律佳にとって酷いことを言おうとしてしまったことを悔いた。しかしほぼ内容は伝わってしまっていた。
「そ、・・・そうだよ・・・ちぃちゃんは・・・わたしなんか・・・いらないんだよぉ・・・」
ぶわぁっと水があふれた。とても悲しかったのだ。智香が、自分を消そうとしていることが。
結局、私はカイブツと同じ存在なんだっ・・・。
間違っているのかそれで正しいのかも判断できず、律佳は、ギュウと耕輔を後ろから抱いた。いつものような力はなかった。いつもの律佳ではなかった。
「律佳・・・そんなことは・・・」
今しがたまでずっと犯人は智香だと思い続けた耕輔だったが、律佳のこんな弱々しい姿を見ると、“そうだ”とは決め付けられなかった。でも“違う”とも言えない。
大量の熱い水を背中に感じる。汗ではない。涙だった。