第ⅩⅩⅩⅣ話:分別は子供にだってある。
割れたグラス。
床に散らばった氷。
憤然とした態度で立ち上がっている二人の男女の姿。
(何が・・・?)
当然、この状態だけで全てを判断しろというのは無理である。
兎に角、現状の自分の仕事は、床の清掃だという事だけは解っているのだが。
「このヤロォッ!」
片方の人間。
男の方がその手をもう一方に向かって振り上げたのが視界に入った時、征樹はその判断を翻した。
-バチィンッ!-
室内に響いた渇いた音。
「アオイちゃんッ!」 「何だ!このガキッ!」
代わりに殴られた頬の痛み。
夢ではない。
誰かに叩かれたのは何時振りだろうか?
「ッ・・・お客様、"彼女達"は当店の華であり、商品です。傷をつけるような行為はお止めください。」
ニューハーフをしっかりと"彼女"と言い切る征樹。
自分自身でも冷静に振舞えていると思った。
さっきまでイライラしていた気持ちがすぅっと冷め、痛みだけしか感じなくなる。
「それに他のお客様もいらっしゃるので。」
「関係ねぇ!オレだって客だ!」
確かに先程までのイライラは治まった。
"先程"のは。
「では、大切な当店の華を傷つける人間は、お客様ではございませんね。お代は結構ですから、お引取りを。」
「何だとォ!」
相当酔っているのだろう。
このままだともう一度張り手がきそうだが、征樹は動じなかった。
ここで逃げたら、後ろの人は守れない。
「では、警察に通報させていただきます。刑法234条威力業務妨害及び、同法204条傷害罪・・・という事で宜しいですね?」
これが止めだった。
征樹としては、かなり適当に言ったつもりで。
特に第○条なんてところは合っているかすら危うい。
寧ろ、こんな物言いで、脅迫だ何だのと言われたら逆にどうしようかと考えていたのだが。
相手にはそんな法律の知識はなかったようだ。
征樹のこの言葉を聞いて、あっさりと店を出て行った。
勿論、支払いもせずにだ。
実は、こっちがあったから引き下がったのかも知れない。
「救急箱が無駄になった・・・あぁ、僕が使うのか。」
イマイチすっきりしない感じを愚痴に変換させつつ、床を片付ける。
愚痴を言っても、手は止めないのが征樹の変な所で真面目な部分を表してるのも滑稽だ。
皿洗いの時と同じくらいの猛スピードなのも。
「お騒がせ致しました。」
片付け済ませると、周りの客に素早く一礼。
そして退散・・・
「アオイちゃん。」
出来なかった。
試みは物の見事に大失敗で、征樹の進路・・・退路とも言うが、それは完全に瀬戸によって塞がれてしまった。
「あの、瀬戸さん、お客様が払わなかった代金は、バイトとして埋め合わせしますから。」
確実に来月から、半餓死生活と覚悟した。
もっとも、自分の発言で起こした結果なのだから、自分が責任を取らなければならない。
それは当然で、自分が子供だからでは許されない。
葵 征樹とはそういう子供だ。
「アオイちゃん・・・悲しいわ。」
「へ?」
悲しそうに瞳を伏せる瀬戸の様子に拍子抜けする。
「私がそんな事で怒る人間だと思っていたのね・・・。」
実にわざとらしい言い回しではある。
「い、いや・・・。」
「"女"の代わりに身体を張って殴られた男を怒る程、私は残酷じゃないわ。ねぇ?」
瀬戸は横に立っていた客に話を振る。
どうやら、先程の騒ぎにママである瀬戸が駆けつけなかったのは、この客を出迎えに行っていたからのようだ。
(振られた方も困るよね・・・。)
「うぅむ、天晴れ!今時の若者にしては上々。ママ、あの客のお代分のボトルを入れようじゃないか。」
初老の男性は満足そうに言った。
代金を肩代わりして支払うのではなく、その分のボトルを入れるという所が、気が利いている上に大人の男の感じが征樹にはした。
「でしょう?"清音"の息子なのよ、彼。」
「何?」
初老の紳士は、征樹の顔をまじまじと見ると頷く。
「・・・母親似で良かったの。」
「あはは、どうも。」
酷い評価もあったもんだとは思うが、どうやら亡くなった母でなく父も知っているらしい。
両親を知っている大抵の人間の場合、同じフレーズを言うからだ。
紳士との面識は、記憶を探っても征樹には無い。
「利発で、無駄に正義感が強くて頑固で、優しく人誑し。じゃろ?」
どれも自分にあてはまらないのだが、唯一、"頑固"というのだけは自覚があった。
「そうねぇ。優しくて頑固で、自分に厳しくて、ちょっと空回りな所があって、総じて不器用ね。」
(い・・・言いたい放題だ・・・。)
だが、自分を理解してくれている。
或いは、理解しようとしてくれる人間がいる。
それが嬉しい。
そこには、確かに"葵 征樹"という人間が存在するのだから。
じゃあ、そう思ってくれる人に自分は何が出来るだろう?
「・・・瀬戸さん、電話お借りします・・・。」




