世界の音が蝶になるまで
病院の待合室は、音でいっぱいだ。
受付の人が番号を呼ぶ。自動ドアが開く。誰かが咳をする。雑誌のページをめくる。どれも小さな音のはずなのに、病院の白い壁に跳ね返り、私の耳の中で互いにぶつかり合って、鋭利な破片になって散る。
膝の上でスカートを強く握った。待合室の椅子は固く、背中に触れるたび、服の下の皮膚まで冷たい。母は隣に座って、何度も私の顔を見る。心配しているのだとわかる。けれど、その心配に応えるための言葉を探そうとすると、待合室の音がまた少し近づいてくる。
小さいころから音が怖かった。
掃除機の豪風で泣いた。工事現場の前を通ると、母のスカートにしがみついて動けなくなった。ダンプカーが家の前の道を通るたび、頭の中を大きな黒いものが走り抜けるようで、耳をふさいでしゃがみ込んだ。
「音が痛い」
まだ幼稚園に通っていたころ、そう言って母を困らせたことがある。
母は最初、私が何を言っているのかわからなかったと思う。音はうるさいものではあっても、痛いものではない。けれど本当に痛かった。耳の中だけではなく、鼻や喉や、胸の奥のやわらかいところまで、鋭い針が何本も何本も刺さる。
それでも、小学生のころはまだなんとかなった。運動会のピストルは嫌いだったし、給食室の食器が重なるのも苦手だった。けれど、泣きそうになったら保健室へ行けばよかった。母も先生も、「大きな音が苦手な子」として、私を見てくれていた。
でも、中学二年の春から、急に耐えられなくなった。理由はよくわからない。体が伸びたからなのか、教室が変わったからなのか、みんなの声が前より大きくなったからなのか、それとも、私の中の何かが、もうそれ以上音を受け止められなくなっただけなのか。
世界の音は、尖っている。
教室の椅子を引く。誰かが机の横にかけた水筒を揺らす。黒板にチョークが触れる。廊下で笑い声が弾ける。上履きの底が床をこする。
みんなには、たぶん、それはただの学校の音だった。でも、耳には、小さなまま届いてくれない。音は鳴ったあとも消えず、頭の中の壁にぶつかって、何度も何度も跳ね返って、跳ね返るたびにもっと鋭くなって、最後には私の中のどこかやわらかい場所を、キリキリと削る。
学校が嫌いだったわけではない。二年二組の窓から見える銀杏の木も、雨の日に少し暗くなる廊下も、体育館の裏に咲く名前の知らない花も、嫌いではなかった。友だちがいなかったわけでもない。ひどいことを言われたわけでもない。先生も、たぶん、心配してくれていた。
それでも学校へ行くと、夕方には私は私の形を保っていられない。朝、制服を着て、髪を結び、鞄を持って家を出る。そこまではいい。けれど校門をくぐったあたりから、世界は急に大きくなる。チャイムが鳴る前のざわめきが席と席のあいだで跳ねて、机の角にぶつかり、天井に当たり、耳へと降りそそぐ。
最初の一日は、熱があると言った。二日目は、お腹が痛いと言った。三日目は、朝になっても布団から出られなかった。四日目、制服を着たまま玄関に座り込んだ私を見て、母はしゃがみ、私の肩に手を置いた。
「病院、行ってみようか」
自分でも、自分の体が面倒だった。
番号を呼ばれて、母と診察室に入る。診察室は待合室より静かだったけど、音がないわけではない。壁時計の秒針が延々と振動を生む。エアコンの風が天井で薄く鳴る。先生の机の上には小さな観葉植物が置かれていて、丸い葉が、その風で揺れてカサカサいう。
先生は、灰色の髪を後ろで短くまとめた女の人で、話し方もゆっくりで声も大きくない。少しだけ安心した。けれど安心したことに気づくと、今度は自分がひどく弱いものになった気がした。
「小さいころから、大きな音が苦手な子で」
「掃除機の音で泣いたり、工事の音を怖がったりしていました」
「中学二年になってから、学校の音が特につらくなったみたいで」
母が話すたび、自分が壊れものとして机の上に置かれている気分になった。先生はうなずきながら、メモを取る。ペン先が紙をこする音がして、私はほんの少し縮む。
先生はそれに気づいたのか、ペンを置く。
「音に、とても敏感なんですね」
私は返事をしなかった。
敏感、という言葉は、やさしく聞こえるのに、どこか私を遠くに置く言葉に思えた。
「イヤーマフや、ノイズキャンセリングのヘッドフォンを使ってみるのもいいと思います。耳栓でもいいです。もちろん、音楽用のヘッドフォンでも」
先生は、私のほうを見て言った。
「音から逃げるんじゃなくて、距離を取るんです」
逃げることと距離を取ることの違いが、そのときの私にはよくわからなかった。
病院を出ると、昼過ぎの光が道路に白く落ちていた。車が走るたび、タイヤが乾いたアスファルトをざらざらとこする。エンジンが低く唸る。弾丸のように前から後ろから往来する。耳を押さえたくなったけれど、母が隣にいたので我慢した。
「電気屋さん寄ろうか」
母はそう言った。
電気屋は、病院よりも道路よりもずっと騒がしかった。
入口を入るとすぐ、明るすぎる音楽が天井から降ってくる。テレビ売り場では、いくつもの画面が同時に様々な景色を映し、男の人の笑い声やニュースの声や、何かの宣伝の声が重なっていて、レジの電子音が短く鳴り、どこかで子どもが走り、店員さんの「いらっしゃいませ」が何度も何度も店内を回っている。
母の袖をつかんだ。母はすぐに気づいて、歩く速度を落としてくれた。ヘッドフォンの売り場へ着く。黒、白、青、薄いピンク。いろいろなヘッドフォンが、透明な台に並んでいて、小さな宇宙船の部品みたいだった。店員さんが説明してくれたけれど、ほとんど聞いていなかった。聞こうとしても、店内放送がその声の上に重なり、テレビの笑い声がさらにその上から降ってきた。耳の中がいっぱいになって、目を閉じた。
「試してみますか」
店員さんが言った。
母が私を見た。私は小さくうなずいた。
赤いヘッドフォンを手渡された。思っていたよりも軽い。耳にかぶせるところは、やわらかくて、少しだけ温かい。それを、そっと耳にかぶせる。
さっきまで尖っていた音たちは、遠い霧の中で鳴る鈴のように、ぼんやりと輪郭を失った。店内放送も、レジの音も、テレビの笑い声も、母の息を呑む気配も、まだそこにある。けれど、それらはもう耳へまっすぐ飛び込んではこない。音たちは、届く前に眠たくなって、輪郭が曖昧になってから入ってくる。
その感じは、小さいころ、雷の夜に母の腕の中へ潜り込んだときに似ていた。雨も、雷も、窓を打つ風も、世界から消えたわけではない。けれど母の胸に耳を押し当てているあいだだけ、それらは私に直接触れない。少しだけ泣きそうになった。でも電気屋の真ん中で泣くのは恥ずかしかったから、目を閉じたまま、ヘッドフォンの丸い耳あてを両手で強く掴んだ。
「どう?」
母が口を動かした。ヘッドフォン越しの母の声は、水の向こうから聞こえるみたいだ。
「……いい」
自分の声だけが近くに聞こえた。
帰り道、箱の入った紙袋を胸に抱えていた。母と二人でバスに乗ると、窓の外を午後の町がゆっくり流れていく。コンビニ、歯医者、古い花屋、閉まったシャッター、横断歩道で手を挙げる小学生の笑い声。
音はまだあった。でも、紙袋の中に、自分だけの小さな部屋を持っているような気がした。家に帰ると、すぐにヘッドフォンを箱から出した。コードは邪魔だったので、ブルートゥースタイプにした。音楽を流す気はなかった。音が痛いのに音楽なんて、と思っていた。ヘッドホンを耳にかぶせる。部屋の音が遠くなる。冷蔵庫の低いうなりも、隣の家の犬の声も、台所で母が食器をしまう音も、薄い布の向こうに隠れる。
ベッドに座り、そのまましばらくじっとする。ヘッドフォンの内側は、音が追いかけてこない場所だ。私はようやく自分の体の中に帰って来れた気がした。
次の日の朝、庭に出た。
理由は、はっきりしない。たぶん、母が洗濯物を干していて、掃き出し窓を開けていたからだと思う。
ヘッドフォンをつけたまま、庭へ降りる。うちの庭は狭い。レモンの木が一本、母の好きなラベンダーが少し、使わなくなった植木鉢がいくつか。レモンの木は、私が小学校三年生のときに母が買ってきたものだ。実はあまりならない。けれど葉はいつもつやつやしていて、触ると少し苦い匂いがする。
その葉と枝の間に、蛹がいた。最初は、枯れた葉の切れ端かと思った。薄い緑と茶色のあいだみたいな色で、細い枝に斜めにぶら下がっている。とても細い糸で体を支えていて、まるで誰かが、落ちないようにそっと結んだようだった。
私はしゃがんだ。ヘッドフォンの中で、自分の呼吸が大きく聞こえた。
「何してるの?」
母が洗濯物を抱えたまま聞いた。私は指で葉の裏を示す。
「蛹」
母は近づいて、少しだけ顔をしかめた。
「ああ、アゲハかな。レモンの葉っぱ、食べに来るから」
「これ、蝶になるの?」
「たぶんね」
母はそれ以上、何も言わなかった。気持ち悪いから取ってしまおう、と言わなかったことに、少しほっとした。
蛹は動かなかった。生きているのか、死んでいるのか、眠っているのか、わからなかった。ただ枝にぶら下がって、風が吹いても、じっとしていた。しばらくそれを見ていた。何かが起こる気がしたけど、何も起こらない。
部屋に戻って、蛹のことを調べた。スマホの画面には、いろいろな写真が出てきた。緑色の。茶色の。枝そっくりの。羽化したばかりの。濡れた羽を広げているの。
蛹の中で、幼虫の体は一度、溶ける。全部が消えてしまうわけではない。成虫になるための小さなものは、幼虫の体の中に前から準備されている。けれど、前の体のままでは羽は作れない。歩いて葉を食べるための体は、空へ行くための体とは違う。だから蛹の中で、いらない部分だけがほどけ、新しい形へと組み直されていく。
その説明を、何度も読んだ。変わるということは、光の中へ急に飛び出すことではない。まず暗い場所で、前の自分の形をいったん忘れる。自分だったものが、暗い内側でほどけていく。けれど、それは消えるのとは違う。
右手でヘッドフォンに触れた。私は、世界から隠れているのではない。まだ世界に触れられない柔らかい部分を、そっと眠らせているだけかもしれない。そう思うと、少しだけ胸が楽になる。
けれど次の日、母が言った。
「明日、少しだけ学校行ってみる?」
慎重な声だった。料理中の包丁を止め、こちらを見ないようにしながら。私が急に泣いたり怒ったりしないように、音を立てないように、言葉の置き場所を探している声。
私は返事をしなかった。
「保健室だけでもいいって、先生が。ヘッドフォンも、してていいって」
学校。教室の椅子、チャイム、笑い声、ロッカーを閉める、誰かが走る。まだ家にいるのに、音だけが先にやってきて、私の中をいっぱいにする。
でも、ヘッドフォンをつけていけば、少しは違うかもしれない。
「……行ってみる」
自分の声が、やけに太く、大きく聞こえた。
翌朝、久しぶりに制服を着た。
スカートのひだは、母がいつのまにかアイロンをかけてくれていた。ブラウスの襟は少し硬かった。髪を結ぶと、首の後ろがすうすうした。鏡の中の私は、前に学校へ行っていた私とほとんど同じに見える。
でも、耳にはヘッドフォンがある。母は玄関で、「無理しなくていいからね」と言った。私はうなずいた。うなずくと、ヘッドフォンが少しずれたので、両手で押さえた。
通学路は、音が多い。朝の車、鳥、自転車のブレーキ、ランドセルの金具。でも、ヘッドフォン越しのそれらは、少し遠かった。その遠さを頼りに歩いた。
校門が見えると、足が止まりそうになった。胸の中に冷たい水が流れる。指先がしびれる。けれど私は、レモンの葉の裏の蛹を思い出した。細い糸一本で体を支えて、動かずにいたあの姿。閉じているように見えるものの中でだけ、始まることもあるのだというように、蛹はただ、黙ってそこにいた。
校門を滑り抜ける。保健室へ行くつもりだった。けれど廊下で担任の先生に会った。
「教室、少しだけ見てみる?」
先生は小さな声で言った。先生があまりにもほっとした顔をしていたので、私は断れなかった。
教室の扉が開いた瞬間、音がこちらを向く。みんなの声が一瞬やんで、それから少し形を変える。誰かが「あ」と言う、誰かが小さく笑う。でもヘッドフォン越しのそれらは霧の中で鳴っているようで、前ほどは刺さらない。
「おはよう」
前の席だった菜月が言った。菜月は悪い子ではない。小学校のころ、消しゴムを半分くれたことがある。中学に入ってからも、何度か一緒に帰った。けれどその朝、菜月の声は私のところへ届く前に、ヘッドフォンの壁に当たって、少し変な形になっていた。
「おはよう」
私は返事をした。自分の声も、うまく届いていない気がした。
一時間目は国語だった。
先生の声は、遠い。チョークの音も、前ほど鋭くない。ノートを開く。シャーペンの芯が紙に触れる。ヘッドフォンの内側では小さくてほとんど聞こえない。
大丈夫かもしれない。そう思った。
でも休み時間になったとたん、教室の音はふくらんだ。椅子が一斉に動いた。机と机のあいだを声が飛んだ。笑い声が壁に当たって、床を転がった。ヘッドフォンがあっても、音の気配は消えなかった。むしろ自分だけが透明な箱の中にいるみたいだった。
みんなは同じ空気の中で話している。私はその空気の外側にいる。菜月が近づいてきた。
「それ、ずっとしてるの?」
ヘッドフォンのことを言っているのだろう。私はうなずいた。
「音楽とか流してるの?」
「ううん、ただ、つけてるだけ」
そう言ってから気がつく。そうだ、これは元々音楽を聴くためのものだ。でも、買ってもらってから一度も音楽を流したことはない。私はこれをそういう風には使ってない。
菜月は少し不思議そうな顔をして言った。
「なんか、話しかけちゃだめって感じするね」
その声は、責めている声ではなかった。たぶん、菜月はただ思ったことを言っただけだ。傷つけようとしたわけではない。けれどその言葉は、ヘッドフォンをすり抜けて、まっすぐ耳の奥へ届いた。私は世界から身を守るために、それをつけていた。けれど外から見ると、私は世界を拒んでいるように見えるらしい。そのことが、とても悲しかった。
二時間目の途中で、保健室へ行った。保健室の先生は何も聞かず、カーテンで仕切られたベッドに案内してくれた。靴を脱いで横になって、ヘッドフォンをつけたまま、白い天井を見る。
天井の染みが、小さな蛹に見えた。
母が迎えに来てくれた。帰りの車の中で、母は何も言わなかった。私は窓の外を見ていた。町は普通の顔をしている。信号待ちの人、犬を散歩させるおばあさん、道路工事の看板。世界は、私が学校にいられなかったことなんて知らないみたいに、いつもの速度で動いている。
家に着くと、すぐ庭へ行く。
蛹はまだそこにいた。何も変わっていないように見える。けれど、もう何も変わっていないとは思えなかった。あの殻の中では、目に見えない変化が起きている。溶けて、混ざって、組み直されている。
しゃがみこんだまま、しばらく蛹を見ていた。
「私は、失敗したのかな」
声に出したつもりはなかった。けれど、小さく口からこぼれた。
蛹は答えなかった。答えないことが、少しだけ楽だった。誰かに励まされるより、ずっといい。
その夜、ヘッドフォンをしたまま眠った。母が部屋のドアを開けて、「外したほうがいいんじゃない?」と言ったけれど、私は首を振った。耳が包まれていないと、眠りの中に入る前に世界が追いかけてきそうだった。ヘッドフォンの内側で、目を閉じた。
夢を見た。世界は水だった。私は水の中に立っていた。制服を着ていた。膝のあたりまで濡れている。スカートのひだが、水を吸って重い。ゆらゆらと揺れながら、紺色が水に滲み、ひだとひだの境目がなくなり、やがて水の中に落としたインクみたいに滲んで消えた。上着が溶ける。袖口がやわらかくなり、肩の線がまるで垂れた水飴のように崩れていく。ブラウスがぼやける。下着も、肌に貼りついたまま、淡く薄い膜のように水に紛れていく。私は裸になったみたいだ。水が体の輪郭をなぞり、自分が曖昧になっていく。目が溶けて、黒目が水に滲む。最後の最後に、耳だけが残った。体はもうほとんどない。それなのに、耳だけが、水の中で二つ、小さく震えている。水の奥から、かすかに何かの音のようなものが聞こえてくる。こんなに溶けても、まだ聞こえるのだ。耳がなければ、もう苦しまなくていいのに。ああ、やっと、右の耳から、輪郭がほどけていく。水に混じり、耳の穴がゆっくり暗い渦になり、それから静かに消える。左の耳も泡になって、パチパチとはじけた。私は水になった。もう自分と水との境界はない。水面。誰にも触れられていない、何もない静かな水面。
目が覚めたとき、朝だった。
ヘッドフォンは少しずれて、片方の耳だけを覆っていた。窓の外が明るい。鳥の声がした。ヘッドフォンから外れた右耳に、その声は直接入ってきて、少し鋭い。
起き上がり、庭へ降りると、レモンの葉の裏で蛹が割れていた。
蛹の殻に細い裂け目ができていて、その裂け目から、黒っぽいものが少しずつ出てきている。息を止めた。叫びたくなったけれど、声を出したら何かを壊してしまいそうで、口を押さえた。
生まれたばかりの蝶は、思っていたほど美しくなかった。羽は濡れて、しわくちゃで、体に貼りついている。脚は細く、何度も殻を踏み外した。あんなに長い時間をかけて蛹の中にいたのに、出てきた姿は完成から遠く、むしろ何かの途中みたいだ。思わず手を伸ばしそうになった。助けなければ。
けれど蝶は、助けを待っているのではなかった。ただ、自分の羽が乾く時間を待っていた。手を引っ込めた。蝶はゆっくりと羽を広げた。黒い羽に、黄色い模様が少しずつ開いていく。濡れていた羽が、朝の光を受けて、ほんのわずかに震えた。風が吹くと、蝶の体は頼りなく揺れた。それでも蝶は、葉にしがみついていた。
母が庭に出てきて、私の隣にしゃがんだ。私たちはしばらく何も言わずに蝶を見ていた。蝶が起こす全ての音を逃したくなくて、ヘッドフォンは耳から外して首にかけていた。右耳にも、左耳にも、朝が直接届いていた。遠くで車が走る。隣の家の窓が開く。母の小さな息。レモンの葉が風に触れる。
どのくらい見ていたのかわからない。時間は、庭の中でゆっくりほどけていた。やがて蝶は、羽を一度、二度、開いて閉じた。
蝶は飛んだ。思っていたよりも低く、思っていたよりも頼りなく、でも確かに飛んだ。レモンの木を離れ、ラベンダーの上を越え、庭の白い柵の向こうへ出ていった。すぐに空高く舞い上がるわけではなかった。ふらふらと、風に揺られながら、隣の家の屋根のほうへ消えていった。
私は空っぽになった蛹を見た。
それはもう、抜け殻だった。けれど、そこには、何かが変わっていた時間の形が残っていた。誰にも見えない場所でほどけ、組み直され、羽になるまで待っていた時間の、薄い形。
あれから、私は学校へ行っていない。
羽化を見た私は、ほんの少しだけ、裏切られたような気がしていた。
確かに勝手に比喩を自分に重ねたのは私だ。でも、蛹が蝶になる姿に感銘を受けたからと言って、私の何かが解決すると思うのはインチキなのだ。
病院の先生には「音に敏感である事と付き合いながら生きること」が大切だと言われた。
何かに期待することは、きっとほどほどが良い。
だから、朝起きて、制服を見ても、前みたいに胸の中が冷たくなることはあまりない。私はまだ行けない。けれど、行けないことだけが私の全部ではない。
母は、保健室登校、フリースクール、とかのネットの内容をプリントアウトしてくれた。今はそれほど興味はない。でも、きっとそのうち読むだろう。
ふと、ヘッドフォンで音楽を流してみようと思った。
スマホとヘッドフォンをその時初めてペアリングした。何を流せばいいのかわからなくて、しばらく画面を見ていた。結局、youtubeでピアノだけの静かな曲を選んだ。
再生ボタンを押す。最初の音が、ヘッドフォンの内側に満ちていく。
それは世界の音とは違っていた。静寂の安堵とも違う。音でありながら、私に優しい。
大して曲を持っていなかった私のために、母はサブスクに加入させてくれた。クラシック、洋楽、J POP、ジャス。テクノ、ヒップホップ。悲しい歌で泣いた。楽しい曲で幸せになる。激しい曲で頭の中が痺れた。切断されていた世界の回路が繋ぎ直されていく。
音楽は、静かな水面に置かれた指だ。そこから輪が何重にも広がっていく。かき混ぜると無数の波ができる。小さな波はきっと大波にもなるだろう。世界を守り、世界を飲み込みもするだろう。ヘッドフォンには、いつか羽が生えて、私から旅立つのだろうか。
庭に出て、音楽を聴く。風がレモンの葉を揺らす音は、とてもとても小さくて、音楽をかけていると、聞こえない。だけど、ヘッドフォンの内側の、耳ずっと奥の方で、抜け殻の蛹が微かに揺れているような気がした。




