第9話
女の小太刀が、頬のすぐ横を走った。
冷たい風が先に来て、その後で痛みが追いついてくる。頬を伝う血の温かさで、切られたのが分かった。
さっきまで目の前にいたはずの女の位置がずれる。一歩後ろにいたように見えたのに、次の瞬間には目の前に来ている。
騙紋の女は、口の端だけで笑った。
「まだ立つんだ。いいね、やろうじゃないか」
僕は胸の『黒痕』へ意識を落とした。
世界の色が薄くなる。
木も、土も、女の服も、全部が褪せていって、輪郭だけが残る。音が一気に遠のき、代わりに自分の呼吸と鼓動だけが妙にはっきり耳に残った。
吐き気が込み上げ、喉の奥が焼けるみたいに熱い。
それでも、夜気の冷たさだけは確かだった。
頬の傷に触れる風が、ぎりぎり僕の意識をここへ繋ぎ止めてくれている。
女がまた踏み込んでくる。
小太刀の軌道が二重に見えた。
腕の振り、肩の入り方、足運び。その全部が一瞬ずつずれたり重なったりしている。目だけで追えば確実に騙される。
それなら、目で追うな。
草が揺れる音。
片方だけ遅い。
匂いが流れる。
片方だけ途切れる。
偽りの攻撃。
そこには真実の重さがない。
踏み込みの圧も、空気を裂く湿り気も、本物ほどは残らない。
視界を信じるな。
女がこの場で示した『違和感』だけを拾え。
――いる。
迫ってくる二つの姿のうち、片方だけが草を本当に押し分けていた。
僕は小太刀の軌道の先へ、針先ほどの『黒』を落とす。
迫ってきていた小太刀がほんのわずかに歪んだ。
その一瞬のずれのおかげで致命傷は外れた。
肩を浅く斬られるだけで済んだ。
でも、初めて女の顔が揺れた。
驚きじゃない。苛立ちだ。
「君……今、何をしたの?」
答える余裕なんてない。
視界の端が暗く狭まり、膝が笑う。まだこの力は、使うだけで体力を持っていかれる。
それでも今ので分かった。
敵の『騙し』は完全じゃない。『継ぎ目』がある。
女が笑みを消して、今度はためらいなく突っ込んでくる。
直前で、身体が二つに割れた。
右から来る女と、左から来る女。
どちらも刃を振り上げている。
――いや、違う。
さっきまでより精度が上がっている。
目で追うだけじゃ遅い。匂いも、音も、草の揺れも、一瞬だけ全部が重なって見えた。
騙紋は、ただ幻を見せてるんじゃない。
世界の受け取り方を、一瞬だけずらしている。
だから『本物』を探すより、ずらしている境界である『継ぎ目』を見つけた方が良い。
二人の女が、ぴたりと重なりかける。
――その瞬間だった。
空間の真ん中に、色の抜けた細い『線』が浮かぶ。
見えているのに、そこだけ光がうまく噛み合っていない。
嘘と真実を縫い合わせた『継ぎ目』だ。
世界を騙すために、無理やり押し込まれた境界。
――そこだ。
女が来る。二本の刃が同時に迫る。
だが、僕はその場で動かなかった。
避けたら、今見つけた『継ぎ目』を見失う。
踏み出した瞬間に、また知覚を騙される。
この戦いでは、動いた方が負ける。
本来なら、その場に止まるなんて死を選ぶのと同じだ。でも、この瞬間だけは逆だった。
今の《黒穿》では足りない。
『点』を落として、少しずらすだけでは相手に届かない。
リナの首輪の契印に向けたあの一撃を思い出せ。
壊したんじゃない。契約の封印を、横から撃ち抜いた。
手に力を込めた途端、喉の奥に鉄の味が広がった。
視界がぐらりと傾く。頭の芯が軋む。
膝が抜けそうになる。
でも、ここで倒れたら終わる。
まだだ。
まだ落ちるな。
手の先へ、どんどんを『黒』を集めていく。それは光を吸って膨らみ続けた。
黒点というより漆黒の闇だ。
夜の色でも墨の色でもない。そこだけ世界の色が喰われて、何も返ってこない。
指先にまとわりついた『黒』は、艶を帯びた黒曜石みたいに見えた。
だが、黒曜石よりもさらに濃い。冷たい色なのに熱を持っている。
胸の奥で、何かが笑った気がした。
声なのか、僕の考えなのかはもう分からない。
その『黒』を、目を離さず見続けた『継ぎ目』へ向ける。
嘘と真実そのものへ。
女の目が初めて見開かれた。
「――お、おまえぇぇぇえええ――ッ!!」
「《黒穿》――――ッ!」
高い音がした。
硝子が割れたような耳に突き刺さる音がした。
空気そのものへ入っていた見えない亀裂が、黒に撃ち抜かれて裂ける。
世界の噛み合わせが一瞬だけ外れる。
嘘と真実の境目が壊れた。
女の身体がどこにもない場所へ捻じれたように見えた。
右にいたはずの姿が消え、左にいたはずの影も消え、最後に真ん中だけが残る。
そこへ、遅れて胸から赤が噴いた。女の身体が地面へ落ちる。
草が押し倒される音が、妙に遅く耳へ届いた。
夜気が、一気に冷たく感じる。元通りの冷覚。
心臓が遅れて暴れ出す。
手が震える。指が勝手に開いて閉じて、握る力が抜けそうになる。
込み上げた吐き気を堪えきれず、口元を押さえる。
喉の奥から熱いものが上がってきて、鉄の味と一緒に唇の端を汚した。
女は仰向けに倒れたまま、もう動かなかった。
そこでようやく、張り詰めていたものが一気に切れた。
僕は膝から崩れ落ちる。土が冷たい。肩の傷が遅れて脈打つ。
『もう……撃てる……か。……お前は……やは……り』
胸の奥から、あの声が擦れるように響いた。
そのとき、女の破れた服の隙間から少し見えていた紋章が、砂埃みたいな粒へと崩れ始めた。
色がないのに、淡く光って見えるその粒がふわりと舞うと、僕の方へ流れてくる。
思わす手を伸ばした先に触れた瞬間、淡い光は沈んで『黒く』なった。
そのまま胸へ吸い込まれるみたいに消えていく。
急に、体の底へ力が戻ってくる。
――何だ、これは。
疑問が形になる前に、草むらの向こうで影が動いた気がした。
遠くから、複数の足音が近づいてくる。慌ただしい。誰か来る。
考えている時間はない。
女の近くには、拳ほどの金属札と、二本の小太刀が落ちていた。
札には虎の爪痕みたいな紋痕が刻まれている。
次の瞬間、その札がどす黒い粉に崩れて風へ流れた。
あの札のようなもの。この女は競り場の番人じゃない。
競り場とは別の勢力――つまり、虎爪のレン側の刺客か。
急いで小太刀を拾う。武器が何もないよりはましだ。
柄に触れた瞬間、指先がひやりとした。
僕は血と泥にまみれた体で無理やり歩き、草むらの奥へ戻る。
「……動けるか?」
返事はないが、リナの指が僕の服を握り返してきた。
それだけで十分だった。
耳の奥で、世界の継ぎ目が割れる音がまだ鳴っている。
「……行こう」
僕は彼女の肩を支え、もっと深い闇へ向かって歩き出した。
振り返らない。
振り返ったら、たぶん進めなくなる。
ここから先は逃げ道じゃない。
生きるための、最初の一歩だ。




