第8話
夜の通路の空気は冷たく、火照った体には少しだけ救いだった。
見張りの目をかい潜って、何とか檻の迷路を抜け出した僕は、リナの体重を両腕に受けながら、明かりが届かない陰だけを縫って進んでいる。
さっきまでの喧噪はすでに遠く、代わりに自分の心臓の鼓動だけが暴れていた。耳の奥まで心臓の音が聞こえてくるようだ。
リナは僕の腕の中で、だらりと全身の力が抜けている。半分意識がないような状態だ。
禁忌で起こされた反動が心と体を蝕んでいるのだろうか。
唐突に肩がびくりと震え、その度に呼吸が荒くなる。
熱も異様だった。医学に通じていない自分でさえ、普通の熱じゃないことが分かるほどに。
まるで内側で何かが燃えているみたいな異常な熱さ。
『⋯⋯耳、……使え』
内側の声が低く言う。
僕は頷く代わりに息を短く切って、遠くの気配を探った。目を信じるな、足元も信じるな。今は耳が命綱だ。
角を二つ曲がったあたりから、扉が軋む音がした。
見張りの交代か、巡回か、それとも――。
僕は壁際へ身を寄せ、息を止める。リナの熱が腕に伝わる。ここで咳などをされたら終わる、そう思っている間、彼女の胸が小さく上下して、かろうじて呼吸だけが続いていた。
音が遠のく。足音が消える。僕はようやく一歩だけ進んだ。
こういうことを、何回繰り返しただろうか。
進むたびに、背中に見られている気配が貼りつく。競り場の内側は、通路の曲がり角ひとつで人の気配が豹変する。
油の匂い、血の匂い、獣皮の匂い。全部が、ここが『商品』の場所だと主張してくる。
しばらく人気の少ない方へ進んでいくと、やがて目の前に石畳の階段が現れた。
探していた、上へ抜ける通路だ。
階段の踊り場には、水の入った木桶と、体を拭けと言わんばかりの布切れが置かれている。
都合が良すぎる。喉は渇ききっていて、その水面の光が、目の奥を刺した。
『……触れ……な』
内側の声が、さらに低くなる。
頭では分かっている。分かっているのに、身体が勝手に水の匂いを求める。疲労が判断を甘くする。
僕は水桶を見ないようにして、その横をすり抜けた。視界の端で、水面が勝手に揺れた気がした。風なんてない。僕の呼吸も届かない距離なのに。
見られている。いや、誘われている。
石畳の階段を上がると、夜の寒気がいっそう刺さってくる。ここは石塀の上だ。
突如視界がひらけた。外が見える。
競り場の外――見える限りの広大な牧草地と幾つか点在している林。
外へ出られそうだ。そう思った瞬間、胸が少しだけ軽くなる。軽くなった分だけ、逆に不安な気持ちも出てきた。
これからは、視界を遮るものがあまりないということ。それは隠れられないことを意味する。
周りを見渡す限り、この辺りには人もいない。見張りもいない。
競り場の内側より、むしろ外縁の方が薄すぎる。
それが何だか不自然だった。
塀の外まで、三メートル。草が厚く生えていそうな場所を見つける。
「ごめん、リナ。ちょっとだけ我慢して」
どこで誰に見られているかも分からない。僕は躊躇せず飛び降りた。
リナを抱えたまま、草のクッションが厚いところへ着地する。足首から膝まで、鈍い痛みが跳ね上がる。
両足が折れていてもおかしくない。何とか折れていない――それだけで、今は十分だ。
数呼吸だけ整え、立てることを確認する。
やっと競り場の外に出られた。
そう噛み締めた瞬間だった。背中が粟立つ。
草木の向こうから足音がする。
複数ではない。一人?
なのに音が二重に聞こえる。右で踏んだと思った次の瞬間、左でもう一歩。耳が、頭が混乱する。
さらにおかしいのが、風向きが一定のはずなのに匂いまで揺れ動いていることだった。乾いた土の匂いの奥に、甘い香草と、鉄の匂いが混ざっては消える。空気が変わり、距離感も勝手に入れ替わる。
今は? 近い。いや――遠い⋯⋯?
『つけられ⋯⋯⋯たな』
内側の声が低くなる。
その低さには、初めて危険の匂いが混じっていた。
ゆっくりと姿を現したのは、旅装の若い女だった。
二十代後半くらい。穏やかというより、妙に整いすぎた顔立ち。薄い外套をまとい、片手に革袋を下げている。
助けに見える。
その第一印象が、逆に不気味だった。
「大丈夫?」
声は涼しく軽い。心配しているようでいて、あまりそういった温度がない。
視線はまるで値踏みするみたいな目だ。
僕が一歩引くと、女も同じ幅だけ距離を保った。
追ってこないし圧もないが、逃げ道だけが少しずつ狭くなるような感覚がある。
彼女は何もしていないのに、こちらが追い詰められている。
「その子、放っておいたら燃え尽きるよ。⋯⋯回復薬、あるから。飲ませてあげたら? 君の分もある」
革袋から二つ、小瓶が出てきた。淡く光る液体と、塗り薬。
その光は喉の渇きを異様に誘発してくる。視界で揺れる光が、やけに欲しいと錯覚させる。
飲めば楽になる。いまなら助かる。
そんな言葉が耳からじゃなく体の底から湧いた。
僕は唇を噛む。欲求が先に出た瞬間が、一番危ない。
「おまえは⋯⋯誰だ」
「ただの通りすがり。⋯⋯と言いたいところだけど」
女は小さく笑った。
その柔らかな微笑みに、草の揺れが止まった気がした。
「君たち、競り場から逃げた子どもだよね。まあ、それ自体はたまにいるんだよ」
言い当てられる。
女が一歩だけ前へ出た。動きが丁寧で、戦いの前の距離感に似ている。
「⋯⋯鍵、拾わなかったんだね」
背中が一気に冷えた。
あの藁束。鍵。その事実を知っている。
あれを『置いた側』の勢力ということか。
「大抵は拾うよ。拾わせたら、あとは簡単だったのに……残念」
優しげな仮面が剥がれる。
目の奥に狩人の光が灯ったのがわかった。
「怖い? 安心して」
女は外套の裾から小太刀を二本取り出した。
抜いた瞬間、金属の鳴りがしない。代わりに、空気が擦れる薄い音だけがした。
両方とも薄く、細い刃。
月明かりを拾って白く光る――はずなのに、一瞬、刃が闇を反射して黒く見えた。
錯覚。
いや、そう見せられている。
考える暇もなく、女が踏み込んできた。
速い。普通の人間の速度じゃない。
足音が二重に聞こえたのは、最初からそう聞かせて反応を遅らせるためか。
しかも、踏み込みの重さが一定じゃない。
右へ来たと思うと、次の瞬間には地面を蹴った反動が背後に残る。つられて身体が勝手に追いかけようとする。
刃が落ちる。
僕は身を捻った――はずなのに、体が遅れる。
足元が泥に沈む感覚。
膝が持っていかれそうになる。だが、地面は乾いている。沈むのは、感覚だけだ。
目も耳も皮膚も、全部が嘘の情報で支配される。
このままリナを抱えたままでは動けない。
僕は歯を食いしばり、草むらへ身体を滑らせると、できるだけ乱暴にならないようリナを寝かせた。
彼女の胸が小さく上下している。
大丈夫だ、生きている。僕はその前に立つ。
「⋯⋯リナに、触れるな」
声が思ったより低く出た。
女は小さく首を傾げる。
「守るつもり? 偉いね。じゃあ――守りながら、どこまで耐えられるかな?」
その一瞬が、狩りの合図だった。
紙が裂けるみたいに空気が切れる。遅れて熱い痛み。左肩の服が裂けた。
刃は当たっていないはず。だが痛い。
次の瞬間、実際に血が滲んでいた。
偽りの痛みで動きを縛ってから、本物を重ねてくる。
僕は反射的に肩を引きかけて、踏み留まった。
引いたら次が来る。
口の奥が酸っぱくなり、脳が『避けろ』と叫ぶ。
だが、避けた先が罠なら同じだ。
「いいね。商品はちゃんと守ってくれなきゃ」
視界の端で女が二人になった。右から斬る女と、左から斬る女。
どちらも本物に見える。
呼吸の音と気配まで二つ。光なんて届かないはずなのに、影だけが増えていく。
女の影が一瞬だけ伸びたかと思ったら、すぐに縮む。影まで騙してくる。
『感覚……騙す⋯⋯事象紋……騙紋』
内側の声が断じた。
『騙す』という事象に特化した紋章。
対峙して分かった。戦いそのものの前に、相手の感覚ごと騙す――戦いの条件そのものを歪めてくる。
つまりこれは、刃の速さだけの勝負じゃない。僕の判断力を削り切る一方的な戦い。
「⋯⋯奥の子どもをこちらに渡せば、君が傷つく必要はないよ」
「⋯⋯それも、嘘だろ」
「ふふ。案外、賢い子どもだね。実は君のこともつれていくんだけど、簡単にはついてきてくれそうにないか」
言い終わると同時に踏み込む。距離が縮む。いや、縮んでいない。
刃があり得ない距離からこちらへと振り下ろされる。
届くように見せて、反射的に避けさせる。
――と思ったら、避けた先に『本物』がきた。
僕は退くふりをして、逆に大きく前へ出る。
違和感がより強い方向へあえて踏み込んだ。




