第2話
報酬の話が終わったところで、ドーレマンは机の上の書類を一度揃え、僕たち三人の方を見た。
「これからルルレーダンへ何度も出入りするなら、今のまま宿がばらばらだと動きづらいぞ」
言われて、僕はリナと顔を見合わせた。
僕とリナは今までの宿のまま、イスカは東門寄りの宿だ。
例えば、明日一日潜るだけならいい。
だが、これから何度も出入りするなら、荷の置き場も、戻る場所も一つにまとめた方が効率としても良いことは確かだ。
「……それは思ってた」
リナが先に口を開く。
「朝の合流もだけど、帰ってきてからも面倒だよね。泥だらけの荷物とか、拾った物とか、毎回宿の寝る部屋で広げるのも嫌だし」
「自分たちの荷を置けて、遅く戻っても気を遣わない場所があると助かります」
「実は北門寄りで、荷が置ける借家が一つある」
「⋯⋯そんな都合よく空いてるの?」
リナが聞くと、ドーレマンは机の端を軽く叩いた。
「都合よくというか、以前は外回りの職員が一時的な寝床や荷置きに使っていた場所だ。職員で使わないなら外に出すかと迷っていた物件になる」
そこでリナの目が少し細くなる。
「……もしかして、サムも使ってた?」
「まぁそういうことだ。だが、あいつの私室じゃないぞ、あくまで仕事用だからな」
ドーレマンはそこで言葉を切り、こちらの反応を見た。
「嫌ならやめろ。ただ、条件だけ見れば今のお前たちにはかなり合ってる。確か個室も三つあったはずだ」
「建物は新しいのですか?」
イスカが短く尋ねる。
「いや、古い。ただ、造りは悪くない。住むのに必要なものは一通り残ってる。三人で使うには十分だろう」
「……サムって聞くと気分はよくない」
リナが腕を組む。
「その気持ちは分かる。だから無理に勧めてるわけじゃない」
ドーレマンの声は淡々としていた。
「⋯⋯迷宮へ何度も出入りするなら、宿より借家の方が動きやすいのは間違いないだろう。俺も現役の頃はそうしてた。今のお前たちが要るのは、三人で動ける拠点だろう」
僕は机の上の革袋と金色の液体が入った小瓶を見た。
報酬はかなりもらった。
今は迷宮の先行探索権がある。
正式にパーティも組んだとなると、次に要るのは出入りしやすい拠点だ。
「……見に行くだけ行ってみるか」
僕が言うと、リナが横を向いた。
「だね。嫌ならやめればいいし」
「私も確認はしてみたいです」
ドーレマンが頷く。
「受付へ話は通してある。鍵を借りて見てこい。ギルド管理の建物だから、素性の分からん貸し手に当たるよりはギルドとしても安心だ」
言い終わると、ドーレマンは机の書類へ視線を戻した。
副支部長室を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。
リナがすぐこちらを向く。
「……とりあえず、アーテルはランクアップおめでとう」
イスカもその横で短く言った。
「おめでとうございます」
「二人ともありがとう」
僕たちはそのまま受付に話す前に、少し依頼掲示板を眺めておく。
「でも……サムが使ってた家なんだよね」
「まあ、そんなに長い間使ってたような言い方ではなかった。嫌なら別を探すか?」
「ううん。見るだけは見てみる。もしお風呂が使えるなら……ううん、いつでもお湯が出るのなら、サムなんてどうでもいい」
「そこまで⋯⋯?」
「当たり前。依頼が終わって泥だらけで帰ってきたのに、タオルで拭くだけなんて嫌だし⋯⋯。この前ドーレマンが紹介してくれた温泉に毎日入れるなら、お風呂はなくてもいいけど」
「⋯⋯おい、さすがにそれはお金がなくなるぞ。まあ、これから見に行ってから決めよう」
受付へ事情を話すと、台の向こうにいた職員がこちらへ近づいてきた。
「副支部長から伺っています。借家の鍵ですね」
そう言って、台の下から鉄の鍵を一本取り出した。
「まずは北門を目指して向かい、手前にある工房区画を東側へ抜けた先になります。近くまで行ったら、この地図を見てください」
続けて、簡単な地図の記された書面を渡された。
「ギルド管理物件の担当は私です。何かあれば私に言ってもらえれば大丈夫ですよ。賃借料の支払いもギルド経由で行えます」
―――――
ヴァレスタの北門が近づくにつれて、人通りは少しずつ細くなり、店の呼び込みより荷馬車の軋みや、品を運ぶ木箱のぶつかる音が目立ってくる。
「……北門の方向は『枯れ道』以来かも。あまり来る機会がない」
リナが辺りを見回しながら言う。
「冒険者が泊まる宿は東や南側に多いですからね。北門側は、昔から長く住んでいる人や職人が多い区画です。私の細剣を作ってくれた鍛冶師も、この近くにいます」
イスカは歩きながら、脇道や裏口の位置まで見ていた。
「ルルレーダンの迷宮は街の北西だから、北門からでも行けそうだな。前に行った時はたしか西門から出たと思う」
「じゃあ、今後を考えたら、この辺に拠点があるのはかなり楽なのかも」
そんな話をしているうちに北門が見えてきたため、ここからは受付でもらった地図を広げて進む。
地図の目印と道順を辿って染め物屋の裏手へ入ると、家並みは一段低くなり、表通りほどの賑やかさはなくなった。さらに細い道を一つ曲がったところで、地図に書かれていた家の位置へ着く。
灰色の石造りの一階建て。
きちんと掃除されているせいか、そこまで古びては見えなかった。
表の扉は少し色が落ちているものの歪みはなく、窓枠も細かい傷こそあるが、直しながら使われてきた感じが伝わってくる。
リナが最初に口を開いた。
「思ったよりはちゃんとしてる」
「副支部長が紹介してくるくらいですからね」
僕は鍵を差し込み、少し重い戸を開けた。
玄関を抜けると、最初の大部屋には大きめの机が一つ、椅子が四脚、奥には小さな竈があった。暮らすのに要る最低限だけが残り、それ以外は引き払われている。
使っていた人間の気配は、もうほとんどない。
イスカは床の軋みや窓の位置を確かめている。
リナは部屋を抜けて、水場などを見に行った。
僕は部屋の中央の机へ荷物を置いて、椅子に腰掛けてみる。
「この机、けっこう大きいな」
「ここで地図を広げながら計画を立てられますね」
いつの間にか、イスカが横の椅子に座っていた。
しばらくして、リナが奥から戻ってくる。
「水場は使えたよ。驚いたのは、古い型だけど湯を出せる簡易シャワーもついてたこと。しかも、台所には魔道コンロもあった。部屋には寝台枠が残ってたから、マットとか敷布団を入れたらすぐに寝られるよ」
「すごいな」
「お湯の勢いは弱いけど、ないより全然いい」
イスカが小さく頷いた。
「助かりますね」
奥の勝手口は街の細い路地へ抜けていた。
表へ回らずに出られる。泥だらけで戻った時でも、人目を気にせず荷を運べそうだった。
「かなりいいですね」
「うん。私、ここなら契約してもいいと思う」
リナがすぐ返す。
「しかも、お湯が使えるなんてかなり強い」
リナとイスカがお互いを見て頷き合っていた。
僕はもう一度家の中を見回した。
嫌な感じはない。二人がいいと言うなら、借りる方向で進めよう。
僕たちはギルドへ戻って話を通し、前金を入れて鍵を受け取った。
細かい条件は短かった。
家賃を滞らせないこと、壊したら申告すること――それだけだ。
その日のうちに、必要な荷物を運び込んだ。
といっても、宿暮らしの僕たちの荷物なんて驚くほど少ない。
衣服、保存食、装備やその他の道具くらいだ。
足りないものは近くの店で買い揃える。暮らしを整えきるのはゆっくりでいい。
それよりも、明日からはルルレーダンの真の入口へ行かないと、先行権の意味が薄くなっていく。
借家へ荷を置いたあと、僕たちは工房区画の通りへ出る。
足りない物をまとめて買うため、そして新しい住居の周りの土地勘をつけるためでもある。
必要なものは結構ある。
寝具関係や布、タオル、食器、各部屋の魔灯、各々の服など。
どれもすごく高価な物というわけではないが、三人分を揃えるとなると、それなりの量と値段になるだろう。
いくつか店を見て回るうち、北門が見える路地の角にある少し大きめの雑貨屋へ入った。
そこは生活に使う物ならだいたい揃っていて、日用品だけでなく、工房で使う細かな消耗品まで並んでいた。
「いらっしゃいませ。⋯⋯引っ越しですか?」
店番をしていたのは、年の近そうな女だった。
整った顔立ちではあるが、それより先に、人当たりのいい声と手際の良さが目につく。
リナがすぐに答える。
「そんな感じ。日常で使う消耗品とか寝具とか、布やタオルなんかもほしい。⋯⋯ある?」
「え、えーと、三人分ですか?」
「うん!」
「じゃあ、こっちの安い素材はやめた方がいいですね。すぐへたります。疲れを取るならもう一つ上の方が楽ですよ」
そう言いながら、女は迷いなく棚から品を下ろしていく。
雑貨屋の店員として慣れているだけじゃない。何がどう使われるかまで分かっている動き方だった。
「この辺は夜になると冷えるので、寝台に置く敷布は厚めの方がいいと思います」
「すごい詳しいな」
僕が言うと、女は小さく笑った。
「この辺で暮らしてる人は、だいたい同じような物を買っていきますから」
イスカは黙っていたが、並べられた商品を見て一つだけ頷いた。
「⋯⋯これで十分です」
「小さい木箱もありますよ。針や紐を入れる人が多いですけど、お菓子やアクセサリーなんかを入れてる人もいます」
何気なく言われて、イスカの目がわずかに動いた。
「……見てもいいですか?」
結局、イスカは薄い蓋つきの木箱も一つ買った。
女は代金を受け取ると、最後に荷をまとめて紐で軽く縛ってくれる。
「ありがとう、助かる」
「どういたしまして。また足りない物があれば来てください」
店を出た時には、両腕に荷が増えていた。
だが、必要な物はだいたい揃った。暮らしを始める形だけは、今日のうちに作れる。
イスカの宿からの運び入れを手伝ったので、夕方前には三人の新住居暮らしのほとんどの作業が終わっていた。
イスカの荷物は水袋や畳まれた外套、細剣の手入れ道具、予備の靴紐、薄い毛布。それから小さな箱が一つ。
「その箱は何?」
リナが聞くと、イスカは一瞬止まってから言った。
「……お菓子入れです」
「待って、イスカすでに持ってたのにもう一個買ったの?」
「こちらはもう入らないので」
真顔で言い切る声が少しだけ早くて、リナが少し吹き出していた。
荷を運び終えた後、机の上に置きっぱなしだった小瓶が目に入った。
金色の液体が、魔灯の光を受けて薄く揺れている。
「そういえば⋯⋯まだ飲んでなかった」
リナが紋滓の入った小瓶を手に取る。
「明日にするか?」
僕が聞くと、リナは首を横に振った。
「ううん、今飲む。先延ばすと、何だか怖い」
そう言って、小瓶を指先で持ち直す。
ドーレマンに渡された、位階を押し上げるための希少な魔物由来の紋滓。
明日からルルレーダンの迷宮に潜るなら、使うのは今日の方がいいだろう。
「希少な紋滓って言っていたな。今まで飲んだものと大きくは変わらないんじゃないか?」
「うん、そうだよね⋯⋯」
リナは小さく息を吐いてから蓋を開けた。
匂いはほとんどない。少しだけ眉を寄せたあと、迷いを切るみたいに一息で飲み干す。
次の瞬間だった。
「……っ」
リナが胸元を押さえる。
苦しそうというより、不意を突かれた顔だった。
「リナ?」
「だい、じょうぶ……熱い」
胸の紋があるあたりへ手を当てたまま、浅く息を吐く。
その熱が一気に全身へ走ったみたいに、肩がわずかに震えた。
熱が引く代わりに、今度は空気が変わった。
リナがゆっくり目を開く。
「……変。体が軽い? 急にすっと軽くなった」
イスカが前へ出て、リナの胸元へ視線を落とした。
じっと見て、それから短く息を吐く。
「……ちゃんと線が増えています」
リナが顔を上げる。
「本当? 良かった……」
「はい。おめでとうございます、位階1です」
それを聞いた瞬間、リナの肩からすっと力が抜けた。
空になった小瓶を机へ置く。
リナはもう一度だけ胸元へ触れたあと、手を下ろした。
「痛くはない?」
僕が聞くと、リナは首を振る。
「もう大丈夫。さっき一瞬だけ熱かった。でも今は何だか体が軽い。前よりたくさん動けそう」
そう言ってから、部屋の隅へ歩いていく。
そこには、今日運び込んだガイールの遺品があった。
布に包んだ直剣とレッグガードだ。
リナはその前で立ち止まる。
少しだけ黙ってその包みの上に手を置いた。
「……位階、上がったよ」
小さな声。
だが、はっきりと届く声だった。
「明日から迷宮に行く。だから――力を貸して、ガイール」




