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閑話「温泉と位階」

  

 ギルドから呼び出された僕たちは、受付に案内されて副支部長の部屋の扉を開けた。

 瞬間、書類と墨の匂いがむっと押し寄せてくる。


 机の上には書類が山のように積まれ、その隙間からかろうじてドーレマンの顔が見えた。いつもの厳つい顔が今日はさらにひどい。

 寝ていないのが一目で分かった。


「⋯⋯来たか」


「ドーレマン、大丈夫?」


 リナが思わず聞くと、ドーレマンは鼻で笑った。


「⋯⋯大丈夫に見えるなら、お前らの目は節穴だ⋯⋯」


「見えないから聞いたんだけど⋯⋯」


「⋯⋯あぁ、すまん。もちろん大丈夫ではないが、やるしかない。⋯⋯これは俺の責務だ」


 そう言ってから、ドーレマンは机の上の束を手で寄せた。


「今回の報酬の件だが、まだ調整に時間がかかっている。領主側とギルド側で書類が多すぎるんだ。きちんと形にしてから渡す。少し待ってくれ」


 僕たちは頷いた。机の上を見れば、それくらい忙しいことはよく分かる。

 だが、次の言葉は少し意外だった。


「⋯⋯で、お前らは何でもう依頼を受けているんだ。あれからまだ数日しか経ってないぞ」


「⋯⋯じっとしてる方がつらい。強くならないといけない」


 リナがすぐに返す。

 ドーレマンは数秒だけ黙ってから、太い指で机を軽く叩いた。


「相手はもう逃げ切っている。今お前らがやるべきことは、焦って足跡を追うことじゃない。休める時に休んで、頭と体を整えることも必要だ」


 正しいのは分かる。

 だが、バビルに逃げられたままという不安と怒りは、まだ僕たちの胸の底へ残っていた。


 そんな僕らの顔を見て、ドーレマンは机の端に置いてあった赤い木札を三枚、こちらへ滑らせた。


「⋯⋯街の南西にある湯屋だ。今回の件の報酬の一つとして、先に押さえさせた」


「⋯⋯報酬で温泉?」


 思わず僕が聞くと、ドーレマンは眉をしかめる。


「文句があるなら返してくれていいんだぞ。未だに報酬を確定できていないから、これくらいなら先に回してやろうと思って俺が手配した。あそこは飯もうまいし、特別な回復湯もある老舗だ。体を休めるにはちょうどいい。⋯⋯俺も行きたいくらいだ」


「⋯⋯行く」


 うまい飯に反応したリナが木札を急いで懐へ入れる。すぐ横でイスカがぽつりと言った。


「子どもを想うお父さんみたいです」


「ああ⋯⋯? お父さん⋯⋯? なぜ⋯⋯もういい。今は何も考えられない⋯⋯」


 過労で頭が回っていないようだ。


「⋯⋯行きましょうか」


「だな。ここにいても始まらない。ドーレマンの邪魔になる」


 僕たちはギルドを出て、指定された南西の道へ向かった。

 街の中心から離れるにつれ、空気が少しずつ変わっていく。


 荷車の音が遠のき、石畳の幅が広くなる。

 街路樹の葉が擦れるさらさらとした音が風に乗って聞こえた。商館と宿が並ぶ区画を抜けた先には、緩く登る坂道がある。


 その先には低い木柵と植え込みで区切られた湯屋や休み処が並んでいた。

 ドーレマンから聞いた湯屋は、その保養地の一角にあった。


 石と木で組んだ低い柵が敷地を囲い、門をくぐると磨かれた板敷きの回廊が続いている。

 回廊の内側には浅い池があり、丸く整えた低木と白い石が置かれていた。さらに奥では、壁と屋根の向こうから白い湯気が昼の空へ薄く流れている。


 ここ一帯は小高い丘の上らしく、南西側は街壁の外までよく見えた。

 畑の緑、細い小川、その先へ続く街道。街の中とは思えないほど開けている。


 受付にいた年配の女は、僕たちの木札を見るなり目を細めた。


「ああ、副支部長のところの子たちかい。話は聞いてるよ。今日は一番奥の湯船を使いな。景色もいいし、薬草の混じった湯だ」


「報酬で温泉って、ほんとにあるんだね」


 リナが小さく言うと、女は笑った。


「あの人なりの気遣いだろうさ。あんたたち、ケガしてるんじゃないのかい。休ませるなら『今』だってことさ」


 僕は聞きながらもつい周りを見ていた。

 木の匂いも空気も、普段使う宿とはまるで違う。

 こういう場所へ来るのは初めてで、説明より先にそっちへ意識が向いてしまっていた。


「男湯は左、女湯は右。上がったあとに蒸し風呂へ入るなら、脱衣場の中に置いている薄い服を着てから行きな」


 女は湯桶と手拭いを渡しながら続ける。


「今日は奥には客を回さないから、しばらくは貸し切りだよ。副支部長に感謝しな」


 僕たちは男湯と女湯に分かれた。

 脱衣場の扉を開けた瞬間、木と湯の匂いがふわりと立つ。


 まだお湯は見えていないのに、もう肩の力が抜けるような匂いだった。

 服を脱いで中へ入ると、浴場は思ったより広い。

 石を組んだ大きな内湯の向こうに半分屋根のかかった露天が続き、その縁は岩と檜で丸く整えられていた。


 見上げれば、その先は空だった。


 昼の光が湯面へ落ち、白い湯気の隙間で細かく揺れている。湯口から溢れた湯が細い水路を流れ、石の間を小さく鳴らして流れていった。


 僕はお湯へ足を入れる。


 熱い。だが、すぐに慣れてくる。

 深く息を吐いてゆっくり肩まで浸かると、背中に貼りついていた疲れがじわじわ緩んでいく。

 首筋へかかる湯気はやわらかく、露天から吹き込む風は少しだけ冷たい。その境目がひどく気持ちよかった。


「ふう⋯⋯」


 しばらくしてから、胸元へ目を落とす。


 湯の中で、紋がいつもよりはっきり見えていた。

 中心にある元の紋章の周りに、薄い層が一枚重なっている。黒い痕のように潰れていた部分も、少し薄くなってきているのが分かった。


 ガイールが見せてくれた紋章を思い出す。位階が上がれば、紋の周りに層が増えていく。


 しばらく露天の岩へ背を預けていると、その向こうからリナとイスカの声が聞こえてきた。盗み聞きみたいになるのが嫌で、僕は先に上がることにした。



―○―○―○―○―○―○―○―○―



「ねえイスカ、見えてる?」


「はい、見えてます。リナの紋章、やっぱり少し違います。位階0でしたよね?」


「うん、そのはず。え、もしかして気付かないうちに上がってた?」


「いえ、それはないと思います。私の時は紋の辺りが熱くなって、体が一気に軽くなりました。上がれば分かるはずです」


「ふうん。私はそんな感じじゃなかった。あ、もしかして、禁忌覚醒のせいかな?」


「⋯⋯リナ、やはりそうだったのですね。バビルと戦った時の様子で、何となくは分かっていたのですが⋯⋯」


「うん、まあ、イスカには言ってもいい」


 イスカは少し目を細めた。


「話してくれてありがとうございます。ですが、納得しました。紋の線の流れが普通と少し違います」


「流れが違う?」


「はい。普通なら芯の外へ素直に層が重なっていきます。だが、リナのは一部が横へ流れるみたいに伸びている」


「それが禁忌覚醒だからってこと?」


「おそらく。禁忌覚醒は分かっていないことも多いので断定はできません。今は気にしすぎなくていいと思います」


 リナは少し黙ってから肩をすくめた。


「それならちょっと安心した。⋯⋯それでイスカの方は?」


「私は位階2なので、元の紋章の周りに二層ある感じです」


「へえ。ちょっとしっかり見せて」


「いえ、私のはいいので、リナの紋章を調べておきたいです」


 そう言ってから、イスカが少し視線を落とした。


「⋯⋯触って確かめてもいいですか?」


「え? ⋯⋯触るの?」


「流れは指で追った方が確かなので」


「じ、じゃあ、少しだけだよ」


 イスカの指先が湯の中からそっと伸びる。紋章の外縁をなぞられた瞬間、リナの肩がぴくっと跳ねた。


「ちょっ――、待って。くすぐったい」


「動かないでください。今、外へ伸びているところを見てます」


「そこ、変にくすぐったいんだけど」


「⋯⋯本当ですね。ここだけ少し伸び方が違います」


 今度はリナがじっとイスカの胸元を見た。


「じゃあ、そっちも」


「え、私もですか?」


「二層あるんでしょ。見てみたい」


 リナが手を伸ばして、イスカの紋の輪郭を軽くなぞる。触れた瞬間、イスカの背筋がぴんと伸びた。


「⋯⋯そこは、少しだけ、だめです」


 そこでようやく、リナがふっと笑った。


「あ、ほんとだ。綺麗。ちゃんと二層ある。⋯⋯いいなぁ⋯⋯イスカ、何でそんなに」


「リナも経験は重ねていますから、すぐに上がりますよ。非戦闘職の紋章は上がりにくいので。これから私も協力します」


「う、うん、ありがと」


 リナは自分の紋と胸に目を落とす。


「⋯⋯私も頑張って⋯⋯強くなりたいから」


「もちろん、これからもっと強くなれますよ」


 少し冷たい風が抜け、湯気が流れる。


「そういうふうに言ってくれるんだ」


「お姉さんですから」


 岩壁の向こうへ抜ける蒸気の音が静かに続いていた。



 ―○―○―○―○―○―○―○―○―



 僕は蒸し風呂の中にいた。


 中は木の香りが濃く、湿った熱がゆっくり身体へまとわりつく。壁際の長椅子へ腰を下ろし、手拭いで前だけ隠したまま息を吐くと、湯とは別の汗がじわりと滲んだ。

 湯から上がったばかりの体には、むしろ気持ちがいい温度だ。


 僕は胸元へ目を落とす。蒸し風呂の湯気の中だとその違いがいつもよりはっきり分かる気がした。


 そのとき、蒸し風呂の引き戸が開いた。

 振り向くより先に、リナの声が一段大きく跳ねる。


「ちょ、ちょっと! アーテル、何でいるの!」


 そこでようやく、頭が追いついた。


 二人とも薄い服をちゃんと着ている。対して僕は、手拭い一枚のままだった。


「それより、なぜ裸なのですか?」


 蒸し風呂へ入るなら脱衣場に置いている薄い服を着ろ、と言われていた気がする。

 完全に聞き流していた。


「⋯⋯悪い!」


 反射で立ち上がりかけて、慌てて座り直す。手拭いが落ちそうになった。


「聞いてなかったんですか」


「聞いてた、つもりだった⋯⋯」


「つもりって」


「戻る! 今すぐ戻るから」


「早く着てきて」


 逃げるように脱衣場へ戻り、棚の上に畳まれていた薄い服を引っ掴む。

 袖を通しながら思い出した。

 番台の横にも同じ服が重ねてあったような気がした。


 今度は着直して蒸し風呂へ戻る。

 引き戸を開けると、さっきと同じ熱気が流れてきた。 

 木の香りの奥に、湯上がりの石鹸と湯気が少し混ざっている。


 壁際の長椅子へ座り直すと、リナとイスカは僕から距離を取って端の方に座っていた。


「⋯⋯次からは、ちゃんと話は聞いて」


「⋯⋯わかった」


「お姉さんなので、私は別に構いません」


「私は困るの!」


「すまない、反省してる」


 僕が言うと、その横でイスカが僕の胸元を見た。


「ところで、アーテルの紋章も見ていいですか?」


 僕の紋章も? ――たぶん、その言い方だとリナの方はもう見たのだろう。

 リナはその言葉にぎょっとした顔をしている。


「ち、ちょっとイスカ――」


「――見たら何か分かるのか?」


「単純に興味があるだけです」


 イスカが一歩近づいてくる。


「興味⋯⋯?」


「では触ります」


 イスカが有無を言わせず触ってくる後ろで、リナが少し顔を赤くしてちらちらと見ては慌てている。

 何なんだ。

 『紋崩れ』が珍しいから見たかったのだろうか。


「動かないでください」


「⋯⋯悪い」


 イスカの指が紋章の外側を短くなぞる。

 少し間を置いて、頷いた。


「アーテルの紋章、見たことがないものです。黒い痕のようなところは、どうなっているのですか?」


「僕にもよく分からないんだ。『紋崩れ』と言われたことはある。不明紋(アンノウン)らしい」


 そう答えると、イスカの指がもう一度だけ、僕の紋の外縁を確かめるように軽く触れた。


「⋯⋯見えにくいのは確かです。ですが、私には『紋崩れ』というより⋯⋯」


 そう言って考えるような素振りの後、イスカは指を離した。


「そういえばイスカは今、位階2だったよな。どんな感じなんだ?」


「見てみますか?」


「あぁ、ガイールの位階3は見たことあるんだが、属性紋(エレメント)は見たこと――」


「だ、ダメに決まってる!! 二人とも馬鹿なの!」



―――



 蒸し風呂を出た後は、庭の見える休み処で座ることにした。


 板敷きの床へ腰を下ろすと、湯上がりの身体に風が気持ちよく通っていく。

 隣ではリナが小さく息を吐き、イスカも何も言わず庭をぼんやりと見ていた。


 三人の間にゆっくりとした時間が流れていく。

 つかの間の休息になるのかもしれない。

 ただ、こういう時間もたまには悪くない――と思うのだった。


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